"侵攻ルート"はまさに風林火山!:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart1【合戦場の地形&地質vol.5-1】
「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。
戦国武将としての経験と力量の差もさることながら、武田軍が2方面から侵攻してくる等、大河ドラマでもかなり絶望的な演出がなされていました。
そのような印象の強い「三方ヶ原の戦い」では、どのようにして地形&地質が関係していたのか?見ていきましょう。
「三方ヶ原の戦い」の概要
時は1573年1月。
「姉川の戦い」から約2年半後のことです。
織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利したとは言え、織田信長は小谷城攻略に時間を要しています。
※詳しくはコチラ👇
織田信長が小谷城陥落に注力している隙を突いての侵攻というタイミングには、「さすが武田信玄」と感嘆します。
侵攻ルートは?
まずは地形図を見てみましょう。
当時の勢力図です。
緑色が織田信長、青色が徳川家康、赤色が武田信玄です。
織田信長は当時、幕府に影響力を持っていたのでこれ以上だったでしょうが、小谷城の攻略中ということで小さめに見積もりました。
また現在の都道府県境以外の国境(くにざかい)は、様々な資料を参考にして描いてますので正確ではありません。
侵攻ルートです。
まずは別動隊である山県昌景(やまがたまさかげ)軍が諏訪(すわ)から三河国(現在の愛知県東部)へ進軍(上図赤点線)。
その数日後、武田信玄率いる本軍は甲府から諏訪へ向かった後に、Uターンするかたちで遠江国(現在の静岡県西部)へ進軍します。
(※参考:ウィキペディア)
2手に別れるからには、完全に挟み撃ちになるかたちかと思いきや、北からの2方面でした。
当時すでに武田領である駿河国(現在の静岡県東部)から遠江国に攻め込んでも良さそうですが、なぜそうしなかったのでしょうか?
あくまで私の推測ですが
1つは、駿河はまだ領有し始めで落ち着いていないということもあったでしょう。
豪族らはもともと今川家配下でしたから、今川にゆかりのある家康を攻めると知れば、裏切らないまでも情報を流したり等、不測の事態が発生する恐れがありそうです。
そしてもう1つは、やはり「地形」です。
別動隊の山県軍と武田信玄本体の侵攻ルートの地形が明らかに違います。
この違いについて考えてみると「これぞまさに風林火山!」と1人で勝手に唸ってしまいました(笑)
どんな違いか?次回へ続きます。
お読みいただき、ありがとうございました。
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