見出し画像

ようこそ笑店街へ【33】記憶の糸

記憶の糸
 

 どうして急に、元会社の後輩である福野明に会いたいと思ったのか、平塚桂子には説明する言葉が見つからなかった。ただ気づけば桂子は携帯を手に取り、指先は彼女のアドレスを探って画面を動かしていた。
 そして知った。三年ぶりに見る彼女の文字列は、弾むように楽しげで、画面から筆跡は見えなくとも、明るい声が聞こえてくるようだった。
 会社にいた頃は、常に焦っているか慌てているか疲れているかのように見えていた後輩が、会社を辞めたと聞いたのは昨年だった。言葉を使ってみんなを幸せにしたいと言っていた彼女と、小さな広告会社で共に働いた数年を思い起こす。顧客の大きな要望と上司の無茶な指令の狭間で共に闘った日々は、もはや懐かしいものとなっていた。
 それにしても、と思う。
「ここは、何?」
 思わず口をついて出た言葉は、目の前にそびえる大きな門を見上げてのものだった。
「桂子先輩、どうですか? この門」
 妙に目を輝かせてこっちを見てくる後輩に、なんと声をかけたらいいのか分からなかった。
「えっと、この門は地名に関わっているの?」
「違いますよ。笑うという字が門についているので、そのまま笑う門です。どうですか? 笑う門には福来る、ですよっ」
「そうね、うん、確かに。いいセンスじゃない」
 三年ぶりに会った元後輩が、会って早々、まず見せたいと言って手を引いてきたのが、この門だった。彼女、こんなキャラクターだったかしら、と桂子はまじまじと後輩を見つめた。会社にいた頃より、軽やかになった?
「ハルちゃん、前より明るくなったんじゃない?」
「そうですか? 別に何も変わってませんよ。ただこの街が……」
 突然、大きな車輪が近づいてきた。ここでまさかの人力車?
「ようこそ、笑店街へ」
 どこかのアイドルグループにでも入っていそうな、爽やかな笑顔が眩しい青年が人力車を引いてきた。日焼けした肌に色素の薄い髪、白い歯は広告にでも使えそうなビジュアル。退職して三年は経っているのに、つい前職の癖で人物を見てしまう、そんな自分にため息をついて、桂子は後輩を見た。彼女は知り合いらしく、口を尖らせながらも笑顔で青年に話しかけた。
「もう、辰巳さん。この人は観光客じゃありませんからね」
「分かってますよ。ハルさんのお友達でしょう。こんなにお綺麗なお姉さまですもん」
 人力車の青年は、チャラ男とでもいうのかしら。テレビを見すぎると良くないから、子供には極力見せないようにしているけれど、広告会社時代はむしろ見ていないと時代に遅れる、なんて思っていたっけ。
「桂子さんには安っぽい甘い言葉なんて通じませんよ。それに既婚者でお子さんもいるんだから。辰巳さんには出番なし」
「そうでしたか。残念。じゃあハルさん、僕の愛車に乗ってデートでもします?」
 そう言って彼女の手を取ろうとする青年に、ハルはぱしっと手を払って言った。
「お断り。それに辰巳さんは口車じゃなくて調子でしょう? そんなことばっかり言ってると調子が狂うんじゃない?」
 にかっと歯を出して笑うハルに、青年は芝居がかった仕草で手を広げ、大げさに天を仰いだ。
「ああ、なんてことだ。ハル姉さま、いつの間にそんなに口が達者になられたんですか。素晴らしい」
「はいはいはい、もう分かったから、じゃあまたね」
 ハルが青年の背中を押し、強引にさよならを言って遠ざけた。
「すみません桂子さん。あの人、この笑店街の観光ガイドみたいなことをやっているんです」
「面白かったわ。商店街にガイドなんて。ここってそんなに大きいの?」
 すると、ハルは少し考え込んでから
「大きいといいますか、そもそもここ、商店街じゃなくて、笑店街なんです」
 と、言って頭をかいた。
「同じよね? ショウテンガイ、でしょう?」
「いえ、説明が難しいんですけど、耳で聞く文字ならショウテンガイで同じでも、目で見ると違う字になるんです。ショウは商いではなく、笑うの方なんです」
「えっ。笑店街ってこと?」
 桂子は文字を思い浮かべながら、軽く指で宙をなぞった。
「はい。なのでつい笑ってしまうようなことが多いんです」
 ハルはそう言うと、また笑った。だから明るい文章を書けるようになったんだろうか、と、後輩の変化に思わず笑みがこぼれそうになる。
「いいね、楽しそうでよかったわ。仕事辞めたって聞いたから、気でも病んじゃったんじゃないかってちょっと心配してたの」
 桂子にとって、この思いは嘘ではなかった。でも、それだけでもなかった。
「ハルちゃんって、慌てん坊だったり、忘れっぽかったり、なんだか目が離せなかったなって記憶があるんだけど、一人でも知らない町でしっかり楽しそうにやってるんじゃない」
 そう言うと、ハルはまた、えへへと笑った。
「そうですね、いつもバタバタしていたのでご迷惑をおかけしました」
 そして、はっと思い出したように、
「あ、そういえば最近、いいお店見つけたんです。そのおかげで私の忘れっぽさ、解消です。このまま忘れっぽいのが直らなくて将来認知症とかになっちゃったらどうしようって冗談みたいに思ったこともあったんですけど」
 と話し始めたハルの言葉は、桂子から笑みを消すのに十分な強度を持っていた。

「ここです」と言ってハルが桂子を連れてきたのは、一見すると何の飾り気もない、小さな路面店だった。むしろ看板らしきものも見当たらないため、外からでは店かどうかも疑わしい。
「少し前にシャツのボタンが取れちゃって、糸を買いに来たんです。この辺、コンビニもないので、笑店街で探すのが大変で」
「そうなの? いろんなお店があるからどこでも何でも売ってそうだけど」
「いえ、笑店街では普通のお店を探す方が難しいんですって」
 ハルは困った顔をしながらも、どこか楽しんでいるような雰囲気で言った。そして、
「こんにちは」
 と言いながら、ガラスの引き戸をガララと開けた。
「はぁい、いらっしゃいませ」
 店内にいたのは、エプロン姿の女性だった。自分と同じ四十歳前後といった位だろうかと桂子は思った。
 店内には、壁一面に小さな糸巻きが展示されていた。向かって左の壁から右の壁へと続く空間全体が、白黄橙赤など、色ごとに分けられた糸巻きで埋め尽くされている。虹のようなグラデーションが、まるで自分が色の中心に立っているかのような錯覚さえ呼び起こす。
「綺麗ですね」
 見回した桂子が思わず口にしたところ、店主が心なしか胸を反らした。
「嬉しいわ。ここはただの洋裁店じゃないんです。私の要塞みたいなもんなんですよ」
 桂子はその言葉を頭の中で漢字にして頷いた。洋裁だけに要塞ってこと? 違ったら恥ずかしいから黙っておこう。
「ここに売っている糸が、すごいんですよ。私の物忘れ特効薬って感じなんです」
 なぜかハルが自慢げに桂子に教えた。
「そういえばあなた、少し前に買っていったけれど、役に立ってる?」
 店主が訊くと、ハルが「はい、とっても助かってます」と照れたように笑った。
「どんな糸なんですか」
 桂子の声に期待はこもっていなかった。けれど、期待をこめてみたい声でもあった。
「記憶の糸です」
 そう答える店主の声は、張りがあり。その響きは壁中の糸が鮮やかに巻き付けているようにも聞こえた。

「記憶の糸は、文字通りの糸なんです。思い出したくても思い出せない時ってありますよね? そんな時に記憶の糸を指に巻き付けて手繰ると、ふっとあるところで自然に糸が切れます。そうなると、記憶を引き寄せることができた、ということで糸が消え、思い出せるんです」
 店主の言っていることは荒唐無稽すぎた。言葉遊びでからかっているのかという気がする。でも店主の顔は揺るがぬ笑顔を保っており、隣で聞いている後輩も、うんうんと頷いていた。
 そしてハルは鞄をごそごそ探ると、何かを取り出した。
「これです。私がこの間買った記憶の糸」
 見せられた桂子が手に取ると、ふっと息を吐いた。
「これ、しつけ糸じゃない。それなら強く引っ張ったら切れるでしょ」
 店主の前だったが、つい反論してしまった。正直、信じようとしてしまっていた自分を笑いたくなった。
「彼女は短気なんじゃないかしら。だからしつけ糸みたいにすぐ切れて思い出せる種類の糸だったのかもしれませんね」
 店主がハルの糸を見ながら言った。
「記憶の糸は、人によって違うんです。ミシン糸の方もいますし、年配の方は毛糸っぽいものが多いですね。おそらくこれまでに蓄積された記憶が多いのでしょう。細かな繊維の一つ一つに染み込んだ思い出がたくさんあるのだと思います」
 ハルは真剣に聞いているようだったが、桂子には、何を言っているのか分からなかった。
「そう言われても、私は、見たものしか信じられないので、すみません」
 正直に言うと、
「じゃあ、実際に何か試してみたらどうかしら」
 と、店主に明るく返されてしまった。
「確かに。桂子さん、私が忘れていることを何か思い出させてください。この糸を使って思い出しますから」
 ハルが乗ってきてしまった。こんなにノリのいい女子じゃなかった気がするのに、いつの間に変わったのだろう。でもせっかくだからと、自分が覚えていることで、彼女が絶対に忘れている何かを質問して試してみようかという気にもなった。そう、せっかく三年ぶりに会ったのだから。
「じゃあ、ハルちゃん、覚えてる? 私が会社を辞めたあの日、一緒に最後のランチしたよね?」
「そうでしたね、懐かしい。私結構、話したことは覚えてますよ」
「さて質問です。私がその時に食べたメニューはなんだったでしょうか?」
 すると、ハルは考え込んだ。それはそうだと桂子は思う。別にまったく重要でも何でもない、ただの記憶だもの。思い出せと言う方がただの意地悪だ。私はこんなにも意地悪になってしまった。
 ハルは左手に糸巻きを持ち、右手の人差し指と親指で糸を掴むと、そのまま引っ張り、人差し指にくるくると巻き始めた。目を細め、糸を見ているようでいて、見ていないようにも見えた。二回、三回と巻いていき、途中で不意に顔を上げたかと思うと、そのまま宙を仰いで、目を閉じた。その刹那、ふっと糸が切れた。それはまるで、静かに抜けたようにも、消えたようにも思えた瞬間だった。
「思い出しました。桂子さん」
 いつの間にかハルが元に戻っていた。
「あの日、半熟卵のカルボナーラを食べていました。私はミートソースです。途中、私のソースが桂子さんの白いシャツにはねてしまって、ものすごく謝ったところ、桂子さんは気にしなくていいと言ってくれて。確かカーディガンをさっと羽織って、大丈夫大丈夫って笑ってくれた。あの桜色のカーディガン姿の桂子さんを見たのが最後の日だった。しかも食べ始めてわりとすぐだったので、桂子さんはまだ半熟卵を崩していない時でした。ああ、どうしてこんな大事な事件を忘れてしまっていたんだろう、本当に、あの時はすみませんでしたっ」
 ハルが深々と頭を下げるのを見て、桂子は声が出なかった。そうだった。確かにそんなことがあった。実は自分もすっかり忘れていた出来事だった。
「あれ、巻き取った糸は?」
 ハルの指には糸がなかった。
「記憶を取り戻したら、巻き取った分の糸は消えてしまうんです」
 ハルが言うと、店主が続けた。
「一人の人生に糸巻きは一つだけ。糸巻きから糸を使い切ってすべてを消してしまったら、それ以上糸で記憶をたぐり寄せることはできなくなります。もちろん、それでもう何も思い出せなくなるというわけではないんです。ただ、糸を使って思い出すという行為ができなくなるだけのことです」
 今度の言葉は妙にしっかりと桂子の中に入ってきた。
「糸があればあるほど、たくさんの記憶を呼び起こせて便利じゃありませんか? どうして一つだけなんですか?」
 気づけば、素直に質問をぶつけていた。すると店主はこともなげに答えてくれた。
「だって、人は万能じゃないもの。記憶には容量ってものがあるはず。人にもよるけれど、一般的には記憶したすべてを覚えておくことはできないでしょ。思い出したいことはたくさんあるかもしれないけど、何かを忘れておくことは、新しい思い出を入れるためには必要なことだと思うの」
 それにね、と一瞬間を空けてから、
「逆に忘れることができないって辛いものよ。どんなに頭から追いやっても消えることは決してないんだから」
 と、少しうつむき加減で言った。
 桂子は、背筋を伸ばした。
「記憶の糸って、誰かの分をお願いすることもできますか?」
「ごめんなさい、本人だけなの。だからネット通販なんかもできないのよねぇ。可能なら、ここに連れてきてもらえるかしら」
 その言葉に桂子は考え込んだ。
「桂子さん?」
 顔をのぞき込もうとするハルに、はっと我に返ったように顔を上げた。
「ごめん、なんでもないから」
 そして店主に向かって訊いた。
「ここの営業時間と定休日を教えてもらえますか?」

「桂子、母さんをどこへ連れて行く気なんだ」
 父が玄関先で声をかけてきた。母はすでに靴を履き終えて、下駄箱の上の花瓶を見ている。
「だからさっきも言ったじゃない。前の会社の後輩が住んでる笑店街が楽しかったから、お母さんの気分転換になるんじゃないかって思って。ちょっとした散歩よ、散歩」
 父の眉間にぴくっと皺が寄る。
「そんなに遠くに行って何かあったらどうするんだ」
「大丈夫だって。ずっと一緒にいるから。ほら、お母さんだって今日はすごく安定してる。ねっ」
 母に笑顔を見せると、彼女も微笑んだ。
「今日はどこへ連れてってくれるの? 美和子さん」
「母さん、お友達の美和子さんじゃなくて、娘の桂子だ。ほらちゃんと見るんだ」
 父が慌てたように母に言う。
「そうね、分かってるわよ。もういい年なんだからいつまでも友達と遊んでばかりいるんじゃないってことでしょ。はいはい。さ、行きましょ」
 母は桂子の手を取って玄関の引き戸を開けた。
「じゃ、行ってくるね。心配しないで。何かあったら電話するから」
 桂子は笑店街の入口を思い出しながら笑顔を作った。

「いらっしゃいませ。あら、この間の。また来てくれて嬉しいわ」
 記憶の糸を売っているという店主は、先日と変わらない笑顔で迎えてくれた。
「まあ、素敵なところね。糸がいっぱい」
 母が店に入るなり、目を輝かせて言った。
「ありがとうございます」
 店主が母に笑顔を向けてから、桂子に話しかける。
「記憶の糸をお望みですか?」
 桂子は一瞬母を見てから、店主に向き直ると、頷いた。
「母に記憶を戻したいんです」
 そう口にした途端、これまで抱えていた思いを吐き出すように、言葉を紡ぎ始めた。
「いつもじゃないんです。時々、記憶が混ざってしまうみたいで、私のことがわからなくなったり、私には小学二年生になる娘がいるんですけど、娘のことも孫だってわからなくなったり。でも覚えている時は覚えているんです。まだそんなに年でもないのに、どうしてって思うと、もう……」
「ストップ。私は医者でもカウンセラーでもないわ」
 店主は人差し指を桂子の唇に近づけた。
「そして魔法使いでもない」
 そう言うと、桂子と母を受け付け台へと誘った。
「ちょっとこちらにかけてくれますか」
 受付台の後ろから丸椅子を取り出すと、母親を座らせた。
「手を見せてもらえます?」
「なあに? 占い?」
 母は右手の平を店主に見せた。
 店主は受付台を挟んで母と向かい合わせに座ると、その台の上で母の手を広げ、静かにマッサージし始めた。
「何してるんですか?」
 桂子が口を挟むと、
「お母様の記憶の糸をお望みなのでしょう? 記憶って、手に刻まれるんです。だからこうやって、整えていくんです」
 と言いながら、店主は両手で、母の手に刻まれた皺の一本一本を撫でるように、その溝の軌跡を辿るように揉みほぐしていった。まるでそこだけ時が止まったかのように静謐な空間となっていた。そっと見ると、母も穏やかに笑っている。
 それほど長い時間ではなかった。ほんの一分か二分くらいだっただろうか。店主の手の動きが変わった。母の手の平から何かを引っ張るように、引き出すように、静かに手を遠ざけていく。店主の指先は、何かを摘んでいるようだった。
「えっ」
 つい声が出てしまった。店主が手の平から引っ張って摘んでいるのは、毛糸? 店内の蛍光灯に照らされてキラキラ見えたのは、細かな繊維で毛羽だっている毛糸のようだった。
 店主はそのまま、どこから取り出したか分からない木の棒のようなものに巻き付けていった。母の手の平から出ている毛糸はどんどん巻かれていく。光の線は見る見る増えて、いつの間にか木の棒全体が毛糸に覆われた。
「できました」
 不意に声が響いた。
「毛糸……なんだか、不思議なものを見た気がします」
 店主に渡された毛糸玉は、ほんのりと桜色に見えた。
「人間ほど不思議なものはありませんから」
 そう言って、小さく笑った。
「さて、使い方はわかりますよね? 確かこの間いらっしゃった時にご覧になっていましたものね」
「はい。思い出したいことを思い出す時に巻き取るんですよね」
 先日ハルが見せてくれた様子を思い出した。
「そうです。思い出したい時に……」
「ですよね、わかりました。ありがとうございます。おいくらですか?」
「何買うの? 毛糸? いいわね。そういえば最近涼しくなってきたし、そろそろ何か編もうかしら」
 母が毛糸を見て楽しそうに言った。その様子に、桂子も嬉しくなった。
「ありがとうございました」
 帰り際、店主が何か言いかけたようにも思えたが、桂子は早く帰りたかった。そして、早く試してみたかった。

「この毛糸、引っ張ってみて」
 帰るなり、桂子は真っ先に毛糸を母に渡して言ってみた。
「あら毛糸ね、どうしたの?」
 母も父も、何を言い出すのかというような顔をした。
「いいからやってよ。これ、すごい毛糸なんだから。お母さん、色々思い出せるの」
 桂子は、自分で言っても何を言っているのかと思われるだけだろうという気がしたので、とにかくやってもらうことにした。
 毛糸を渡された母は、桂子に言われた通りに糸を引き出し、指に巻き付けて引っ張った。
「どう?」
 その様子を見ていた桂子が弾んだ声を出した。
「どうって言われても」
 母は不思議な顔をしたままだった。
「美和子さん、どうしたの?」
 それだけだった。それを見た桂子の顔の方が、動いた。
「どうして? もっと巻いてよ。いっぱい巻いてよ。自動的に切れて消えるまでどんどん巻くのっ」
 桂子の声は次第に大きくなって母に迫った。
「何言ってるんだ、お前変だぞ。こら、やめなさい」
 父が割って入った。
「もう、変なの」
 母もそう言うと、ついに毛糸玉を放り出した。
「どうしてよ……」
 桂子は、二人に背を向けると、足音を立てて玄関へ向かった。

「大事なのは、本人が思い出したいと思いながら手繰ることなんです。ただ動作として手繰っても効果は保証できませんので注意してください。先程はそう申し上げようとしていたんです」
 財布だけ持って電車に乗って、一直線に駆け出して、再び桂子は店にやって来た。
 店主は桂子の様子を見ても動じることなく、説明した。
「じゃあ、それって、もしかして、母自身がそう思わないと意味ないってこと? 忘れていることすら忘れている状態じゃ無理ってことなの?」
 大きかった桂子の声は、店内に飾られた無数の糸巻きが巻いてしまったかのように、か細くなっていった。
「残念ながら」
 そう答える店主の声も同じ色を帯びて細かった。

 なんのために……そう口にしてしまいそうな衝動を必死に抑え込んだ桂子は、うっかり後輩に遭遇しないように、笑店街を避けて駅へと向かった。
 見上げた空は分かりやすいオレンジだった。人間ほど不思議なものはないと言っていた店主の言葉が蘇った。確かにそうだと思う。人間ほど不思議で、複雑なものはない。だからこんなに辛いのだ。
 そんなことを思いながら、また電車に揺られて帰路へと向かった。足が重く、なんとなく、遠回りをしてしまっていた。ああ、もうすぐ鈴が小学校から帰って来る時間かもしれない。

「桂子、どこ言ってたんだっ」
 玄関に入るなり、父の大声に出迎えられた。その声の迫力で、母に何かがあったのだと直感した。
「お母さんっどうしたの?」
 リビングに入るなり叫んで母を見た。
「もう、どうしたの? そんなに大きな声を出して」
 母は特に何も変化はないようだった。ソファに座って穏やかに、何か編み物をしていた。
「なんだお父さん、驚かせないでよ。何かあったかと思っちゃったじゃない」
 と父に向かって言うと、母も
「そうよお父さんはなんでも大げさに言うんだから。ちょっと私が久し振りに編み物でもしようかしらって言っただけなのに、ねえ、桂子。確か前に、鈴は手袋が欲しいって言ってたわよね?」
 と笑顔で言った。
「お母さん?」
 桂子の声は震えそうだった。
「なあに桂子。桂子もお父さんも変よ。変なものでも見るみたいに」
 母の手が動かしていたのは、桜色の毛糸だった。

 どうしてあの日、急に、元会社の後輩である福野明に会いたいと思ったのか、平塚桂子には説明する言葉が今でも見つからない。
 気づけば再び桂子は携帯を手に取っていた。
「もしもし、ハルちゃん? この間はありがとうね。うん、うん。ほんとに」
 桂子は先日のハルの笑顔を思い出していた。昔からそうだった。彼女が笑っていなかったとしても、不思議と、彼女を見ていると笑っている自分に気づくのだ。
「ううん、特に用事はないんだけど、一言お礼が言いたくて。やっぱりハルちゃん、笑う門には福来る、よ」
 ほら、今も。
 桂子は、ガラス窓に映る自分の顔に気づいて、小さく笑った。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この街がすき

読んだ人が笑顔になれるような文章を書きたいと思います。福来る、笑う門になることを目指して。よかったら、SNSなどで拡散していただけると嬉しいです。