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書くこと、読むことには、"信頼"が必要なのかもしれない。

世の中にはいろいろな人がいる。
自分よりももっと、辛かったり、苦しい状況に置かれている人もいる。

その境遇や気持ちを想像することは、大切だ。

でも想像しすぎると、自分がしんどくなる。

そして何かを発信しようと思っても、想像をめぐらせすぎてしまうと、その一歩が出なくなる。傷つけるくらいだったら、言わない方がいいか…と。

そんなことをもんもんと考えていたときに、椿さんのこちらのnoteを目にした。

相手のせいにするとか相手の苦しみをあなたのせいだと責めるというわけではなくて、その人のつらさと距離を置いて、自分のものにしないようにする

言葉にすることが難しい部分を、言葉にしていただいたような気がした。

その人のしんどさは、その人のもの。

突き放しているわけではなく、そこには介入ができない。

知り合いだったら、話をじっくり聞いたうえで、もしかしたら力になることはできるかもしれない。

でも全く知らない誰かの状況や気持ちすべてを想像するなんて無理だ。
少なくとも私にはできない。
これは”冷たい”と言うのだろうか。

たぶん、知らずしらず誰かを傷つけてしまうことになる。

それはゆるされるのだろうか。
いや、ゆるされるかどうかじゃなく、自分がそれをゆるせるのだろうか。

「すべてを想像するなんて無理」と言いながらも「誰も傷つけたくない」と思っている気持ちも本当。誰かを傷つけてしまうことを、自分自身が一番ゆるせない気がする。

そんなときに、こちらのnoteも目にした。

困るのは、なぜ傷ついたのかよく分からないときもあること。どこに地雷があるのかわからない。生きているだけで、黒ひげ危機一髪を常にしているみたいなスリリングさがある。

個性があるように、傷つき方も十人十色。
いくらこちらが傷つけまいと思っていても、いつのまにか相手が傷ついてしまっていることはある。

そして、みさきちさんはこうも書いていた。

傷つけられて、傷つけて、出来ればゆるしゆるされながら生きていたい。

「傷つけない」ということは避けて通れない。
お互いにどこかできっと、傷つけてしまっている。

開きなおるわけじゃない。
そっか、シンプルに認めればいいのだ。
誰も傷つけることなく生きることは無理なのだと。

「わたしは人を傷つけません」と言っている方が、よっぽどどこかで人を傷つけている。

「今この瞬間も、誰かを傷つけているかもしれない」と自覚することで、「結果的に」誰かが傷つく可能性は0にはできないが、無意味に傷つけることはおそらく避けられるのではないだろうか。

noteを書くときもそうなんだ。

もしかしたらこれを見た誰かの、しんどい部分に触れてしまうのかもしれない。傷つけるつもりじゃなくても、傷つけてしまうかもしれない。

そう思うと、書くことが進まなくなる。
何回も何回も読み返して、「この言葉や表現は、こういう人たちが見たら傷つくかもしれない」と考えてしまう。

そんなことを考えること自体、おこがましいとも感じる。
でもどうしても、考えてしまう。

ただ「公開」したとたんに、誰の目にふれるかなんて、もはやわからない。ある意味自分から巣立っていった文章たちが、どこの、誰に、どのように届いているのか、追うことは難しい。

もう「信頼」するしかないのだ。
自分が書いた文章を。

少なくとも誰かを意図的に傷つけようと思って書いた文章ではない。
だからきっと大丈夫。信じよう。

そして、読んでくれる人を信じよう。
結果、傷つけてしまうことがあったらごめんなさい。でも「あなたのことを傷つけたかったわけじゃないんだ」ということを、きっとわかってくれると信じる。

そして、わたしのことも信じてほしい。
一つひとつの言葉を大事にあつかっている。言葉に敬意ももっている。誰かを故意に傷つけようと思って書いているわけじゃない。

顔の見えない誰かと信頼しあうことなんてできるのだろうか。

でも「絶対に誰かを傷つけない」ということが言えない以上は、信頼関係の上で書いたり、読んだりするしかないのだ。

びくびくして縮こまってしまう文章を書くよりも、受け取ってくれる誰かを信じてのびのびと書いた方が、きっといい。

少なくともこのnoteの世界では、書き手さん、読み手さんを信頼し合いながら書くことを続けたいなって思う。


引用させていただいた椿さん、みさきちさん、ありがとうございました。

そんなわけで、今日はおしまい。

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