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『倫理的な場』としての演劇

こんにちは、「ゆーの」こと田中優之介です。


僕は「アートな場」をつくることに興味がある物理工学専攻の学生なのですが、「一緒にやろうよ」「話してみたい」と声をかけてもらえないかと思いつつnoteを書いております。



終演のご挨拶

さて先日、10月14日(月・祝)に、劇団パジャマパーティー第一回公演「から騒ぎ」が無事終演しました。

3回の上演は全て満員(!)で、延べ300名以上の方にご観劇いただきました。観に来てくださった方にはもちろん、陰ながら応援してくれていた方にも、本当に感謝しています。ありがとうございました。


演劇制作と、場作りを繋げる

今回の公演で、僕は大きな挑戦をしました。

それは、場や組織の考え方を、演劇に持ち込んでみる、というものでした。幸せなことに今回僕が考えていたことはかなり実現できたと思います。


これから書くことは、具体的にどうやって「場」と「演劇」という考え方を繋げたのか、そしてそれを踏まえての展望です。


少し長くなりますが、最後までお読みいただければ幸いです。



[1]役者の『個』に誠実な稽古場作り


演出家が指示を出し、役者がその通りに動く。

という光景は、演劇の稽古場には残念ながら、よくあるものだと思います。


でも、僕はそういう稽古場が不思議でたまりませんでした。

それ、役者は楽しいの?
役者の個性は、どこに生まれてくるの?
役者の創造性は、どこに発揮できるの?



そして今回第一にやろうとしたのが、この光景に対するアンチテーゼとしての役者の『個』に誠実な稽古場作りでした。


オフィスマウンテン主宰の山縣太一さんは「役者が『主役』であるような舞台作り」という話をよくされますが、僕が今回目指したものもまさにそういうことです。


出された指示をもとに、それを完璧に再現するのが役者の仕事なのだとしたら、演出家が自分で役者をやればいいと思うのです。そうでなくても、そんな役者の仕事は、よくできたロボットに淘汰されてしまえばいい。

大胆な言葉遣いをしてしまいましたが、「役者は、ただ指示に従っていればいい」という考え方を僕は危惧しているのです。そういう演出家の態度は、役者だから、とか、仕事だから、とかそういうレベル以前に、個人の尊厳を侮辱するものだと感じています。


ここで、逆に聞きたいのですが、

「させられる演技」より「する演技」のほうが面白そうじゃないですか?
せっかくなら「その人にしかできない演技」のほうが見たくないですか?

これらが、僕を“役者の『個』に誠実な稽古場作り”に向かわせる原点となった感情でした。



僕は、今回一緒に劇を作ってきた仲間が大好きです。

だからこそ彼らにとって、稽古場が楽しいものであってほしいし、彼らにしかできない演技をしてほしいと思いました。ただそれだけのことです。


そしてここに僕の1つ目の挑戦があります。
同時に僕は、役者が楽しいほうが“いい劇”になると固く信じていたのです。

稽古場が楽しくて、役者たちが自分にしかできない演技をしたとき、最高の演劇が生まれるのではないか、と。そう信じていたのです。


楽しむこと。

その価値を信じるところから、「楽しく創造的な稽古場作り」という僕の一つ目の挑戦は始まりました。



[1-1]脚本、という権威の導入

楽しい稽古場を作るため、一番最初にやったのは、脚本家と演出家を分けるという決断でした。


それは、演出家が脚本を書いてしまうことを避けたかったからです。

先ほど、「演出家が指示を出し、役者がその通りに動く」という光景を否定しましたが、これに関して僕は演出家に責任があるとは微塵も思っていません。ただ僕は、演出家が脚本を書く、ということに構造的困難があると思うのです。

演出家が脚本を書くと、往々にして演出家の中に「正解の演技」が作られてしまいます。それは、演出家の中でセリフと一対一に強固に結び付けられ、意識してもなかなかその結びつきは切れるものではありません。


これは想像以上に重大なことです。

なぜなら演出家の口から発せられる「正解」は役者を萎縮させるからです。
「もっとこう演じてほしい」などと演出家自らがやってみせたりなんてしたらもう最悪です。役者の創造性の芽を全て摘み取ってしまいます。


つまり演出家が脚本家を兼任すると、皮肉なことに、演出家がしっかりイメージして脚本を書こうとすればするほど、役者の肩身が狭くなるという構造がうまれるわけです。


今回僕は脚本家として、「読んで楽しい文章」を完成させることを目的としました。誰かどの役を演じる、とか、どういう動きで読んでほしい、とか、そういう”演出”に関わることは極力想像せず、ただ、本として手に取ったときに読んで面白いか、という点だけを意識して書きました。

こうすることで、「正解」をもつ者がいなくなります。
演出家も、役者も、脚本家である僕でさえも、言葉をどう舞台上に立ち上げればいいのか、どう演じればいいのか、その正解を知らないわけです。


これが、僕が最初にやっておきたかった「権力の解体」です。


それでは、どうやって演技を作っていくのか。
正解を奪われた今、僕たちに残されたのは、脚本だけです。


しかし、「これで十分だ」とみんなに言うことが、今回の僕の1つ目の挑戦だったと思います。

脚本家である僕が書かれていること以上の情報を与えることは、役者や演出家の領域を侵害することになってしまいます。むしろ、解釈も再構成も自由にやってくれと、役者や演出家を信頼して脚本を手放すことが肝要です。


とはいえ、脚本は他のみんなにとって非常に他者的な存在です。
ましてや、今回の原作は500年前の人物が書いたもの。みんなでよってたかって、どれだけ読んでも噛み砕いても、「わかった!」という瞬間が訪れません。特に演出家にはかなり負担をかけたと思います。

しかし、僕が信じていたのは「わからなさ」から生まれる創造性でした。

「わからなさ」と向き合うことは最初はツライことです。
しかし、それは徐々に「こうしたらどうだろう」「もっとできる」という挑戦の姿勢を生み、「わかる」とは別次元の楽しさが見出されてきます。

そうして試行錯誤していくうちに、演技も演出もハイレベルになっていく。そう信じていたのです。これに関しては、次の章で詳しく説明するとしましょう。



[1-2]役者の『発想』を大事にする演技練習

さて、いよいよ役者が脚本を手にし、稽古が始まります。

その稽古場で大事にしたのは、役者起点の『発想の自由』を保障し、その発想をサポートすることでした。

演技は、「言葉」と「役者の身体」の間に生まれます。
そしてその可能性は、本当に無限大だと僕は思うのです。たとえ同じ言葉でも、表情を変えて読むだけで印象が変わります。そういうとき、見ている側にも演じている側にも、「この言葉は、こう解釈することもできるのか」と、これまでは想像すらしなかった新たな発見があるのではないでしょうか。

先の章で述べた、演出家と脚本家の分離は、この可能性を最大限に引き出すためのインフラであった、とも言えるでしょう。


しかし、実は、このままではまだ自由な発想は生まれないのです。

それを阻害しているのが、今度は役者の中にある「正解の演技」です。
演出家のなかの「正解の演技」とは違って、こちらは厄介です。役者の中にある「正解」は稽古を重ねれば重ねるほど役者に中により固まってしまうものです。しかも、それに自分で気付くことも難しい。


そういうときに、必要なのが“正解”を壊すきっかけです。
いわゆるブレイクスルーと呼ばれる不連続な変化を引き起こせるような、発想のサポートです。実は、僕が以前noteに書いた3つの演技練習は、今回の稽古場においてそういう役目でした。

noteに載せていないものも含め今回稽古場で実践した演技練習では、ある共通のことを大切にしていました。

それは、見えているものを見えていないことにしないこと、です。


目の前にいる相手役者のことはもちろん、外からかすかに聞こえる車の音や、いま踏みしめている床、照明に照らされる自分の衣装、そしてお客さんたち。

そういうものを自分は見ているのだ、と自覚して演技すること。
そういうことです。


見えているものを意識すると、演技をする役者の身体にたくさんの情報が入ってくるようになります。もちろん、それは大抵の場合、演技に専念しようとする彼らにとってただの雑音にすぎません。

しかし、それを続けていると不意に、見えているものと演技が結びつく瞬間が生まれるのです。そうすると、これまで理解できなかった言葉が突然言えるようになったり、全く新しい動きが生まれてきたりなど、不連続な変化が起きるのです。

つまり、“見えている”という意識を持つことは、同じ繰り返しから気付きが生まれ続ける、いわば無尽蔵の学習プロセスなのです。


この学習サイクルに役者がハマること。
それが今回の稽古場で目指したことでした。

言葉と自分の身体をもっている時点で、演技のための全ての材料はそれぞれの役者に揃っているのですから、様々な環境で同じことを試してみたい、と思えば一人で勝手に実践することができます。

そのサイクルがうまく回り始めたとき、僕がやるべきことはもう何もありません。



[2]お客さんにとっても居心地のいい上演にする

正直、演劇って行きにくい。
劇場では静かにしてなくてはならないし、椅子は小さくて狭い。しかも、終演後も、なんとなく「楽しかった」なんてバカな感想は言いづらい。

観劇って、あまり楽しくない。


僕が、最初の頃、観劇に抱いていた印象はそんなものでした。


だからこそ、僕の2つ目の挑戦は、今回の公演がお客さんにとって“心地よい居場所”になること、でした。

カフェに行くような気分で劇場に来て、コーヒーを待つような気分で客席に座り、ふぅと一息つくような観劇体験をして帰る。そういう、気楽な“居場所”、のような演劇があってもいいじゃない。


そこでは、お客さんは「居る」こと以外の何も求められません。

ここで、少し考えてみて欲しいのです。
役者も、スタッフも、お客さんも、その場に「居る」という点において全員平等です。普段、劇場で感じる窮屈さが「観客らしさ」の押し付けからくるものなのだとすれば、「観客らしく」や「役者らしく」を捨ててみればいいと思うのです。


「居る」から出発する、上演の場にいる全員の、素朴で柔軟な関係づくり。

これが、僕の2つ目の挑戦でした。



[2-1]お客さんをみる、という演技体

ではどうすれば、僕たちはお客さんとそういう柔軟な関係を築けるのか。


このときキーワードになったのが、「お客さんをみる」ということでした。

先ほど「見えているものを見えていないことにはしない」ということを書きましたが、この「お客さんをみる」ということはその延長線上にあります。


「みる」と言っても要は簡単なことで、
役者が“お客さんがいること”を無視しなければいいのです。

お客さんに反応を求めすぎるわけでも、お客さんを無視するわけでもなく、ゆるく気にかけ合う関係。その、絶妙なバランスが大事なのです。「みる」という言葉はとてもバランスが良く、それは視線を投じる、ということも意味すれば、視野に入れる、ということを意味する言葉でもあります。「観客をみる」という言葉には、役者とお客さんの関係にちょうど良いサイズの余白を残すのです。


もちろん、そんな遠回りなことをせずお客さんと“一体になれれば”、それに越したことはありません。

しかし、考えてみてください。
役者がお客さんに、“一体になる”ことを強いてはならないのです。当たり前のことですよね。一方的、強制的な手段をとって得られた関係は、果たして「一体」と言えるでしょうか?


何も強制されることがなく、ちょうどいい余白の関係。
それが“心地良さ”や“居場所感”を生む、と信じて「お客さんをみる」というキーワードを掲げたのです。


もちろん、その場にいなかった人には、今回の上演が実際、どのようなものだったかイメージするのは難しいでしょう。

しかし、感想の中に「場の寛容さがよかった」と書いてあったものがあったことは、この挑戦がうまくいった一つの証拠である気がしています。



[2-2]囲み舞台という、まるい場

今回、お客さんと役者の関係に大きな影響を与えたもうひとつの要素は、舞台です。


今回、舞台は、役者から見て全方位にお客さんがいる、“囲み舞台”でした。

舞台の形状は演出家の決めたことだったのですが、
本番になって初めて僕はその影響の大きさを知ることになります。


お客さんが、あたたかいのです。
キャンプファイヤーを思い起こさせるような、あたたかな“まるさ”が、そこにはありました。

囲み舞台は、真ん中にいる役者をお客さんがみんなで囲む、という構造です。しかも、今回の舞台には、舞台面と客席を区切る明確な線がありませんでした。最前列のお客さんがちょっと足を伸ばせば“舞台が減ってしまう”、というほどの異様な至近距離で、役者が演技をすること。

これが、お客さんの中に、そしてその場にいた全員のなかに一体感を生んだことに間違いはないのだ、と感じました。



最後に

ここまで読んでいただいてありがとうございます。


今回の公演で僕は、演劇を「稽古場」と「上演」という二つの場作りに分解してみました。そして、それらの場作りには、今の自分が持てる知識を全て詰め込んだつもりです。

そして終演後、たくさんの嬉しい感想をいただいて、自分が信じてきたものが間違いではなかったと、安心しています。


でも観客のみなさん、ごめんなさい。
一番嬉しかったのは、一緒に劇を作ってきた仲間の笑顔なんです。


僕はここまで偉そうに語ってきましたが、実のところ、僕は何もしていません。あの日、本番の舞台上でお客さんと一緒に作った演劇で、僕は一役者として以上の仕事はしませんでした。

あの日の全ては、役者舞台照明音響衣装小道具宣伝美術がそれぞれの個性と試行錯誤から生み出したものです。

脚本家としての僕はただ「何もしない」ことを徹底したにすぎません。


あの公演を作る中で、たくさんの個性豊かな演技と、笑顔が見られたことは僕の誇りです。本当に、ありがとうございました。



最後に一つだけ。
ここまでの話は、ある小劇団の制作裏話にすぎません。

これから、僕はもう一つの挑戦をします。
僕は、自分が経験したこの2つの場づくりが、“組織”と呼ばれるものすべてに通じることだと思うのです。


ひとつ、試してみてください。
「役者」を「部下」に、「演出家」を「上司」に置き替えたとき、この話の違う一面が見えてきませんか?


権力が分散され、個人個人が自分の持っているものを駆使して全力で戦える場や組織。僕には、それがとても健康的で、同時に倫理的だと思えます。

演劇制作の現場だけではなく、企業や学校などもそんな風だったらなあ、と僕は願ってやみません。そして、行動していたいと思います。


「倫理的な場」が、クリエイティブの土壌となる。

この標語を肩に担ぎ、僕はこれからも活動していくつもりです。
ご興味がある方がいれば、ぜひメッセージください。一緒にお話ししましょう!

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