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ゆとり世代による新「堕落論」
坂口安吾の「堕落論」を読み終えるやいなや、私は現代社会の変遷と坂口安吾が「堕落論」執筆時点の終戦直後を重ねずにはいられなかった。
戦時中の軍国主義により教育は統率のとれた屈強な軍隊を作り上げるためにあったので、そこには個性など必要はなかった。
軍隊の統率者の意思決定に対して従順に従う兵隊を育てることに注力したのである。
しかしそういった教育によって育てられた若者は終戦したら
今まで信じてきた軍国主義を含めた、貞節、武士道、天皇制か崩壊したのだから、ある種の大きなアイデンティティの喪失にほかならない。
そして失ったアイデンティティの欠落を埋め合わせないままではいられないのが人間である。
それこそが坂口安吾は「堕落すること」だと述べている。
今まで信じてきた虚飾に覆われたイデオロギーや主義や体制がなくなったからこそ、自らの心の声と正直に向き合う必要がある。
そして私たち人間の心の声なんてものは醜く脆いものである。
夫を亡くした未亡人が恋愛をしてはならず、その後派貞節をまもり清らかに生きなければならないなんてのは、
当時の軍人政治家の理想を投影しただけに過ぎず、残りの余生を亡くなった旦那以外の男性と過ごしたいという女性も中にはいたはずである。
武士道は仇のためなら草の根かき分け乞食になっても探し続けなければならないとされている。また捕虜になったとしても敵のほどこしは受けてはならずとのことである。
これがプロパガンダいがいのなにであるというのか?
それぐらい敵への復讐心、闘争心を駆り立て扇動しなければ日本の若者をコントロールできないと当時の軍人政治家派考えたのだろう。
そして天皇制。
政治家たちが国民に自らを天皇の傀儡として演出してはいるが、政治家たちが天皇ひとりにいざとなっての責任を負わせるために、天皇を利用し国民をコントロールする。
それが天皇制というシステムである。
以上の三つが戦時中信じられており、それらが突如としてなくなったわけである。
それぞれの虚飾、虚像で塗り硬められた外壁をとっぱらうとしたら、
貞節なんてものは無視して、情熱や情念の赴くままに愛する人に盲目的になれば良いし、
武士道なんてものは無視して敵なんてものは忘れ呑んだくれれば良いし、
天皇制なんてものは忘れ、個人が個人によるイデオロギーや思想をうちたて個人の天皇制みたいなものを樹立すればよいと思う。
以上が坂口安吾の「堕落論」に対して私の解釈を含めた考察なのだが、ここからが本題である。
終戦直後の状況と現在の終身雇用制度の崩壊や企業から個人への統制の所在の変化は共通しているところがあると私は考える。
経団連が終身雇用制度の崩壊を述べ、様々な著名人やインフルエンサーが「今はもう企業に縛られず個人の時代」と言うのを見るのも少くない。
ゆとり世代である著者だが私がまだ子供の頃は「公務員が安定」、「銀行員になれば間違いない」という大人たちの言葉で蔓延しており、それを信じていた。
またその大人たちも企業に正社員として働き滅私奉公すれば退職金をもらうと共に、年金を貰えば困ることなんてありはしなかった。
それらすべてがこれまた虚飾、虚像であったのである。
新自由主義において生き方の多様性を保障はされているが、誰かが道標を決めてあげなければ不安にかられ頭を悩ませる人も少くないはずである。
私は今の状況こそ坂口安吾による堕落論的思考が必要だと考える。
信じるものがなくなった今だからこそ自分の内なる声に耳を傾け、自分の本当にやりたいことを考えるのである。
それは人から見られたやりたいことであってはならない。
「バンドマンになりたい」
「女の子にモテたい」
「アイドルになりたい」
「また結婚してみたい」
などなど世間から批判、嘲笑されるようなものこそ自らの本心と向き合った結果なのではないか?
堕落しよう。一旦堕落すること、落ちるところまで落ちることにより自分の本音と向き合いまた強くなることができる。
醜く脆く弱いそれが人間である。
堕ち世間から笑われるほどにあなたは強くなる。
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