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研究者って理屈っぽい?

ゆーです、こんにちは!

研究者って論理的な人間っていうイメージが強いのではないでしょうか?
少なくとも、10年前までボクはそう思ってましたね。
理屈っぽくて、とっつきにくい種族。
いわゆる、めんどくさい人たち。笑

ああ言えば、こう言う、みたいな。
何でもすぐに論理的にしゃべる人たち。

嫌ですねー。笑

で、自分がそっち側になってみて思うのが…。
うん?一言で論理的では片付けられないぞ?と。

めちゃくちゃ共感を大事にしてて、論理的だけど物凄く応援してくれる人もいます。
そういう人って、自分のやってることをうまく導いてくれるところもあって、なんなら頼りになる存在です。

一方で、論理が成り立ってないからと否定する場合もあります。
(ボクもたまにやってしまいます…。)
ただ、これにもいくつかパターンがある気がしますね。

ひたすら矛盾をついてくる人
はい、こういう人はもう、ただただめんどくさい。笑
関わらない方がメンタル的にも楽で幸せです。
ああいう人たちって、自分の構築した理論を振りかざすことに幸せを覚えているので、相手にしなくていいです。笑

他のパターンとして、根本的なズレを修正しようとする場合です。
細かいところの矛盾は、実は後々考えると矛盾してなかったりすることもあるので気にせず、「そこ間違うと全部狂ってきてしまうんじゃない?」と指摘できる人たちです。
こういう人たちは、こちらを否定してくる人でも頼りになります。
人間、自分のやってることを客観的に見えなくなりますからねぇ…。
「確かに、これだと全部おかしくなっちゃうなぁ」と思えることを言ってくれる人は重宝してもいいかもです。

と、いくつか書きましたが、そうは言っても結局、何かを伝えるところはコミュニケーションです。
論理的の度合いは、伝える側の匙加減が大事です。
めんどくさいなぁと感じてしまうのは、そうさせた研究者が悪い。笑

でも、思っている以上に研究者っていろんな人がいますし、なんなら“研究者っぽくない人”もたくさんいます。

確かに仕事の上では、議論がどうしても論理的になるので、そういう人たちって何が言いたいのか分からなくて、ちょっと場の空気が変なことになってしまうことも…。苦笑

でも、個人的には感性の部分も大切にしたい
ボク普段、結構ぶっきらぼうなところもあったり、物静かな時もあって、なのにたまに話すと理屈を並べてしまうことも。
(昔、同期に「なにクール“ぶってんの”?」って言われたことも。誰が、ぶってんねん!ダサすぎるやろ!)

でも、結構、空気に敏感なところがあって、表現するのが苦手なんです。
「論理的じゃないと伝わらないかな?」とかも考えちゃいますし、仕事のメールとか、1つ打つのにめちゃくちゃ時間かかります。
チャットもすごく苦手です。
たまに、会話に使う頭が活発化してめちゃくちゃ返信早い時もありますが、基本とてつもなく遅い。

一つ一つの言葉の持つ“重み”を気にしてしまって、なかなか返せない。

直接の会話だと、相手の様子が見えるので、比較的すばやく返せるんですが…。
(これについては別の角度で少し書いたことがあります。)

で、思ったのが、感情に想いを馳せるのが習慣化していて、「どこかで互いの感性を大切にしたいと思ってるのかなぁ」と、振り返ってみて思いました。
科学ってどうしても論理的に組み立てられがちなんですが、何を追い求めていくか、その根源的な欲求の部分はもっと感覚的でもおもしろい気がします。
(もちろん、何でもありじゃないし、それを許してくれる環境も必要…。)

ボクは昔からアーティスティックな人に憧れがあり、大好きです。
理屈だけの世界は、どこかロボットみたいで無機質で、それだけだと面白くない。

もっと人間的で良いと思うんですよ。

全てを理屈で考えてしまうと、どれだけすごいものであっても、ワクワクしてこない。

ここ数年、アートの世界について本を読んだり、美術館に行ったり、コンサートを聞きに行ったり、写真を撮ってみたり、絵を描いてみたり、インプットとアウトプットを繰り返してます。
アートの世界は夢も詰まっていて、すごく楽しい

論理と感性を掛け合わせられれば、最強なのでは…?

どっちも磨いていければ、きっとおもしろい世界を見れるし、創ったりもできます。

”どちらがいい”、ではなく、”どちらも良い”と思います。
意識してみてはいかが?

気づきなどのきっかけになれば幸いです。やはり応援していただけるのは、ものすごく嬉しいですし励みにもなります。またぜひお立ち寄りいただければ… (いただいたサポートは、今後の活動資金にさせていただきます。何かしらの形で還元させていただければと思ってます。)