森ガキ侑大

DIRECTOR /「ドラマ」/時効警察/満島ひかり×江戸川乱歩 /坂の途中の家/ 「…

森ガキ侑大

DIRECTOR /「ドラマ」/時効警察/満島ひかり×江戸川乱歩 /坂の途中の家/ 「映画」/おじいちゃん死んじゃったって。/さんかく窓の外側は夜/人と仕事「2021年10月8日公開」 http://morigakiyukihiro.com/

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  • 演出日記

    好き勝手に森ガキが演出した時の感情をつぶやきす。ツイッターでは書ききれない事を載せていければと思います。

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緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて)最終話

僕は映画とCM、両方の監督をする上で、それぞれの良さや特徴を捉えていった。  CMは、とにかく短い言葉や短い映像で視聴者の心をつかまなければならない。いわば瞬発力が必要だ。一方、映画は物語の構成を引き算、足し算し、盛り上げる部分をしっかりと描くことだと思っている。後半を盛り上げるなら前半は抑えめにといった具合に、約2時間を俯瞰(ふかん)して見て全体のバランスを整えていく必要がある。  CMが短距離走なら、映画はまさしく長距離走のマラソンだ。マラソンと短距離走で走り方は違えど、

    • 緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて)7話

      2作目は大手の松竹から声が掛かった。前作の「おじいちゃん、死んじゃったって。」を見た制作担当者から「さんかく窓の外側は夜」の監督を僕にやってほしいとオファーがあったのだ。  キャスティング段階から関わり、プロデューサーたちと意見を交わした。志尊淳や岡田将生といった旬の俳優を起用し、大ヒット作を目指した。この作品は全国の300を超える映画館が上映してくれ、初日は大ヒット記録を塗り替えている「鬼滅の刃」を抜いた。しかし折しも新型コロナウイルスの感染拡大で緊急事態宣言が全国に発令さ

      • 緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて)6話

        CM監督になってから5年が経とうしていた。そろそろ、助走距離の半分前まで到達した気がして焦りが募っていた。僕は映画を撮るために多くの映画プロデューサーと会い、企画を進めた。しかし、1本も映画を撮ったことのない僕にはチャンスはなかなかもらえなかった。  そんな中、脚本はあるが制作に着手していない映画企画に出合った。「ぜひ撮りたい」と思い、自らCMで関わりのあったタレント事務所や芸能事務所に出演を申し込んだ。知り合いのCMプロデューサーは資金集めに奔走してくれた。そして、そこから

        • 緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて)5話

          ある日、東京で知り合った広告会社の人に、CM監督集団「ザ・ディレクターズ・ギルド」を紹介してもらった。優秀な先輩たちのかばん持ちをしながら一緒に働き、毎日ご飯だけ食べさせてもらう仕組みだ。給料なしのでっち奉公だったが、福岡の会社をやめ、人生を懸けるつもりで上京した。  年収は50万円くらいに激減し、貯金を食いつぶす毎日となった。1人暮らしができるほどの余裕はなく、東京に住むミュージシャンの兄と5畳一間で一緒に生活し、一緒の布団で寝た。髪を切る金もなかった。のどが渇くと公園の水

        緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて)最終話

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          緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて) 4話 森ガキ侑大

          福岡での入社式の日の出来事は今でも忘れられない。同期とランチを食べながら好きなCMや映像の話ができるのかと思っていたら、いきなり仕事が降ってきた。  もやしをふんだんに使った、ちゃんぽん麺のCMの撮影準備で、もやしのひげをひたすらもぎ取るというもの。CMは何度も撮り直すため、大量のもやしを使う。この大変地味な作業が数日間、朝から深夜まで続いた。  いきなり、映像業界から先制パンチを食らった気がした。やっぱり、お金をもらうということは大変なんだ。そう自分に言い聞かせようとしたが

          緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて) 4話 森ガキ侑大

          緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて) 3話 森ガキ侑大

          大学3年の秋になり就職活動が始まった。映画監督になりたかった僕は、東京の映画会社に片っ端から電話したが、監督の採用予定がないことを知る。  いったいどうすれば映画監督になれるのか―。なり方が分からなくて悩んだ。「映画監督になるには」という本を西区のアルパークの本屋で買ったこと今でも忘れない。そして悩んだ末に分かったのは、有名な映画監督の中にはCM監督からスタートした人もいるということだった。尾道市出身の故大林宣彦監督もその一人だった。  単純な僕は、そこから急にCMに興味を持

          緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて) 3話 森ガキ侑大

          緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて) 2話 森ガキ侑大

          映画業界に就職したい思いは、陸上をやめて次第に強くなっていった。しかし両親にはなかなか言い出せなかった。なぜなら僕は、東京や大阪の美大進学を目指し、母親は猛反対していたからだ。  母親の言い分はこうだ。美大は学費が高い。家賃や光熱費などの支払いもある。アルバイトに明け暮れて好きな映像作品を作っている暇などないのではないか。広島の大学なら家から通えるし、家賃もかからない。アルバイトも作品作りもできるのではないか、と。  母の言葉には説得力があった。母に言い負かされた僕は、広島市

          緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて) 2話 森ガキ侑大

          緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて) 1話 森ガキ侑大

           CM業界で11年間働き、2017年に映画「おじいちゃん、死んじゃったって。」で映画監督デビューした。現在は、CMディレクターと映画監督の二足のわらじを履いているが、映画監督への道はまさに手探り状態だった。  僕は中学時代からずっと陸上競技に打ち込んできた。競技は800㍍、1500㍍だ。中学、高校でキャプテンを務め、団体戦ではどちらも総合優勝できた。個人種目では県大会2位になったが、同じ広島市出身の為末大さんには遠く及ばなかった。  為末さんくらいの県大会記録を持っていないと

          緑地帯 映画監督へ(中国新聞にて) 1話 森ガキ侑大

          古いものをどれだけ残せて死んでいくのか?

          尾道市街地の東端、見晴らしのよい高台に建つクジラ別館は、古民家を再生した一棟貸しの旅館。大正〜昭和初期にかけて尾道商人が建てた“茶園”と呼ばれる別荘建築のひとつで、尾道の歴史と文化を今に伝える貴重な日本家屋です。現地・尾道のクリエイター達がリノベーションを手がけており、家屋に深く刻まれた歴史と洗練された意匠とが同居する、情緒ゆたかな空間となっています。           そんな、クジラ別館をなぜ作ってしまったのか? 僕、自身が映画「おじいちゃん、死んじゃったって」の上映

          古いものをどれだけ残せて死んでいくのか?

          映画監督になれるとは思わなかった

          高校までは陸上競技に全力を注いでいたが、ケガによる挫折を経験。打ち込むものを失った。そんな、少年を救ってくれたのは、レンタルビデオ店に並んでいた映画だった。 「映画ってこんなに人の心を動かすものなんだと、初めて監督という仕事に興味をもったんです。でもそれでは食べていけないと母からは映画の専門学校や美大への進学を反対されて。地元の広島の大学に通いながら、演出するために演技を学ぶことが必要だと感じて劇団に入ったり、独学で短編やドキュメンタリーを撮り始めました」 卒業後はCM監督

          映画監督になれるとは思わなかった

          こんな時代だからこそ、できる表現

          この企画をいただいた時に、素直に面白いと思った。表現というものは時代を通していろんな形が生まれると思っている。能や歌舞伎なども時代というフィルターを通して生まれてきた、そして、映画やラジオ、テレビなども時代の変化として生まれてきた表現の場だと思っている。そして、リモートでのドラマもまた、今だからこそ意味ある表現だと思っている。 「制御された中での表現は新たな価値を生む」もちろん、僕だって志尊くんや水原さんに直接あって演出をしたかったのは事実です。水原さんに関しては本当に初め

          こんな時代だからこそ、できる表現