末期の救い
謹啓
先日は、久し振りにお声が聞けてうれしく存じました。
いつもながら、現場の生の声に接するようで、有り難いことです。
さて、今回は、何か書いておかなければいけないような気がしています。
悟りということ。末期の救いということ。
「EOの悟りと釈尊の悟りと同か異か。」
私は、この問いに非常に戸惑いを覚えます。何かしら非常にしっくりしないものを感じる。
そんなことどうでもいいじゃないか、というのが本音なのですが、ことが「悟り」という高尚そうな話ということになると、いい加減にもできないような気がしてしまいます。
問題は、その問いがどれほど切実なものであるか、ということです。
単に知的興味というだけならば、それこそどうでも良いことでしょう。
「悟り」という言葉は、禅において非常にナイーブなものになっています。あまりにも際どく微妙な言葉だから、曹洞宗では禁句にしてしまっているくらいで す。そうなのです。曹洞宗では、見性だの悟りだのと言うことはご法度なのです。その根拠は、道元禅師の書かれたものの中に見性を否定しているような文言が ある、ということらしいです。臨済宗では、見性というものをバーゲンにかけることで、その真を失ってしまいました。今や臨済宗は、奇怪な体育系的集団に なっているようです。少なくとも公案禅などではなく、丹田禅というべきものになっています。
結局、「悟り」とは何なのか、ということが分からなくなってしまっているのです。そりゃそうです。悟った人がいないんだから、分かるはずがありません。悟ったようなことを言う人は沢山いるようですが・・・。
ただ、私の考えでは、「悟りとは何か」とか、「誰と誰の悟りは同か異か」とか、「誰の悟りは浅いか深いか」とか、「誰それは悟っているのか、いないのか」 というような問いは意味が無いと思っています。おそらく、釈尊にそのような問いをすれば、彼は「無記」で応えるはずだと思います。そのような問いは、その 人に解放をもたらさないからです。
野次馬根性からすれば、非常に面白い問題であり、知的好奇心をかきたてるには格好の物だと思いますが、それは、人の苦しみを暴き出し、破壊するものではなく、ただの知的玩弄物に過ぎません。
かつて、EOが「後、十秒で死ぬとしたらどうか」と問うた時、私は、初めてこの「悟り」の呪縛から離れました。正にそれまで「悟り」が呪縛だったのです。 それは何かしらの「結果」を求める心が元にあったからなのでしょう。それを「求心」とも呼びますが、そういうものがボコッと落ちたのでした。
驚いたことには、そこが、それこそが、求めていたものだったのです。そこに「只管」の当体があったからです。
あまりにも逆説的ですが、「悟り」の無意味なる地点に至って、「悟り」が無用になったのです。そうしてみると、「悟り」というものとか、少林窟でやかまし く言う「一隻眼」だの「大悟」だのということが、非常につまらなく感じられます。真剣そうな振りをしていても、ただの遊び事だからです。
そこで、末期の救い、という話です。
先ず、ダンテス・ダイジの言葉を拾ってみます。
ここで「君」と呼ばれているのは、通常の意識での私たちです。頭の中の電気信号です。
そこには、絶対に救いはない、と断言されています。
しかし、一方では、「有情非情同時成道。山川草木悉皆成仏」なのです。既に。
だとすれば、救いようはないし、救うようもない、ということになります。
何もできない。
「救う」などという言葉は、傲慢不遜ですらある。大きな勘違いに過ぎない。
自ら末期の人となり、心の果てた者となって、共に只在ることしかない。
そのことが、共鳴現象を引き起こし、人をして寂滅に導くことを、僅かに期待しながら・・・。
十年来、このことを語ることがなかった。語る相手がいなかったからです。
今、あなたに何か語らなければ、と書き始めてはみたものの、支離滅裂、言葉足らず、曖昧模糊なることお許し下さい。今はこれ以上には書けない。
では、ご法体ご自愛下さい。
合掌
平成十六年五月一日
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