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空虚な言葉

大燈国師に関連する昔のメールを検索していたら、こんなものがあったので、備忘録として転載しておきます。

2017/03/05 11:03

不安なのでしょうね。

水をそーっと冷やしていくと、0度以下になっても凍らないそうです。
過冷却と言います。
そこにちょっと刺激を与えると一気に凍って行くわけです。

悟りとかと言うのと似ていると思います。
深く禅定にある時、何かの縁で覚醒するものがあるのでしょう。
それが「信」となって固まるのだと思います。
不思議な現象ですが、確かにそういうことがあります。
信決定ですね。
だから、本気になって人に勧めることが出来るのでしょう。

でも、
それは思い込みだと思います。

大事なことは、悟りでも仏でも涅槃でも極楽でも、ないです。
そのようなものを修行の目的に据えることは出来ないです。
分からないものだからです。
誰か他の人が言っているだけのものだからです。
人から言われたものを目指しても、
それは空想の世界です。
だって、言葉だけ聞いても、それそのものは分かりません。
分かったつもりになっていると、大間違いを犯します。

大事なのは、
箇事究明そのものです。
自己探求そのものです。
それは「今」を究明することです。
自分の、今の手元・足元です。
その確信・信决定だけが大切なものです。

今に徹したら、一大事因縁で、悟りということが起きて、
換骨奪胎して、人格一変して、
三界の大導師だ、
という「お話」をされるわけですが、
そういうことを言うこと自体が詐欺的です。

道元禅師は、そういう「悟り」の話が大嫌いだったに違いないと思います。
だから、「修証一如」と言われたのだと思います。
「悟り」というエサをぶら下げることは、
学人を惑わし、道を誤らせてしまうからです。
道元禅師も、そういう「言葉」に惑わされた経験があるからこそだと思います。
「本来本法性、天然自性身。三世の諸仏、甚(なに)によってか更に発心して菩提を求むるや」
この「修」とか「証」とかの、
空疎なただの「言葉」に惑わされたことを痛切に反省されたのだと思います。

大燈国師は、こう歌いました。
  三十あまり我も狐の穴に住む今化かされる人も理
これも言葉に惑わされていることを言っているのだと思うのですが、・・

念のためネットで確認してみようと思って、調べていたら、
すごく面白いサイトを見つけてしまいました。
http://breath-awake.com/index.html
著者は不明ですが、
どうやら、井上哲玄老師の弟子のような感じです。
少林窟門下かと思うような言い方なのですが、少しだけ違っていて、面白いです。
哲玄老師の教えなど聞いたこともなかったですが、
こうやって弟子が師匠の教えを伝え・広めて、師匠を顕彰して行くのですね。

なんだか、話がそれてしまいましたが、
お送り頂いた詩を読んで、空虚な言葉の「から回転」だなあ、と感じました。
通常は、そのことすらも分からないのですね。
言葉と実体との絶対的な区別が付いていないと、そうなってしまうわけです。
そこを気づかせる少林窟の指導は、傑出したものだと思います。
  幽雪 拝

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