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光を観る旅パート4

潜伏キリシタンが迫害を受けた歴史は、知識として知っており、遠藤周作の沈黙を読み、スコセッシ監督の沈黙を観て、すごく重たいイメージを抱いていました。

その象徴とも言える、牢屋の窄(さこ)教会に到着しました。
細長い湾の向かい側には、この島のかつての豪氏宅と、寺社が臨めます。
その小高い場所に、二百名を超える潜伏キリシタンたちが集められ、12畳のスペースに全員が八ヶ月間閉じ込められ、劣悪な環境で次々に人が死んでいったそうです。

ガイドさんがこう話していました。人と人との対立を生む宗教とは、いったい何なのでしょうね。今もガザ地区で、同じようなことが起きています。神は本当にそのようなことを望んでおられるのでしょうか。

座敷牢のあった跡地は空き地のままで、隣に教会が建っています。
そして正面には、殉教者の石碑と、死因が彫られています。
立錐の余地もない場所で転倒して圧死。蛆虫に腹食い破られて死亡。渇きのため死亡。短躯のため圧死。
39名が死亡、解放されてからも3名が死亡したそうで、この事件が世界に広まり、禁教令が解かれたそうです。



隣に建つ教会の中には入れませんでしたが、入り口から内部を覗くと、カーペットの色が二色に分かれています。12畳のスペースを表していて、ここに200人を閉じ込めるという残酷な真似を、同じ人間がなぜできるのだろう。さらには、200人の中には幼い子どもたちも居て、親はこの子だけでも助けて欲しいとは願わなかったのだろうか。
命に対して、どんな感覚を抱いていたのだろうか。彼らの神は、それでも沈黙をして、それが神の答えだとしたら、信仰とはなんなのだろうかと、沈黙を読み、観て思ったことを、この地で再び考え込むことになりました。

娘はこの牢屋の窄教会で、ズーんと重たいものを受け取ったそうで、すっかりしょぼしょぼしていました。

ここから見えるお寺を指差して、役人たちは、転べば(改宗すれば)楽になるぞと、何度も何度も諭したそうです。

どれがお寺だろ

生きていても苦しいし、自死は大罪なので、死んでハライソに行くことだけが、彼らの希望だったのかもしれませんけれど、やっぱり考えてしまいます。神はそんなことを望むのだろうか。
キリストは、人間の罪をすべて引き受けて死んで、そして復活したのではないか。
自分と同じ苦しみを、自分のフォロワーたちに味わって欲しいと望むだろうか。

キリストの十二使徒達も、確かに迫害を受けて、悲惨な死を遂げています。ちゃんと老年まで生きたのは、黙示録でおなじみのヨハネだけです。
キリストを信じるものは皆、迫害を受けるとかいう教えが伝わったのでしょうか。
当時の通辞が間違えたのかも。それともそもそも植民地支配とキリスト教の布教はセットだから、あえて、虐げられた身分の低い者たちに布教して、ハライソの素晴らしさを説き、夢を見させたのかしら。
そして大名クラスには、戦国の虚しさを説き、関白や将軍ではなく、デウスに忠誠を誓わせることで、ジパングをどうにかしようとしたのかしら。

この日一日、そんなことをつらつらと考えていました。

久賀島では、悲しみを感じたと、娘は話していました。
私は、信じる者は救われるのかもしれないけれど、今の命を大切にしたいなぁと、現世的なことを観じました。

お昼を食べなかったので、ホテルの会席が美味しくて量が三人前くらいあって、今の時代に生きてて良かったと、満腹で展望風呂に浸かりながら、福江の夜景を眺めておりました。現世は素晴らしいよ。

まだ続きます。

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