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【不定期連載エッセイ:二進も三進も行かないVol.12】 風情

20代前半、社会の一員にも学生の端くれにもなれてない無所属の人間にこの世で通用する財力などあるはずもなく、前回書いたヨーロッパ旅行でその針は完全にマイナスに振り切っています。
その投稿が今までで一番読まれている様で、ありがとうございます。
やっぱり”旅行”とか”サッカー”とかマジョリティコンテンツには需要があるんだなと実感しました。

余談です。
何か作業をする時はもっぱら近所のコメダ珈琲に行くのですが、やっぱりお店に入るということはお金がかかるので頻度を調整します。そして混んでなければできるだけ長くいます。まだ値段÷時間で計算してしまいます。こんなこと本当にもうやめたいです。
今週はもう結構行ってるし今日は公園で座ろうなどと飲み物だけ買いにコンビニに寄り、欲に任せた会計で普段のカフェ代を超えていたりすると自分を理解できなくなります。そういう小さな自分との約束放棄が導火線を徐々に蝕んでいき崩壊に繋がっていくのでしょう。
余談でした。

さあ、初期ではタイトルが単語だったのに対して最近は文章になってきたりブレブレなので初心を思い出して書こうと思います。春なのでね。
ちなみに今はマンチェスターシティ対ルートンタウンのリーグ戦を見ながら書いているので気が散ってしょうがないです。ここに義務性は全く持ってないはずなのですが。さっき橋岡選手の顔に当たってハーランドの先制点が決まりました。少し前にも同じように当たってしまって失点をしていた気がするので、プレーの質とはまた別軸で失点関与のイメージがついてしまうのがかわいそうです。報われて欲しいです。

はい、今日はサッカーじゃないです。すみませんもうやめます。

最近よく散歩をする様になりました。
寒かったのもありますが、旅行から帰ってきて鼻の調子が悪くて薬を飲んでいた頃は副作用なのかいくら寝ても眠くて生活に日光が入る余地がありませんでした。日が落ちてからようやくスイッチが入るみたいな、不効率な命の回転だな〜とは感じつつも改善できない日々でした。

体調も回復して、新しい仕事も始めて、これまで家からリモートで働いていたのを出勤するような別の職種に変えました。働いてこそいるものの、ほとんどニートのような生活をしていた僕には毎朝駅まで歩く道が楽しくて、無意識下の呼吸が普段より澄んでいるようなそんな気分になります。

この季節に一切上を見上げることなく飲み慣れてない酒でまっかっかな大学生の軍団や、早朝から場所取りに来ていたであろう疲れ切った顔の新入社員の方々を横目に颯爽と目に桜色を映すのです。

それからは仕事がない日も朝起きて近所のひらけた公園をカフェオレ片手に音楽ないしはラジオを聴きながら歩いています。本当はコーヒー片手にの方がカッコがつくのですが、まだ苦くて飲めないので仕方なくカフェオレで手を打ちます。
この時は決まってランニングコースの周り方とは逆の方向で歩きます。なんとなく走りのスピードに引っ張られる気がするし、その場と切り離して自分がただ歩くことに集中できる気がするから。
雇ってもらったレコードショップの上司の方にお勧めしてもらったアルバムのジャケットがそのランニングコースで撮られていて、そんな親近感も相まって最近の散歩曲になっています。

もう知りすぎた公園をただひたすら歩きます。お気に入りのプレイリストが終わるまででもいいし、聞いているラジオが終わるまででもいいし、気にせず途中で切り上げてもいい。自由です。散歩とは自由なのです。

とはいえ歩きながら何も考えてないわけでもなく、現状のこととか少し鼻先の未来のこととか関係なく目についたものを頭に廻らせます。
帰国してそろそろ2年が経つこの頃、縁あってようやくラジオに携わる仕事ができることになりました。週1と少ないけど、紛れもなくラジオの仕事なのです。ただラジオ局に通うことがゴールではないので、やっとスタートラインから抜け出せたことだけを言い聞かせています。
正直、帰国前の思惑と予定計画からはめちゃめちゃに遅れています。もう既に担当番組を掴んでいる予定でしたから。時間がかかりすぎたのでこっからは現場に入れたのをいいことに加速して追いつき追い越したいです。

散歩をしているとストレス程度を割と低めに感じながらそんな真面目な事も考えられる気がしてきました。いつしか慣れてそれも無理になるかもしれないけど。
目についたものでいうと最近有線のイヤホン、ヘッドホンをよく見るようになった気がします。ファッション的な人も音質に拘りたい人も両方いるんだろうけど明らかに流行っている。これもY2K的なものの括りの範疇なのでしょうか。っていうかこのリバイバルカルチャーの本来の世代ではないはずなのにどうしてあれだけの懐かしさと存在しない記憶を生み出せるのか不思議で仕方ありません。
カセットテープとかレコード(LPとか)の流行りとかもその一部なんだろうけど、周りがフィルムカメラに手を出し始めたり、コーヒーを挽く器具に興味を持っていたり、色々なことが便利に短縮・自動化された今、皆手間をかけるという体験に価値を見出しているのでしょうか。人は矛盾ですね。
まあ調べればこんな流行についての記事なんていくらでもあるのでしょうけど、答えが知りたいわけではないので主観の景色の奥行きを求めます。

僕はイヤホンはAir Podsしか持ってないし、ヘッドホンは有線だけど携帯からはイヤホンジャックがいつしか消えたから普通にラジオを録る必要な時しか使わないです。もし外でヘッドホン付けるとしても無線がいい。キョロキョロするときに服の襟とかに引っかかってザザッてなるの嫌なんですよね。
一方で、事レコードに至っては自分も手を出していますし、わざわざプレイヤーを準備してセットして針を落とすという行動に一定の興奮を覚えます。
これは手間。聴きたい曲がサブスクリプションにあるならそっちで聞いたほうが早いし簡単です。それでもレコードを選ぶ瞬間があるのです。

僕は自分の手で盤に針を落とすことに高揚し満足します。要するに自己満です。手間が省けたこの時代は手柄もあまりないのでしょう。だからわざわざLightningとフォーンプラグの変換をつけてまで有線で音楽を聴いて、カセットテープをぶら下げて歩いて、写真屋に行って現像して、コーヒー豆をぐるぐる挽いて内的手柄を得ようとするのかもわかりません。想像なんでね。

結局全てホログラムの世界になっても「今日は手巻き寿司よ」の夜があるんでしょうね。どちらにせよ散歩が生み出す脳の空白とそこに入り込んできた景色によって将来この時代が持つ質感を作っている人たちが現在進行形で世に潜んでいることはわかったので見逃さないようにしようと思います。


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