見出し画像

犬居城への進軍ルート:「三方ヶ原の戦い」を地形・地質的観点で見るpart10【合戦場の地形&地質vol.5-10】

歴史上の「合戦」を地形・地質の観点で考えるシリーズ。

「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」は、徳川家康が武田信玄に大敗した戦として有名です。
前回は徳川領内での武田軍の動きを大局的に見ました。
すると、思った以上に「断層沿いの街道」が進軍に利用されていた可能性が浮かび上がりました。
前回記事はコチラ👇

今回はそれぞれの場所を詳しく見てみましょう。


武田信玄本軍南下ルート

徳川領内での武田軍の動きをもう1度見てみましょう。

武田軍の侵攻ルート:スーパー地形画像に筆者一部加筆

武田信玄本軍が青崩峠を越えて犬居城へ向かうまでのルートを詳しく見ましょう。

青崩峠南方:遠江国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

まずは古地図から。
青丸が青崩峠です。
街道は谷沿いに真っすぐ南下し、「小畑」という集落(黄丸)に至ります。
この集落には4本の街道が通り、交通の要衝になっています。
武田軍は南へ至る街道を通って犬居城へ進軍したと思われます。
なお南西へ至る街道を通れば長篠城へ行くことができるため、おそらく武田本軍が小畑集落に至るタイミングで、別動隊の状況によっては援軍を向かわせる作戦だったかもしれません。

さて、この「小畑」はなぜ交通の要衝になったのでしょう?

青崩峠ー小畑集落周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

青丸が青崩峠、赤丸が「小畑」です。
このあたり一帯では、かなり広い平坦地になっていますよね。

小畑周辺の地形図:スーパー地形より抜粋

拡大して国土地理院地形図をかぶせました。
現在でもかなり多くの人々が住んでいるようです。
これを見ると、何か見えてきませんか?
小畑集落の西の端あたりから南南西方向に「線」が見えるんです。
もう少し引いて見ると分かりやすいかもしれません。

小畑周辺の地形図②:スーパー地形より抜粋

どうでしょうか?

小畑周辺の地形図③:スーパー地形画像に筆者一部加筆

こんな感じです。
もうお気づきの方もいるでしょう。
これは断層です。

断層の交差点

しかも1本ではなく、2本の断層が通っています。

小畑周辺の地質図:スーパー地形より抜粋

北北東ー南南西が中央構造線で、南へ伸びているのが赤石劣線です。
小畑はこれら2条の断層が交差する場所でした。
過去から繰り返された断層運動によって周囲の岩石が脆くなって侵食が進み、平野がつくられたのでしょう。
そして断層沿いにできた谷地形を人間が街道として利用したのです。

平野があるから人が集まり、人が集まったから交通の要衝になったというよりも、平野と街道ははじめからセットだったということですね。

さらに南へ

武田軍は天竜川沿いの街道をひたすら南下し、犬居城へ向かいます。
前回記事やこの記事の冒頭の図では、犬居城の近くギリギリまで天竜川沿いを行軍し、支流の気田川(けたがわ)との合流点から東進するルートを想定しました。
しかし実は、もう1つルートがあったのです。

犬居城へのルート:遠江国絵図(国立公文書館デジタルアーカイブより)に筆者一部加筆

青丸が犬居城で、赤点線の丸で囲った場所は「秋葉山(あきはさん)」です。秋葉山は標高885mの山で、そのほぼ山頂部に神社があります。
「秋葉山本宮秋葉神社」という、ものすごく由緒ある神社です。

この神社には古くから名だたる武将が日本刀を献納しており、その中には武田信玄の名前もありました。

この観光サイトでは景色を一望できる山頂部の入り口に黄金の鳥居が立っている様子が紹介されています。
これはぜひ行ってみたいですね。

・・・と、話が逸れてしましました(;^_^A
上の図の黄丸の「上平山村」の南に分岐があり、そのまま天竜川沿いを南下する街道と、山に入って秋葉山の東を通る街道があります。
どちらにしても、何故か犬居城にはつながっていません。
しかし村々は点在していたので、大きい街道はなくても道はあったでしょうから、ピンク点線か黄点線のどちらかのルートで進軍したと考えられます。

いくつかの資料の記載から、もしかしたら黄色点線のルートを通ったのではないかと思われます。

それについては次回お話しします。

お読みいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?