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人為の美と自由

美を宿した人為や人造物は

時間から自由になる

経済から自由になる

個別性から自由になる

その美を受けた人は

慣習で眠った感性から自由になる

美を宿した人為や人造物は自由を得る

人が自由につくったものが

自由な作品になるのではなく

人為や人造物に美が宿ると

その人為や人造物が自由になり

その美を受け止めた人に自由を与えるようになる

美に形は無い

美は、必ず何かを介して表れる

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と、私は考えております。

今回の記事は、先日このnoteに書きました

私は「そこに美はあるのか?」という風にしか観ないのです

の核心部分をまとめたものです。

人間の行為や人造物に“美”が宿ると、それは「自由」を得ます
自由に制作したものが、自由な作品になるのではありません
その美に触れると、慣習に眠っていた感性が眼を覚まします

これはとても大切な事実です。

人為や人造物=人の行うあらゆること。いわゆる作品はもちろん、人が作り出すあらゆるもの

慣習に眠っていた感性=人間の社会的生活で、ただ漫然と繰り返されている行為に疑問を持てない眠った感性

*時間から自由になる*

=人為や人造物でありながら自然物と同じく古臭くならず、常に新鮮な存在になる。例えば古臭い湖が存在しないように。

*経済から自由になる*

=その人為や人造物の経済価値が高くても低くても、経済価値が無くても、美はそれと無関係に存在する。

経済価値が高い人為や人造物は、その時代にそれが人気がある、人々が熱烈に欲しがるものである、ということであってモノの価値を絶対的に保証するものではありません。

(制作の際に経済と無関係に制作したからといって、経済から自由になった作品は得られない。これは美が宿った結果として得られた成果)

*個別性から自由になる*

=強い個性を持ちつつ、個性を超えた公共性と普遍性を持つ(一見真逆のような要素が同時に存在し、車の両輪のような存在になる)

*慣習で眠った感性から自由になる*

=ただ漫然と繰り返されている形骸化した、悪い意味での伝統・伝説、風習、思考パターン・・・害にすらなっているそのようなものに疑問を持てない眠った感性からの自由→精神の刷新が起こる

美を宿した、例えば絵画などを鑑賞した後に、いろいろな物が煌めいて観えたりするのはこのためです。

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(ここでは、普段私があまり使わない「芸術」という言葉を説明のために使います)

いろいろな芸術論がありますが・・・

例えば、良くある、

「純粋な創作行為が芸術である系」

は、机上の空論的なものかな、と個人的には思います。

なぜなら、どうやっても人間生活にまとわり付く、経済・目的・実用との折り合いがつかないからです。

いわゆる芸術と、デザインの違い・・・

実用や依頼とは関係のない自らの創作欲求から作られた創作は芸術

他者からの依頼で、実用や経済性を前提とした創作で、機能を説明出来るものはデザイン

という分け方は無理があると私は考えています。

人為は、厳密に言えば、どうやっても経済と目的と実用から逃れられない

何かを書いたり描いたりするのにも、それを残して他人に伝えたいなら、最低でも紙とペンが必要ですし、それを得るのにお金がかかります。他にいろいろ方法を考えても、それを保存するにはお金がかかります。お金を使わなくても、労力の交換や、物々交換が必要でしょう。

そもそも人はゼロから何かを産み出すことが出来ないのですから、どこかから借りるか、いただくかして何かしらの行為をしたり、作ったりしか出来ないのです。神と違い「なれ」と言っただけでは何も産み出せません。

誰も知らない洞窟に、自然にある土を加工し、絵の具にして使って一人で絵を描いたとしても、それは自然と人との間の貸し借りが起こります。そして、それは当人以外は誰も知らないので、世の中に存在していないものになります。

何かモノを産み出した人がお金を欲しがらなくても、それらの行為が誰かの役に立ったり、感銘を与えることがあれば、お礼として金品をいただく事があるかも知れません・・・

また、それを断っても経済的な動きがあった事は消せません。

全く誰とも、自然とも、伝統とも関係なく何かを産み出すことは、人間には出来ません。どうやっても、人為と人造物は人間生活のなかの出来事・社会的行為なのです。どんなに壮大であっても、個人的な小さなことであっても。

自分が働いて賃金を得なくても、パトロンを得たり、自治体や国から助成金を貰うのは経済活動です。

また、芸術品とされている分野の絵画や彫刻でも、依頼主の要望を聴き、制作するのは当たり前に行われます。

どうやっても

人が社会的に行動する=経済的な意味が産まれてしまう

わけです。

目的や意図、ということにおいても、人はゼロから何も産み出せないのですから、絵を描くならその絵を描く目的や意図を持ちます。それが無ければ人は行動を起こせません。

何かを作るための目的や意図には目をつむるとして、仮に自己の創作熱のみで絵を描いたとしても、他人に自作を観てもらいたいと行動するどころか、思っただけでも、創作した当人の精神に他人との関係が産まれてしまい、承認欲求などが起動します。仮にそこでお金のやりとりは無くても、作品を見せることによって、感想という対価を貰うことになります。それは「心理的な経済活動」です。

実用、という点でも、鑑賞はまるで実用では無いような扱いになっていますが、どう考えても鑑賞という行為は「精神的実用」です。

人は、実用からも逃れられないのです。

そもそも、人に実用されないものは、存在を認識されないのです。

(人は表現し続けて生きるので、全く他人が関係ない、自然に出てしまう、その場限りの表現はします。それには実用性も、承認欲求も、他人へ向けての何かしらの目的などもありません。しかし、それは他人が関わらないものなので、他人にとっては存在していないものになります。なので「人為・人造物」の範疇に含めません。それと、その種の表現は「反応」に近いものに分けられます)

・・・一般的な芸術論だと、本来は分離無く、一つの全体としてシンプルなはずの人間の表現行為が、空想で作られた思想や理念で、現実的な整合性無く分離してしまうのです。

そうなると、人為や人造物自体と関係あるようで実際には関係のない、特定の思想や文脈に「人為や人造物=人の創作」が巻き取られてしまい、思想や理論や経済の迷路に迷い込み、枝葉末節にこだわるようになり、その作品自体の性質とは無関係にそれだけが膨れ上がり、人の創作が翻弄されるようになります。

そのような思想や理論は、人為や人造物を鑑賞する際に必要で必然性のある「鑑賞方法の成立」という創作とは全く別のものなので、ただただ不安定に積み重ねられたブロックのような不安定さと複雑さを持つようになり、その意味のない複雑さを細かく知っている事、操れる事が価値になったりします。

その構造に迷い込むと、真面目にやるほど本質と離れてしまうのです。

その構造を権威と権力を持った人が伝統を経済的に利用して、人々から搾取することは良く行われます。権力者が伝統と関係あるように観えて、実は関係の無い決まりを新しく増やし続け、階層を沢山作り、その認定に課金し利益を上げるシステムを作ります。

そうなると、熱心な人ほど忠実な「搾取される人」になってしまい、さらにその下に被害者を作り出してしまう、悪い連鎖を産み出します。

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良く、自主的な創作は芸術で、他人からの発注で制作したものはデザインというような分け方がありますが、現実的には、自分の意思でやろうが、他人からの注文でやろうが「どちらも創作する前に受ける刺激に過ぎない」のです。

繰り返しますが【人は、ゼロから何かを作る事は絶対に出来ません】

それは、創作の起点である、精神的な刺激においてもそうです。まずは何かしらの刺激が無ければ創作的な事を起こせないのです。精神的な面においても人はゼロからは何も産み出せないのです。

精神が使う、実用品は沢山あります。思考するための言語、思考方法、価値観、手法・・・もちろん手で使う道具、機械など、いろいろな「先例」の積み重ねの上に、人は新しく何かを産み出します。

人は、空想すらゼロからは出来ないのです。

人が何かしらの行為をする時、何かしら作り出す時の刺激は「自分の内側からの刺激か自分の外側からの刺激かのどちらか」です。

人はそこにふさわしい表現をするだけの話です。人はそこでその時の自分が出来る範囲以上のことは出来ないのです。

それを、芸術と非芸術とで分けることは出来ません。

どこかの誰かが決めた「芸術と非芸術」の違いは実は「人間の創作エネルギーが何を通して形になったかの違いに過ぎない」のです。そこに上下などないし性質もそれほど差は無いのです。なぜなら、どれも人為と人造物だからです。

そもそも、例えば絵画とグラフィックデザインだとして、絵画にはデザイン性が必要であり、デザインには絵画的要素が必要です。

モノの成り立ちは複合的です。いろいろな事が複雑に絡み合って存在しています。

「人の行為はどうやっても完全に純粋であることは出来ないし、それでは存在すら出来ないし、他人との共有も出来ない」のです。思想的整合性だけを持つ芸術論は「絵に描いた餅」です。それは食べられません。しかし美は事実として存在するのです。

事実に基かない思想や理論で人為や人造物を分けてしまうのは

【そもそも一つのものをわざわざ分離することの愚】

をしているように観えます。

【元は人間の創作エネルギー】

という一つのことを、こちらは尊く、あちらは俗なもの、といったように分離してそれぞれに事実に基かない理屈をつける・・・それは全くバカらしいことと私は考えます。

繰り返しになりますが、

【人の創作エネルギーが、最終的にどのような形を取ったのか?】

という違いだけで元は同じです。

「そこに美はあるのか?」というシンプルな把握方法なら、人為や人造物のあらゆる分野に適用出来ますし「実用的」です。

実用には「精神的実用性」もあるのです。←重要

普通に考えれば、実用性の無い人為、人造物は存在を認識されないのですから。

芸術や美は、なんだか良く分からないことではなく「事実としてあり、人々に現実的な影響を与えるもの」です。芸術を得体の知れないものとしてはならないのです。

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自然物は、あまねく美を宿しています

対して、人造物には基本的に美はありません

しかし、人造物に美が宿れば自然物と同じ性質を持ち、その美が、いろいろなものから人の精神を自由にしてくれます

(人為や人造物でも、逆の性質を持つもの・・・おかしな決まりで人を縛り、人を順位付けし、人を利用し搾取するための伝統や芸術があります。現状はこちらが主流かも知れません。それは一見、より本物らしく見えるし、人々の差別心や承認欲求が直接的に、具体的に満たされるので人は騙されるのです。そこに美が宿る事は滅多にありません)

いわゆる美術や音楽、その他の「芸術系」だけでなく、あらゆる人為とその結果の人造物に美が宿る可能性があります

例えば、美を宿した自動車は、技術の進化によってその車の構造自体は古くなっても、その車の美は古びることはなく、変わらず人々の心を踊らせ、影響を与え続ける存在になるのです。

例えば、流行り廃りの激しいファッションでも、美を宿したものは、古臭くならず、それはスタンダードになり、繰り返し使われ、それは「衣服の基礎を成すもの」となります。

そのような人造物は、次の美への連鎖も産みます

美が宿ったものは、いろいろなものから自由になり、増幅を起こします

自主的な動機で、自由にした表現が自由な芸術作品になるのではありません

人造物に美が宿ると、その人造物はいろいろな制約から開放され、自由になり、その美と自由に触れた人も自由になるのです

そして、それが結局、伝統の本質でもあります

そして、それは実際に起こる事なのです

得体の知れない何かではありません

美は事実としてあります

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