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作品は意識して制作するものではなく当たり前に創作人生を送っている結果生まれるものと私は考えます

手作り系職人の方で

・作品制作=自己の創作を純粋に表現したもの(創作的に純粋なホンモノ)

・商品制作=日々の仕事で生まれる製品(創作的に汚れたもの)

みたいに分けて言う人を時折眼にします。

「まだこんな古臭い事を言う人がいるのか」と私は個人的に思うのですが・・・そのような事を言う人は分野問わずかなりの数おります。

その「作品」は・・・実際には殆どが団体展出品用で「その団体に入選するために年に何作かワザワザつくる作品」である事が多い気がします。そういう動機は、売るために制作する商品よりも清らかなのでしょうか・・・? 私にはそう思えません。

商業的な意味で「〇〇会会員」などの権威を得ておいた方が有利になるという事で戦略的にそうする場合はむしろ潔いと私は感じます。

しかし、自分で「これは純粋な創作動機で制作した芸術作品」と宣言しただけで自作を「創作的に純粋な作品/創作的に不純な商品」と分類する人は自己矛盾を起こしていると思います。

本来的に、自分が手掛けて社会に出すものに「ホンモノもニセモノも無い」わけです。分けて考えている人だとしても、事実はどちらも自分の作品です。当然どちらにも責任が伴います。その事実から人は逃げられません。社会人であるならば当たり前の話です。

歪んだ特権意識と優越思想に冒された平凡な現代芸術家みたいな「芸術家は特別な存在ゆえに、その芸術によって人々を傷つけたとしても免責されるのが当然」という態度は人として下劣過ぎますし、そういう自称芸術家の作品は殆ど全てのものが平凡でつまらないものです。もし芸術家は社会人ではなく社会と関係のない自由な存在だと言う人がいるなら私はその人に産道から出てくる所からやり直せ!と言うしかありません。

そもそも、売るために作る製品を生み出す事がどうして創作的に不純なのか理解出来ません。それはむしろ「いわゆる作品」作りより難しくもあります。それが商品製作ではなく「請負加工」であっても同じです。言うまでもなくそこにも創作がありますから、美が宿り、歴史に残るものも出てきます。

売るためのものをつくる際には自己満足的自己完結は許されません。それを購入し、使う人のためになっていないと売れませんから「本当の真剣勝負で制作しないと通用しない」わけです。

その厳しい世界では、ただ褒めてもらっても意味がなく、お客さまが安くない額の身銭を切って所有権を得る・・・という大変高いハードルを超える必要があります。さらにそれが長年に渡って実用され何度も試されます。そこでダメなものと見なされれば次は無いのです。厳しい世界です。

そのようなものは、製作者だけではなく、その地域の歴史やその工房の特徴もその製品に乗ります。その製品自体が地域の特徴を表すものになる事もあります。それはいわゆる「産地もの」ですが、だからこその広さと深度が出る事があります。それは数多く生産する事と地域の集合知によって洗練されるからです。工芸品の場合「個人作品」だけが創作的というわけではありません。

そもそも【一人の人間の技術と感受性で生み出すもので、これは創作的に本気出した作品/これは売るための妥協した商品と、明快にキャラクターを分けて作れる人はいない】と思いますし、実際、表向き作り分けているようで根幹は変わらない事が殆どです。

私は例外を観た事が無いのですが「作品と商品と分けて考える人」の「自称・創作的に妥協が無い作品」は「商品として制作したもの」あるいは「実用品として制作されたもの」を超えません。商品として仕事したものの方がずっとレベルが高く完成度も高く、ヌケ感もあって良いものでした。これは分野問わずです。地力のある人の場合は「どちらも同じようなものに観える」ものになります。

そうなるのは当然とも言えます。

そのような人の日常の売るための製品あるいは請負加工は、毎日の仕事で鍛えられた感覚と技巧の成果が出ており、かつ社会的責任を意識して作られたものですから(失敗すれば経済的な大ダメージを背負うので自然に真剣になります)構造的に言って「自然にその人の実力が深く掘り出される」わけです。

逆に、

ある職人さんが「純粋な創作的性を持つ作品を制作するのだ!と宣言してワザワザ作品制作をする」場合は・・・ようするに普段は創作的作品を作っていないという事です。別に日常、売るための製品づくりをしていたとしても毎日自分の創作をする事は可能ですし、そもそも誰もそれを止めません。しかし、そうではないからワザワザつくらなければならない・・・

創作に生きている人たちの日常は、毎日寝ても覚めても創作全般について興味があって自分が好きで面白くて仕方がないから、色々な事象を観察して勉強して、関連本を読んだりメモを取ったり、考えた事を毎日文章に起こしたり、アイデアをスケッチしたり、日常の生活や仕事の色々な瞬間を写真を当たり前に撮って編集したり、自分の創作への考えを述べ他人と議論したり、新たな作品のたたき台をつくったり、それらをSNSで公開して社会からの反応を観たり、創作に関する思いつきを長々と友人にメールで送りつけてドン引かれたり、その他その他・・・美術館に行くのだってワザワザではなく、当たり前の日常です。そういう人たちはそういう生活が好きだし、それしか知らないわけですし・・・

誰に言われたわけでも無いのに自分が毎日そうしたいから自然に創作的な日常を送っている・・・それが好きとか嫌いとか頭に浮かばないぐらいに当たり前に創作生活を送っているのです。

しかし、ワザワザ作品作りを意識する職人さんの場合、手技は日常の仕事でもあるから勉強し技術を鍛えているとしても「創作分野に関しては日常がそうではない」という事になります。なのに、毎日やっている売るための製品づくりの仕事以上のレベルの「作品」を制作するのは普通に言って不可能だと思うのですが・・・

繰り返しになりますが、そもそも、創作家は「ワザワザ作品を作ろうと思っていない」のです。もちろん注文があって作品をつくる事も多いわけですが、彼らは「日常が創作」であって、呼吸をするように作品を作るのです。注文品でも変わりません。「日常の作品づくりのなかに注文のものも含まれるだけの話」です。

創作が好きだからやっているだけで、創作に関する事では努力を努力と感じていません。もっと切迫感のある人の場合は、突き上がってくる衝動を抑えられないからやらざるを得ず、それに関する知識欲も強いから辛くても納得行くまで勉強をするというものであって、ワザワザやるのではありません。

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作品制作するにあたって「わざわざ創作的に純粋な作品を作ろうと意図して制作する」のであれば、それは創作的に純粋な作品ではないと私は思っております。

作品の純粋性は、その人の創作的生活から自然に生じるものだと私は考えております。

それなら日常的に創作的生活を送っていれば良いだけですから実にシンプルです。

「創作の中に生きる人」が制作したものは、自分のためであろうと、売るためであろうと、全て「創作的」です。

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そもそも、人は社会的動物で、経済活動から離れる事は不可能ですから、自分の何かしらの活動を換金出来なければ作品作りはもちろん、日常生活自体が出来ないわけです。制作以外の分野で制作のための経済的な補填をし、作品は純粋にやりたい事だけをやるというのでも結局は他人や経済と関わるわけです。

何かしらの対価を得るには何かしらの労力を必要とします。例えばパトロンを得たら自由な制作を出来るかといえば、殆どのケースでそんな事はなく、やはり人間関係の呪縛から逃れる事は出来ないのです。「自分の作品には他人の意見や経済を持ち込まないようにしている」というのは、あくまでも「自分は純粋に創作していると信じたい」という事に過ぎず、実際には日常の面倒事から逃げる事は出来ていません。

そのような制作以外の面倒事に殆どの人は影響を受け作品制作に如実に影響します。それは時に嫌々やる売るための製品づくりよりも制作者の精神を歪ませる事も多いものです。創作の純粋性は「作品づくりと経済を別に持つ事で担保されない」のです。本当に創作したい人はそんな事も関係なく、何が何でも自分の作品をつくらないといられないからそうします。

売る売らないとか、純粋な表現とかどうとか言っていては、バッハもダビンチもミケランジェロも、宗達も、等伯も、光琳も(その他いくらでも)過去の美の巨人たちは、みなニセモノとなります。良く言われる、近代になり権力者からのお抱えが無くなり、発注無く自主的に創作して売りに行くようになった時代から芸術家が生まれた、みたいな理屈は「単にお金を得るための営業方式が変わっただけ」の話です。何にしても、人は経済から逃げられないのです。

そのような物事は、いわゆる美術・工芸・音楽・・・その他のいわゆる創作系に限らず、研究分野などでも同じではないでしょうか。

ですから

自分が作品と思おうが、商品と思おうが、世に出てそこに美があればそれは残るし、無ければ残らない。制作者はそこに手を出せない。美があってもその時代の社会に受け入れられなければ消える。そして運にも大きく左右される不確定なもの。それらは全て未完成な人為と人工物の話に過ぎないのだ。

と、私は考えます。

嫌々やった、売るための仕事の製品の方が、自分が自由で純粋な創作作品としてつくったものよりもずっと素晴らしいものが出来上がり、それが歴史に残る事もあります。しかし、それもその人の創作性が生み出したものです。

人はただ、その場で環境と自分の能力が許す限りの事を、そして自分が納得する事を全力を尽くしてやる事しか出来ないのだから、ただそうすれば良いのであって、そこに作品とか商品とかいう分類をする事に意味は無いと私は考えています。

私は、どこかの工房で、日常は商品として受注生産する仕事をし、時に工房主個人が作品と称するものを作るにあたって、日常制作している製品を下に観て、作品を上位に置く人を目にすると「自分の日常の仕事を自ら貶すな」と思うのです。そこにも美が宿る事もあるからです。どちらも人為で人造物に過ぎないのです。

製品だの作品だの自分で区分けして上下を決めてもそれらはどうしたって未完成な人為と人造物に過ぎません。

自作を変に区分けするよりも、楽しい麗しい創作的生活を送り当たり前に作品を生み出して行く環境づくりに意識を向けた方がずっと快適で実践的です。


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