【エッセイ】ことばにするもんでもないのにね【言語化】
🌸ことばにするもんでもないのにね
🔍言語化スキルというものが捉える世界
これは私の個人的な嗜好なのであって、別にそのような用例全般にヘイトを向けるわけではないのだけれど、「言語化力」ということばが、どことなく好きでないのだ。
ああそれと。言語化スキルとか言われてしまうと、なおさらに好きではない。
いや、言いたいことは大変によく分かるつもりなのだ。自身の思考をことばにしようとするのは、容易ではない。
日々、ことばに囲まれた生活を送ることが多いであろう私たちであっても、ことばとは、扱い難いものだ。
読みやすさだとか、文法、語彙、絶妙なニュアンス(?)。
やあ、難しいものだ。一方、卓越したことばの使い手は、言語化スキルのある人間というのだろうか。それは一体、何者なんだ。
言語化スキルなどは、プレゼンテーションや意思伝達の場において必要とされることが多いようだ。そうでなくとも、うまいように人に伝えることで、仕事上の成功を求める者に向けられた概念といって、差し支えないように思う。
言語化スキルが高い者は説明や話し方が上手い。故にビジネスで成功するはず――こう考えると、このスキルを巡る世界は大変に狭い枠の中で進んでいるのだ。(私のなかでは、だが)
もう嫌いな理由は説明しきったのだが、もう少し蛇足にいこう。
そもそも生きていくうえで、いわゆる言語化の機会はたくさんある。大人になると、自分から狭いフレームワークに飛び込むようになっているけれど、朝起きてから夜寝るまでに言語を使わないことなど、おそらく、ほとんどない。頭の中でも、会話でも、あるいは視覚的に、聴覚的に、確実に、どこかで言語に触れている。
世の中はあえて、スキルだとかちからとか、外発的に成長することのできるカテゴリーに「言語化」の概念を振り分けているけれども。
少なくとも人間として生まれてきた者は、ほとんどの場合、言語を扱う力を養い、またそれによって思考を進めることができるのだ。
言語化や言語化スキルの問題なのは――ひとのことばが社会の許容する範囲の表現なのかどうか――そういう基準の上でひとのことばを判断するところにあるのだ。
なんというか、勘弁してほしいのだ。物事が円滑に説明できるかどうかは、外発的に鍛えられるものではない。内的に、言語に触れているかどうかとか、言語的な論理をどこまで追求してきているかが、日々、言語運用者として問われるのであって、画一的な方法論ごときで真っ当な成功者になることなど、多くの人間にはないのだ。
ただしかし、悩む者が世の中に多くいることは確かである。確立されている需要と供給に対して、ゴチャゴチャいわんと、それはそれで一つの市場を形成しているのだから、受け入れて物事を考えていったほうがよいのだ。
それで消費者が何らかの経験をしているのならとてもよいことだ。私だって、そういうものを学んで、悪い方に進むことはないのだ。
ただ、人間としてどういう方向に物事が進んだらいいのか。それを考えるのが、人文学を学んできた者の日常というものだろう。浅学の身が言っていいのかはさておくとして。
じゃあどうしてこれを導入に書いたのか。
世の中には言語化スキルというものを育んで、物事の思考力や意思疎通を円滑にしようとする者がいるといういい事例だからだ。
私がこれから書くのは、一方で大変に後ろ向きな話――言語化はしすぎてもいいことなんかないんだ。そんなことである。
🖼考えすぎだ。想像のなせる技。
頭が痛い。考えすぎたからだ。なぜ考えすぎてしまうのか。
頭がいっぱいいっぱいだ。ことばで埋め尽くされている。なぜ。
とめどなく出てくることばの数々。いつ考えたかもわからない私見が山程出てくる。褒め言葉も、悪口も。なぜか。
生きていると一度くらいはこのようなことがないだろうか。もしなければ、少なくとも私にはあることだけ伝えておこう。
言語には創造力がある。「言語の創造性」として、ノーム・チョムスキー、言語学者が唱えた概念だ。ちょっと試してみよう。
あなたは上の文を人生で見たことがあるだろうか。だとしたら申し訳ない。実験は上手くいかない。
もし見たことがなければ。上の文でなにか想像できることはあるだろうか。意図は汲めるだろうか。おそらく、非現実的な状況であることは確かだが、その場面が想像できないということはないだろう。
残念ながらここで言語学の議論を進めるということはないので、あまり深堀りしないが、端的に言えば、人間は文法的に、意味的に、無限に新しい文を創造することができる。そう考えられているということだ。
多くの場合、私たちはこれを実感できるはずだ。会話でも、SNSでも、見たもの聞いたものだけで会話をすることはほとんどないだろう。
生きていて、全ての発話が何者かの引用であったらどれほど大変だろう。記憶することも恐ろしい。
私たちは基本となる文法知識をもとにして、非常に様々なことを考え、ことばにすることができる。ようはそういうことが言いたいのだ。
大事なのはそれが、私を考えすぎな状態に陥れるのだ。どのような事柄であっても。それはつまり、現実的でも非現実なことでも、考えてことばにすることができるために、私は必要なことも不必要なことも考える機会を得てしまうのだ。
故に、混乱してくるのだ。これは非常に由々しき事態である。
大体の場合、考えすぎて問題なことというのは、想像の範疇のものが多い。
未来への不安、自身が感知しない悪意の妄想。
進路に向かって上手くやっていけるのだろうか。あの人は自分が嫌いなのではないか。
こういうものがよく諌められているのは、おそらくよくご存知のことだろう。ありもしないことを考えるなと。
とはいっても、思考が可能なのだから止めようもないのだ。
体を動かしていれば考えないというのは実にそうで、そういうときは散歩やら運動をすれば大変調子も良くなるのもよく分かる。だが、結局それは逃避なのだ。
まあ、己に制限を課すことの重要性はわからないこともない。
しかしだね、君。精神的にそういう傾向になってしまったらば、考えてしまうほかないのだよ。そう言いたくなるものなのだ。
📜人生。ことばにするものも選ぶか。
本稿で言いたいことは、実はこれで終わりである。普通なら、ここから助言的に改善案を提示するものなのだろうが、なんといっても、こういうことでしかないのだから、自分がかわいそうだと思うほかない。
ただ、やはり考えすぎなときは、過剰にそうなっている自覚は一度や二度ではない。止められる状況ではないから、それを延々としていたら朝になっていることも、おそらく一度か二度はある(相当に稀だが)。
世の中では、そういうことで苦しむものもそれなりにいるようだ。SNSは悲鳴で満ちている。まあ、しょうがない。私からなにか都合のいいことばを届ける勇気はないのだ。
だが、思うに。言語化スキルといって、向上的に、非言語的情報を言語化しようとする者がいるのならば、一方で、言語化のリスクを考える者もいていいのかもしれない。
それは、考えるなということではなくて、ことばにして、自然とどこかに届けようとしてしまう私たちの習性を、後々振り返っておくべきだということだ。
世の中は、コミュニケーションの総体である。ポジティブなことであろうとネガティブなことであろうと、言語化した情報は容易に伝達できる。
考えすぎな事柄を、自分のうちにずっと秘めていられるのなら問題はないだろうけれど、ことばにしたことは、そう簡単に手放せないものだ。
そうして、何者かにそれを共有してしまったらば、考えすぎなことが人生に影響を与えたということになる。
良いか悪いかといえば、どちらにでもなるだろうからこれも放っておいていい類の事象なのだろうけど、悪い方に進んでいった経験を持っているのならば、リスクは検討せねばならないだろう。
リスクを検討してどうなるのか。残念ながら、別にそれで人生が良い方に進む確約は誰もできない。しかし、想定しておいて損はない。
考えることは止められない。ならば、大変多くのことを考え、事実から予見する物事を増やして、適正な道を進む余裕を内側に持っておくことが、私のような人間には一番ちょうどいいのではないだろうか。
それができたら苦しんでいないのだが。なんともいいがたい屈辱感を覚える。これが考えすぎということか。まったく、何でもかんでもことばにするもんでもないな。
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