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山梨でプーランク②プーランクの生涯その1

こんにちは、ウチダユメミ(@yumemiob_sub)です。
山梨に移り住んで、約3年。
ぶどう農家を営みつつ、
オーボエの演奏やレッスンなどの音楽活動をしております。

2023年4月1日にYCC県民文化ホールで
オーボエを中心とした室内楽で全曲プーランクのコンサートを行います。
オーボエの魅力やワイン県・山梨だからこそフランスの作曲家・プーランクの素敵な曲たちを
広く山梨の皆さんに知って頂けたらいいなぁという想いがあります。

プーランクについて、コンサートまでの間、
色々と記していこうと思います。

#山梨でプーランク 」こちらにてシリーズ化してます。

プーランクってどういう人?

まずはプーランクってどういう人なのか、自分の今までのツイートを絡めてご紹介していきましょう♪

どこの国の人?どの時代の人?

フランスの作曲家。
1899年にパリで生まれて、1963年にパリで没す。
生粋のパリっ子・都会っ子。

1899年というと日本でいうと明治32年。
1963年は昭和38年(東京オリンピックvol.1の前年)

プーランクは生きてる間に2度の大きな戦争を体験してるんですね。
第一次世界大戦(1914〜1918年)と第二次世界大戦(1939〜1945年)
プーランク自身、2度の従軍も体験しています。

プーランクのご両親

実家は製薬会社を経営。
プーランクはいわゆる「御坊ちゃま育ち」。
プーランクの父は実業家であり、敬虔なローマ・カトリックの信者。
母は確かな腕前を持つアマチュアピアニスト(レパートリーはクラシックからカジュアルなものまで)。
そして叔父によくコミックオペラに連れて行ってもらっていた。

そんな家庭環境もあって、軽妙洒脱な楽曲も多く作曲されたが、宗教曲もたくさん描かれた。(ちなみに私は「スタバト・マーテル(FP:148)」がお気に入り)。
プーランクに影響を与えた両親も10代後半に立て続けに亡くなってしまう。

親代わりのビニャス

その当時、ついてたピアノの師匠リカルド・ビニェスはプーランクにとって精神的な支えとなった。ちなみにビニェスはスペイン人、ラヴェルやドビュッシーの初演者として有名。

デビューするまで

17歳の頃、女友達レイモンド・リノシエに誘われて「本の友の家(戦時中に文学運動の拠点の一つとして文化史に名の残る書店)」に出入りする。そこでたくさんの「アヴァンギャルド(前衛)」の詩人と知り合う。
後にここで出会った詩人の作品に曲を付けることになる。
普通高校を卒業した後、音大に進む予定だったプーランク。

しかしその頃に両親を亡くし、18歳で音楽家として生計を立てる決意をする。
1917年に歌曲「黒人狂詩曲」でデビュー。
こうした経緯から音大などで学ぶ事は無かったが作曲家で教育者のシャルル・ケクランにレッスンを、ルーセルにアドバイスを求めていた。

プーランクは幼少期にドビュッシーに、少年期にはシューベルト「冬の旅」、ストラヴィンスキー「春の祭典」の影響を受けている。
概出のデビュー曲「黒人狂詩曲」の初演にストラヴィンスキーは訪れておりプーランクの才能を見抜き初期の出版の手助けをしている。

プーランクの生涯その2に続きます。

コンサートチケットインフォメーション

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