今の範囲
今に意識を繋ぎ止めておくことはとても難しいです。
海が凪いでいたとしても、波が打ち寄せるように、川の水を堰き止めたとしても、流れ自体は止められないように、意識は次々と押し寄せてきて、次々とイメージが再生されて、寝ていたとしても夢で意識は動きます。
今という瞬間自体、刻々と刻まれていき、流れていきます。
今の自分という概念さえ、きっと昨日と今日で違うだろうし、朝と夜でも違うかもしれません。
コーヒーを飲みたいと思ってお湯を沸かしても、お湯が沸いたら欲しくないこともあるし、お腹がすいたと思って家に帰ったら、別に空いていないということも、よくあります。
なんだのだろう、この移ろいゆく自分の感覚や感情は。
天邪鬼ってことでしょうか。
マインドフルネスや瞑想は、意識を今に集中させることを目的としていますが、それによって、おそらくは宇宙と一体になれたり、あの世から天啓を受けたりできるらしいです。
サマディという状態ですね。
日本語では三昧と言います。
ちょっと違う意味で使われることが多いです。
贅沢三昧とか、読書三昧とか、すしざんまいとか(違うか)
断捨離では、今の自分が使うか、使いたいのかを自分に問いかけて、そのものをどうするのか決断します。
けれど、今という感覚こそ実にあやふやで、捉えどころのない基準のようにも思います。
頼まれたことを今からやります。という「今」だって、今この時なのか、5分後なのか、今日中なのか。
約束に遅れて「今家を出る」にしても、1分後なのか5分後なのか10分後なのか。
人の感覚はそれほどにもバラバラで、統一基準がないものなので、トラブルの原因になったりもします。
それでも日本人であれば、それほど大きな差はないでしょう。
ラテン時間というのがあって(あるのか?)待ち合わせの時間に家を出るとか、待ち合わせの時間に支度をするとか、待ち合わせの時間に起きるとか。
そんな国もあって、日本人的には結構ストレスかもしれません。
ちょっと話はずれましたが、今に意識を向けておくことは、例えば映画を観ている時や、本を読んでいる時、ちょっとした気の緩みで、すぐに意識がどこかに飛んでいってしまうことが、比較的意識しやすいシチュエーションです。
本ならページを戻すことができますし、動画配信なら戻すこともできます。
けれども、リアルに生活をしていると、意識は本当にあちこちに飛んで、今日1日の自分の行動が、どれほどとっ散らかっているかを、思い知ることがしばしばです。
瞑想は、下手にやると危ないので、深呼吸をして、自分の身体を感じることがよろしいかと思いますが、自分が今何をしていたのかさえ、見失ってしまう自分の意識を、どうにかしたいと本気で思っています。
この文だって、書き始めた時とはまったく異なる落とし所になることがよくあります。
今日はこんなことを書きたかったんだっけ。違う気もするのですけれど、まあいいか。
いつもお付き合いいただき、ありがとうございます。
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