目が「ゴロゴロ」するのはどうして?【3分】
私の、大学の学部での専攻は、日本語学だ。
日本語って面白いなあ、不思議だなあ、と思いながら、日々、日本語のことを考えている。
今日は、日本語周辺で、私ユミヨシが、最近特に興味を持った事柄について、書こうと思う。
濁点の威力
涙が落ちる様子をあらわす、オノマトペを思い浮かべてみてほしい。
ほろほろ。
ぽろぽろ。
ぼろぼろ。
ほろほろ、ぽろぽろ、ぼろぼろ、の順に、涙の粒が大きくなっているように、激しく泣いているように、感じるのではないだろうか。
言葉の持つ音が、その言葉の意味を象徴している、という考え方を、「音象徴」と呼ぶ。
音象徴の考え方に基づき、あるオノマトペに濁音がつくと、つかない状態のオノマトペに比べ、程度が大きくなると言われている。
汗がたらたら流れる。
汗がだらだら流れる。
たらたら、より、だらだら、のほうが汗がたくさん流れている感じがすると思う。
この例があらわすように、濁音は、大きい感じ、激しい感じ、強そうな感じをイメージさせる。
ちなみに、半濁音、と呼ばれる、ぱぴぷぺぽの音は、濁音と濁音がつかないものの中間的なイメージになる。
ほろほろ<ぽろぽろ<ぼろぼろ
なのである。
濁音はほんとうに大きい?
私は、濁音は大きい、と言われて育ってきた。(過言)
ところが最近、ほんとうにそうだろうか?と感じる事例に思い当たった。
コロコロ、と、ゴロゴロ。
コロコロ転がる。
ゴロゴロ転がる。
転がっているのが石だったら、コロコロは小さめの丸い石が転がっていそうだし、ゴロゴロは大きめの岩に近いごつごつした石が転がっていそうだなあ、と私は思う。
ゴロゴロ、に注目してみると、もちろん石が転がっているのもゴロゴロだし、お腹の調子がよくないとゴロゴロするし、人がソファーに寝っ転がるのもゴロゴロだ。
どれも、「転がる」という中心の意味があって、コロコロよりも程度の大きいことをあらわしているように思える。
ところで、だ。
目にごみが入ったっぽい感じがするとき、何と言うか?
目がゴロゴロするー、である。
さてさて、このゴロゴロ、そんなに大きいだろうか?
他のゴロゴロの例に比べて、転がっているものが相当小さい気がする。
いったいなぜ、目は「ゴロゴロ」するのだろう?
ユミヨシ仮説
目が「ゴロゴロ」する問題、私ユミヨシにはひとつの仮説がある。
それは、濁音の「大きい」は、相対的なものではないか?ということ。
目は、からだの中で粘膜が表面に露出している部分であり、とても繊細だ。
そんな繊細な器官、目からしてみたら、小さなごみも、大きな存在なのではないか、という仮説。
ただし、この仮説を採用すると、じゃあ他のゴロゴロにとって、相対的の基準って何?という話になり、正直ソファでゴロゴロ、とかは何に比べて大きいのか見当がつかない。
むむむ、むずかしー。
こんな(たぶん)答えのない(ように思える)問題をうんうん唸って考えるのも、日本語学の醍醐味のひとつなのである。
おわりに
ゴロゴロと子猫の喉が鳴るように私は夏に馴染んでいった/弓吉えり
毎年、夏のはじめ、なかなか夏という季節にうまく馴染むことができず、見事にバテる。
今、まさに、バテている真っ最中。
そんな私も、夏が終わりに近づくころには、毎年毎年、新鮮な気持ちで、夏っていいなあ、としみじみ思い、夏に馴染むどころの騒ぎではなくなっている。
さながら、喉を鳴らして弛緩しきっている、猫みたいな様相を呈するのである。
はてさて、ゴロニャー、なんてよく言うものだけれど、猫が喉を鳴らすオノマトペも、なぜゴロゴロなのだろう。
日本語の謎は、あまりにも深淵で、神秘的だ。
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