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わたしを取りもどし わたしを辿ろう

第23週 9月22日〜9月28日の記憶。 それを探る試みです。 
一年間のルドルフ・シュタイナー超訳に挑戦中です。

今週は、自分を取りもどす、わたしが、わたしになる、ことで心が目覚めるのだというメッセージです。ここまでも内的な自己探索について示されてきました。目的に向かって、自分に与えられた情熱なようなものを成熟に向けていかに注ぎ込んでゆくのか? 未来が少しずつ開けてくる感覚をあじわってみましょう。

では、読み解いてまいります。

  

 

Y. FÜNFUNDZWANZIGSTE WOCHE (22. SEPT. – 28. SEPT. [1912])

25.
Ich darf nun mir gehören
Und leuchtend breiten Innenlicht
In Raumes und in Zeitenfinsternis.
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen
Der Seele Tiefen sollen wachen
Und wachend tragen Sonnengluten
In kalte Winterfluten.

Anthroposophischer Seelenkalender, Rudolf Steiners,1912




  自分を取りもどすことで
  内なる光がとも
  空間と時間の闇を照らしだす。
  森羅万象が眠りへといざなわれる時
  心は深淵から目覚めはじめ
  給えられた陽光の熱をはこび
  冷たい冬へ溢れんばかりを注ぎこむ。


 


自分を取りもどす



夏から冬へと季節がうつろい、その中で “わたしは、わたしである。”という確信めいたものにそろそろ到達し次の段階に進もうとしている感じですね。しかし、本当に自分を取りもどせているのか?をもう一度、問い直してもいいのかもしれません。

あなたは、いままで親や学校、組織、社会などの枠の中で教育され育ってきました。それは形式的で秩序だったものに自分をなぞらえてゆく作業を繰りかえしたにすぎません。そうではなく、自分をとりもどすために、自分の中に眠っている創造的な衝動を発揮して表現してゆくです。

このように言われると、自分がこうしたいという純粋に湧きあがる欲望をおさえて生きる部分がでてきてしまうのではないでしょうか?

金儲けをして、旅行をして、美味しいものを食べて…

大いなるもの中心の世界と人間中心の世界、みえないものと物質的なものとでこの世界が構成されています。そう考えると、自分が大いなるものやみえないものに対して、自分は偽善者なのではないか?というような疑問に打ち負かされる可能性がでてくるかもしれないのです。

文豪の有島武郎氏も大いに悩んだようです。
大変興味深い文章がありますので紹介いたします。

外界の機縁で私をつくり上げる試みに失敗した私は、更に立ちなおって、私と外界とを等分に向い合って立たせようとした。

 私がある。そして私がある以上は私に対立して外界がある。外界は私の内部に明かにその影を投げている。従って私の心の働きは二つの極の間を往来しなければならない。そしてそれが何故悪いのだ。

私はまだどんな言葉で、この二つの極の名称をいい現わしていいか知らない。然しこの二つの極は昔から色々な名によって呼ばれている。ギリシャ神話ではディオニソスとアポロの名で、又欧洲の思潮ではヘブライズムとヘレニズムの名で、仏典では色相と空相の名で、或は唯物唯心、或は個人社会、或は主義趣味、……凡て世にありとあらゆる名詞に対を成さぬ名詞はないと謂ってもいいだろう。私もまたこのアンティセシスの下にある。自分が思い切って一方を取れば、是非退けねばならない他の一方がある。

ジェーナスの顔のようにこの二つの極は渾融こんゆうを許さず相反そむいている。然し私としてはその二つの何をもいさぎよく捨てるに忍びない。私の生の欲求は思いの外に強く深く、何者をも失わないで、凡てを味い尽して墓場に行こうとする。縦令たとい私が純一無垢の生活を成就しようとも、この存在に属するものの中から何かを捨ててしまわねばならぬとなら、それは私には堪え得ぬまでに淋しいことだ。

よし私は矛盾の中に住み通そうとも、人生の味いの凡てを味い尽さなければならぬ。相反して見ゆる二つの極の間に彷徨ために、内部に必然的に起る不安を得ようとも、それに忍んで両極を恐れることなく掴まねばならぬ。若もしそれらを掴むのが不可能のことならば、公平な観察者鑑賞者となって、両極の持味を髣髴ほうふつして死のう。

 人間として持ち得る最大な特権はこの外にはない。この特権を捨てて、そのあとに残されるものは、捨てるにさえ値しないれさびれた残りかすのみではないか。

「惜みなく愛は奪う」有島武郎

すべてを手に入れる自由があるではないか?
その人間の特権を放棄してどうする?

それを放棄するようなことがあれば、
そのような人生は枯た残りカスだと言い放っています。

さて、どう考えていったらよいのでしょうか?
そのあたりを復習も含め、少しだけ掘り下げてみましょう。

まず、 内的な欲望と外的な期待を分けて考えてみましょう。あなたは社会の一員である以上、他者からの期待や規範に影響を受けます。それと同時に、自分の内側から湧きあがる純粋な欲望や表現への欲求も無視すべきではありません。重要なのは、社会的な枠組みの中で自分を完全に抑え込むのではなく、大いなるものからの内的な声に耳を傾け、それをどうバランスよくするかを見つけることです。

“偽善的”と感じてしまうのは、あなたが本来求めているものとは異なる行動をしているときに生じる感覚です。しかし、この偽善は必ずしも否定的に捉える必要はありません。多くの場合、社会の期待に応じることが重要であり、それが自己否定や自分の本質を裏切るものではないのです。ここで大切なのは、偽善と感じる行動があなたの人生の目標や価値観に合致しているかどうかを内省して確認することです。

大いなるものによるみえない世界観と人間中心の物質的な世界観の間には、大きなギャップがあるかもしれませんね。この二つを調和させるためには、“対立的な構造で考えない”→“バランスを整える”→“表現する”
このようなプロセスが必要になります。

両者を対立的な構造で考えないとは、両者を統合的に捉えることが可能です。たとえば、あなたの欲望や表現は、より大きな目的や使命に含まれていて、“超えて含む”というインテグラル理論的な構造になっていることを思い出してください。そうすると、今、自分がどこに立っているのかという異なる階層での意識や価値観の統合が必要になることが理解できるはずです。

個人的な使命と大いなるものの目的のバランスを整えてみる。まず、 あなたの欲望が自己中心的ではなく、取りもどした自分(他との関係性において)にとってのものであるかどうかを問い、そこでのバランスを見つけることが重要なのです。個人の欲望は与えられた才能や使命の一部であると捉え、そうした欲望で自分を表現することが自己実現への近道なのです。

自分を取りもどすには、自分が何をしたいのか、何に歓喜するのかを定期的に振り返りを持つことが重要なのです。この“こよみ”でも、それを観察して洞察することで、内なる声がきこえてくるかもしれませんね。

そして、周囲との“対話”を大切にすることでしょう。社会の期待を受け入れつつ、自分の価値観や期待を他に伝えることは重要かもしれません。自己表現を抑え込むのではなく、率直なコミュニケーションによって他者との理解を深めることになるのです。

このように、自分を取りもどすには、みえないものと物質的なものの“どちらか”ではなく、両者の統合が必要になってくるのです。



与えられた陽光を自らにも注ぎこむ



あなたは、自分に与えることに抵抗感を持っていませんか?

有島武郎氏は、愛を「与える本能として感ずることが出来ない。私の経験が私に告げるところによれば、愛は与える本能である代りに奪う本能であり、放射するエネルギーである代りに吸引するエネルギーである。」と遺しています。何か、このコトバに引っかかりました。

つまり、愛には、奪ったり、吸引するエネルギーがあるとしているのです。もともと本来的に愛とは与える本能であり放射するエネルギーであることに間違えなく。あなたもこの観念を受け入れ、その上に人生観を築いてきているはずです。しかし、その真逆の側面もあるのかもしれない。

利己主義ではなく、愛己主義という考えのどこが悪いのか。
愛己主義があって、始めて利他が生まれてくるのかもしれないのです。

現代的に愛己主義を考えてみると、最近よくきく “自己肯定感”を高める。などがそれに当たるのかもしれませんね。自分の欠点や弱点を否定するのではなく、まず、自分自身が受け入れてあげること。完璧でない自分を許し、その状態をポジティブに成長の機会と捉えることで、自己愛が深まり、与えられ与えられるようになるのです。

たとえば、“わたしは、最高のアーティストである”、“わたしは、愛される存在である”といったような自己肯定を高めるコトバを繰りかえすアフォメーションは、自己受容と自己愛の実践かもしれませんね。

それがあってこそ、外に向けて作品をつくり続けられるのです。

他にも、感謝の気持ちを持つために、毎日の出来事から感謝していることを3つ書き出すといったことで、自分がどれだけサポートを受けているか守られているかなどに気づけるようになるそうです。

自分が与えられていることに気づき、
他に与えることができるようになるのです。


いずれも自分に愛を注ぎこむ効果
といった感じでしょうか。




2024年9月 ハギ





注ぐべき冬(ゴール)はどこなのだろう


 人間は十分に恵まれている。私達は愛の自己表現の動向を満足すべき有らゆる手段を持っている。厘毛の利を争うことから神を創ることに至るまで、偽らずに内部の要求に耳を傾ける人ほど、彼はゆたかに恵まれるであろう。凡ての人は芸術家だ。そこに十二分な個性の自由が許されている。私は何よりもそれを重んじなければならない。

「惜みなく愛は奪う」有島武郎

表現活動には、目標設定をするのが非常に困難です。まず、とりあえずでスタートし、最終的にどうなるのか? は決定事項より未知数な要素が多いような気がいたします。(だから嫌がられるのですが…)

世の中では、バックキャスティングなどで、“あるべき姿”を具体的に設定してそれに向けて物事を進めてゆくような風潮があります。ですが表現の世界でのバックキャスティングや目標設定などは、極めて抽象的で感情的なものになるのではないでしょうか?

表現の領域は意図せぬ偶発性や即興性によって、おおまかなベースとなるものに偶然の要素が組み込まれ、予測不能な新たな展開をみせていくことになり、そこがアートの魅力でもあり醍醐味でもあるわけです。

すべての人が表現者であるべきと思うわけは、到達できないかもしれない“あるべき姿”に対して、突然のひらめきや思いつきによる表現が、“新たな正解”になりうる可能性があるのではないかと思うからなのです。

そして、突然のひらめきや思いつきによる表現は
どこから来るのでしょう?


偽らずに内部の要求に耳を傾ける人ほど、
ゆたかに恵まれるであろう。
凡ての人は芸術家だ。


そう、偽らずに聴くこと。


そして、表現しようとする人と、しない人とでは
人生の着地点が違うように感じます。


あなたは、どう思われますか?





シュタイナーさん
ありがとう

では、また







Yuki KATANO(ユキ・カタノ)
2024/09/22


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