ヤマグチユミ

丁寧に暮らすこと、日々を大切に生きることを通して、自分の身の回りのさいわいに気がついて…

ヤマグチユミ

丁寧に暮らすこと、日々を大切に生きることを通して、自分の身の回りのさいわいに気がついていきます。感謝と喜びを見つけて、さいわいに向かう旅の途中を綴ります。

最近の記事

光を観る旅パート4

潜伏キリシタンが迫害を受けた歴史は、知識として知っており、遠藤周作の沈黙を読み、スコセッシ監督の沈黙を観て、すごく重たいイメージを抱いていました。 その象徴とも言える、牢屋の窄(さこ)教会に到着しました。 細長い湾の向かい側には、この島のかつての豪氏宅と、寺社が臨めます。 その小高い場所に、二百名を超える潜伏キリシタンたちが集められ、12畳のスペースに全員が八ヶ月間閉じ込められ、劣悪な環境で次々に人が死んでいったそうです。 ガイドさんがこう話していました。人と人との対立を

    • 光を観る旅パート3

      残り二席のツアーをゲットして、フェリーに乗って奈留島に向かいました。 潜伏キリシタンたちは、この海を小舟で渡り、信仰を守るために彼の地を目指したのかと、大きなフェリーのデッキで風に吹かれながら考えたところで、この時は何も観じません。 奈留島の潜伏キリシタンの教会は、今は一人だけの信者のために月に一度、他の地区から神父が派遣されてミサが行われているそうです。 江上天主堂が建つ地区には二世帯、三人が住んでいるだけ。 島もかつては一万人が住んでいたそうですが、今は二千人を切ってい

      • 光を観る旅パート2

        福江空港に着いたのは定刻の2時間遅れだったので、バスはもう夕方まで無いし、タクシーも待っていませんでした。 電話でタクシーを呼んで、今日は待つ日なんだなぁと思いつつ、ねっとりとした島の空気を味わっていました。 体調が崩れる時の、五感が鋭敏になる感覚だから味わえたのかもしれません。 やっとホテルに着いたのですが、チェックインにはまだ小一時間あり、お昼でも食べようかと近くを散策しても、もうランチタイムは終わっています。 そもそも旅の前日からいろいろあったもんなぁ、タイミング合

        • 光を観る旅パート1

          波乱の予感しかない旅行前夜でした。 まず、スーツケースが他のスーツケースの鍵で締まってしまい、このスーツケースの鍵はどこだったろうかと記憶を手繰れば、どうやら当該スーツケースの中らしい。 締まったくせに、その鍵では開くそぶりもなく、どうしよう、鍵開け屋さんを呼ぶか、無理矢理こじ開けるか(つまり壊すか)、思いを巡らせて、よくドラマで見かける、ヘアピン二本使うのはどうだろうとガチャガチャやってみて、娘に交代してガチャガチャやっていたら、なんとカチャリと開きました。 職業の選択

        光を観る旅パート4

          伝統医療は迷信なのか

          そもそも人間は、精神と心と肉体が統合された生き物なのだと思います。 先日、ハワイの伝統医療のお話を伺う機会がありました。 お話をされたのは、医師免許を持っていらっしゃる女性で、現在実家の医院の院長をされています。 マウイ島で10年、ハワイの伝統医療に携わっていたそうです。 ハワイでは、身体の具合が悪くなると、シャーマン的な医師のところに出向きますが、その際「どこそこが悪い」とは言わず、「何者かが私をここに連れてきた」と、霊的な存在を示唆するそうです。 そしてシャーマンも患者

          伝統医療は迷信なのか

          今の範囲

          今に意識を繋ぎ止めておくことはとても難しいです。 海が凪いでいたとしても、波が打ち寄せるように、川の水を堰き止めたとしても、流れ自体は止められないように、意識は次々と押し寄せてきて、次々とイメージが再生されて、寝ていたとしても夢で意識は動きます。 今という瞬間自体、刻々と刻まれていき、流れていきます。 今の自分という概念さえ、きっと昨日と今日で違うだろうし、朝と夜でも違うかもしれません。 コーヒーを飲みたいと思ってお湯を沸かしても、お湯が沸いたら欲しくないこともあるし、お

          反省

          情けは人の為ならず。この意味は頭では理解しているつもりでも、本当の意味で理解できているかといえば、どうなんだろうと思うのです。 施せし情は人の為ならず おのがこゝろの慰めと知れ 我れ人にかけし恵は忘れても ひとの恩をば長く忘るな 出典:[新訳]一日一言:「武士道」を貫いて生きるための366の格言集」 新渡戸稲造著 人にかける情けは、自分の満足のためにすること。けれど、人からしてもらったことは忘れてはいけないという新渡戸稲造の言葉です。 それをもっと深く諭してくれた方の

          あなたは私

          夏至の日に浄化の雨が降り注いだ日、1年間続けてきた學びが修了しました。 一年かけてゆっくりと、自分の観念が書き換えられたような學びでした。 節税とか、節約とか、節制とか、ちまちまとまとまろうとする自分の思考や生活は、果たして何のためなのだろうかと考えるようになりました。 税金を取られるとか、年金が足りないとかって、本当に自分の考え方なのだろうか。「お金がない」って本当だろうか。 私たちにはこんなにたいへんな未来が待っているって、本当なのだろうか。 ある意味本当なのだと思い

          領域展開

          1日にいくつものことを詰め込むのは好きではありません。 1日ひとつのことを、ちゃんと味わうことをしたいと思っています。 ともすれば、好奇心に引っ張られて、多動的な行動をしてしまうので、なおさら意識して、1日にひとつのことをやるように心がけています。 ある時期、1日に4箇所も仕事を掛け持ちして、心身を消耗させていたことがありました。まったくよろしくなかったと反省しています。 CAをしていた頃、ざっくり言えば、3日を2日として生きていたような生活をしていました。 3日間のフラ

          味蕾が蘇った

          ゆるダイエットをしています。 痩せることが目的ではなく、デトックス的な身体の断捨離的な、本来のダイエットです。 以前の記事でも書きましたが、白い粉(不穏)を摂らず、味付けもほとんどせず、調理方法も生か、蒸すか、茹でるか、せめて焼く程度。 サラダはオリーブオイルと岩塩をパラパラ振っていましたが、今や味付けなしでバリバリと馬のように野菜を喰らいます。 昨日はキャベツともやしとプチトマトに豚肉のスライスを載せて、蒸しあげました。 野菜の甘み、肉の旨みがじんわりと口中に広がり、も

          味蕾が蘇った

          学ぶことの悦び

          知らないことを学ぶのは、とてもワクワクします。 知っていることを更に深めるのは、とても楽しいです。 学校の勉強がちっとも面白くなかったのは、やらされ感があったからでしょうか。 学ぶことはこんなにも楽しいし、知らないことを知る楽しさや、知っていることを深める喜びは、人間に与えられた特権のような気がします。(人間だけでなく、動物たちも本当は学び、遊ぶことが好きみたいですけれど) 50代も終わりになって、断捨離検定1級を受検しました。 それなりに勉強をしたつもりでしたが、資格試験

          学ぶことの悦び

          養生

          身体に対して、心を込めるというか、ちゃんと使うということを気にかけています。 食事、運動、呼吸、ストレスなど。多すぎず少なすぎず、中庸のバランスを取りつつ、ストイックにもなりすぎず、気持ちの良い塩梅を図っています。 ついやり過ぎてしまう性格的な特性があるため、ほどほどを心がけて、楽しさを逸脱しない範囲で、ちょっと負荷をかけたりすることをしています。 基本はプラントベースのホールフード。日本語で言えば、植物中心の全体食です。たまに肉も魚も食べます。卵も食べるけれど、乳製品は

          好きなことだけやるって決めた

          そういえば、やりたくないことをやらなくなりました。 歳を重ねると、丸くなるというけれど、そうでもなくて、嫌なことは嫌だとはっきりお断りできるようになりました。 ひと通りのお役目を生きてきて、元の自分に戻れたような感じでしょうか。 妻として、という制限はほとんど感じたことはありませんが、制服を着て仕事をする時の役目とか、母親としての役割とか、その他地域やコミュニティでの大小様々なお役目を経験して、自分の在り方を問い直した時、我慢は自分も他人も不幸にすると思うようになりました。

          好きなことだけやるって決めた

          意識では違う世界の人

          夫と別居して10年ほどになります。 今では一緒に買い物をしたり、遊びに出かけたり、都合よく付き合っています。 時折ハーゲンダッツを全種類2個ずつ買ってきて、冷凍室を満たしてくれます。 家に来たら、隅々まで掃除をしてくれて、ピカピカにしてくれます。 はい、とても良い人です。 先日、二人でコーヒーを飲みながらぼんやりとしていました。 市場で買い物をした後だったので、そんな話が出たのだと思いますが、うっすらとすべてのものが値上がりをしていて、大変だと言います。 円安だし、日本は食

          意識では違う世界の人

          命をかける

          キリスト教において、最高の愛は他者のために自分の命を捧げること、とあります。 イエス・キリストが人間のすべての罪を背負って、十字架にて葬られ、三日目に蘇ったことによって、人類の罪が贖われました。 なぜ、そんなことをしたのかは、旧約聖書から学ぶ必要があり、膨大すぎて省略いたしますが、人のために命を捧げるということが、キリスト教での最高の愛であるということは間違いないことです。 死んでお詫びをしますって言いますけれど、死んで詫びられても迷惑だし、困ってしまいます。 命を賭けると

          決断の時

          本当にいつの頃からか忘れてしまったのですけれど、この世界を創り出しているのは自分自身であるという話を、すっかりそのように受け止めています。 シンクロニシティのような出来事も、自分の思う方向に後押ししてくれるような発言を誰かから聞くのも、全部自分が仕込んでいるのだと、時々思い出します。 思い出すのは時々なので、シンクロニシティが起きたり、後押ししてもらったりしたら、素直に喜んでしまいます。 そして、後で自分が仕込んだことなのだと、目覚めるわけなのです。 何かをやりたい。何かを