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本来は工芸では一点ものなんてありがたくないのです

当工房では、お客さまからの特注でイチから図案を起こしたもの以外の、工房オリジナルの文様染系作品で、仁平幸春作、あるいは工房作品としてでも、一点モノはありません。同じ文様を、同じ配色で何度も制作します。

もちろん、図案を少しアレンジしたり、配色や地色を変えて制作することもします。

ロウのニュアンスで制作したような「まるで偶然そうなったかのような、あやうい文様」であっても、多少のニュアンスは変われど、ほぼ同じものを制作することが出来ます。それが、私の、そして工房の自慢なのです。

(全て手作りなのと、使う素材のロット差などにより、全く同じものをつくることは出来ませんが)

「まるで一点しか出来ないのではないか?と思われるものでも、再現出来る技術と理論」があるわけです。

私がやっている文様染の85%は、ウチで育った弟子なら技術的には同じことを出来ます。そのように弟子を育てるのが当然で、親方の私がやらなければ同じものが出来ないなら、それはその親方がポンコツなのです。笑

「ほら、これはオレサマにしか出来ないだろ?」などと自慢する親方がいたら、それはダメ親方です。

(もちろん、製品の大本はその親方のものですし、どうしても親方しか出来ないものは出てきてしまうのですが。しかし、逆に、親方の作品でも、弟子の方が得意なパートも出てきたりするものです)

再現出来ないような工芸作品は「誇り高き真の工芸品にはなれない」んですよ。

例えば、いわゆる工芸作家の先生たちが「一点もの」なんて言っている作品なんて、別に新作でもなんでもなく、前作のアレンジが殆どですしね。本来的な一点ものなんてものではないわけです。

例えばオシドリが売りの作家さんなら、左にいたオシドリが右に移動した程度だったり、地色が変わっただけじゃん、みたいなものだったり。

そういう事例は、団体展の図録を観れば、いくらでもあるわけでして。。。

仮に、そのオシドリがその人の作風を表すもの、ということであれば、それは別に一点モノではなく「いつものアレね、やっぱり良いね」ということですよね?

それは良い意味で工芸品なのに、どうしてそれを一点モノの作品だからアートなのだ、のような態度をするのでしょう?私には分かりません。

厳しく言えば、全く新しいテーマ、新しい素材において、新しい表現をし、なおかつ自分の表現がブレていないものが真の一点ものです。

そうなると「技術的にも創作的にも公共的に認知されたその人の作風」ということになります。一つの作風で一つの作品、あるいは多少のバリエーションしか作ることが出来ません。

そういう面では、いわゆるファインアートの世界も一点ものなんて殆ど存在出来ません。自分の作風や思想の範囲での新作に過ぎませんしね。イヤな言い方をすれば、試行錯誤の連続の残滓が作品みたいなものです。

工芸品の方では、いわゆるファインアートと違い「工芸においては必ず実用的完成品でなければならない」という命題がありますから「工芸において本来的な一点もの」だとしたら、いわゆるファインアートで一点モノを制作するよりも厳しくなります。

そもそもそんな「真の一点もの」は一人のつくり手の一生に一点あれば良い方で、特別優れた人で3〜5点、超人で7〜10点でしょう。

で、自称「いわゆる一点もの」って価値があるように思われ勝ちですが、しかし実はそういうお作品って文化的にはたいしたものでもないんですよねー。

大昔は、工芸品の物凄い高レベルのものが量産されていたんですよ、だからスゴイわけで。それは文化の底が高い、ということなんです。ようするに、そういうものを大量に生産するだけの見識と美意識と技術と、それを受け取る高いレベルの民衆が沢山いた、ということなんです。それは非常に大切な視点です。

その素材がその時しか手に入らないものを使った工芸品で、それは三点しか出来なかった、とかは別ですけどね。ただし、それが審美的に美しいとは限らないのが怖いところです。それは貴金属的な希少さなので、人為の美の価値とは違います。

陶器などで、焼き締めの具合、釉薬の加減で、特別に優れたものが一万点のなかの一点あった!そのゾッとするほど美しいものは一点しか無かった、ということはあります。

しかし!そうなると「それをチョイスする”超高度な審美眼”が必要」になるのです。厳しい選択による創作と、その裏付け的理論の構築が必要になるわけです。

それは昔のお茶人たちはそうですね。個人の好みや、自分が所属する社中の文脈から導かれたもの、というレベルではなく、超絶高度な美と人間の命とのやりとりレベルの話なんですよ。

それは「鑑賞方法の創作」という分野になるのです。それも重要な創作です。

審美的な部分、あるいは実用性から発生した価値観の創作という基準が設定されてないと、一般的な人間は人造物の価値を感じたり考えることが出来ません。

だから、その「新しい価値観」を創作するわけですね。

工芸的なもので、強いて言えば一点モノ、という範囲で語れるものは、自己申告ではない「自立的に美的な一点もの」です。そういうものは、今も伝承されていて、それが時代を超えて怪しい美を放っていますし、それが後世の創作の見本になっています。

それは、博物館などにある審美的にも歴史的にも重要なものなど、です。

(博物館では、歴史的に重要でも審美的にはたいしたことないものも沢山ありますが)

それは作り手だけで出来るものではありません。それを理論化し、一般化する高度な鑑賞者・解説者がいて、それを受け入れる民衆がいて、それが社会に広まり、さらに時間に晒され、残ったものです。それは公共的な存在にまで昇華した美なのであります。

だから、工芸品で、自己申告で一点しか作らないから貴重な一点もの、だからファインアートで作品!なんて実はぬるい世界なんですよ。そんなものは、その民族全体の文化、という範囲で考えると全然貴重じゃないし、ありがたくもない価値観なんですよ。

と、私は思っています。

実際、歴史的に重要な画家なども、同じものを何度も描いたりします。例えば、ムンクはいわゆる「叫び」をいろいろなパターンで描いていますし、フランシス・ベーコンなども同じテーマを何度も描きます。熊谷守一も、同じ構図と線や、少し違えた構図と線で、色違いを描いたりします。

【自己申告の一点もの云々ではなく「その作品が自立的に美的である」ことによって「高度な個人表現でありながら公共的な価値観にまで到達した」ということが重要なこと】

と私は考えています。


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