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文学、哲学、教養こそ最強のソリューションである。



明日には使えなくなるスキル

この時期(毎年4月)になると世の中の「成功者」が新社会人に向けて、助言や激励の言葉を送る。

その中には新社会人の人生の指針になる名言や、これからぶつかるだろう壁を打破するのに役に立つ身に着けるべきスキルなどがある。

大いに参考にするべきである。

そこで今回は成功者でもなんでもない浮浪者である私の毒にも薬にもならない言葉を捧げたいと考えている。

学生時代なにをしていいかわからず、バイトやサークル、ネットフリックスで時間を消費していた人は多いのではないだろうか?

将来のためにスキルや資格を取得しようと考えているが、なにをどうしていいかわからず、漠然とした不安は爆発寸前で、その不安の行き場はストロングゼロによって瞬間的な解放感は得られるが、翌朝には数倍に膨れ上がっているといったところだろうか。

結論から話そう、私はそれで良いと思うと。

資本主義社会で個人の社会への生産性ばかりが焦点をあてられる。

それらはまるで没個性は許されず、社会への付加価値を与えられるような人間でないと無価値のような感覚に陥ってしまう。

そこで学校を含めた教育機関や親は、子供たちに将来困ることがないようにに善意として「今のうちに勉強しなさい」とアドバイスする。

外的圧力からの学習は、内的意欲からのなにかを学ぶことそれ自体の喜びを忘却へと向かわせてしまう。

内側からの学習意欲の方が持続性もモチベーションも長続きするというのに。

またAI技術の発展により身に着けた能力も明日になれば陳腐化され使用不可能になっていることもある。

しかしこの先どんなに技術が発展したとしても決して陳腐化されないスキルがある。

それは文学、哲学、教養である。

この三つは人間の内面的なものに深く根付いており、普遍的な価値があるため、どんなに科学技術やAIが発展したとしても陳腐化されることはないのである。

1、文学

文学と聞いて何らかの学問だと思い、心を閉ざさないで欲しい。

「ぐりとぐら」や変態ラノベまで全てが文学の範囲だ。

それは私たち人間の営みや感情、価値観を表現する素晴らしいツールであり
手段である。

異なる時代や文化の中で生きる人々、または自分とはかけ離れた価値観で生きる人たちの思考や行動が、物語や詩、小説などの形で伝えられることで、私たちは彼らの心の内面に触れることができる。


また、肌の色、目の色、喋る言葉、何を信仰しているか、そんな社会的な違いを埋める架け橋として機能している。

また文学は私たちに自己認識や共感を促す機会を提供する。

作品を通して自分ではない誰かの視点や経験に触れることで、私たちは自分自身や周囲の人々に対する理解を深めることができる。

これは寛容さや共感力の向上に繋がり人間関係や社会全体の調和に寄与する。

さらには歴史的背景や社会的な問題について立ち止まり、考えさせる力もある。

ある時代の文学作品はその時代の価値観や社会状況を反映していることが往々にしてあるため、それらを通じて私たちは過去の出来事や時代の空気を知ることができる。

これにより歴史的な過ちを繰り返さないように学び、現代社会の問題に対処するための知恵を得ることができる。

そして人間の想像力や創造力さらには妄想力さえも刺激する。

登場人物や世界観を想像しながら物語を読むことで私たちの心は広がり、新しいアイデアやインスピレーションを得ることができる。

このような文学による影響は私たちが日常生活や職業において創造的なアプローチを取る助けとなり、人生を豊かにする力となる。

まとめてみると、時代や文化の違いを越えて人々の心情や経験を理解する手段であり、自己認識や共感力の向上、歴史的洞察や想像力の刺激に役立っている。

はじめから難解な文章が書いてある小説を読まなくても良い。

タイトルや表紙の絵が気に入ったという理由で本を手にとることも、立派な「きっかけ」である。

2,哲学


哲学は教科書でてくるソクラテスやアリストテレスみたいなカタカタ表記のよくわからない人が、よくわからないことを言っている印象はないだろうか?

その認識で「大丈夫」と言うと、どこかしらから怒られそうなので、まぁ、自己の本質や人生とはなにかを考えるものと、ここでは定義することにしよう。

もっと適切な定義があるはずだが、ググっていただければ助かるところです。

そして、自己の本質、人生の目的の解像度が上がれば、パワハラ上司や、マウント大好き港区女子、私のような嫌味な人間にも惑わされることはない。

また情報社会の中で私たちは日々多くの情報に触れることで、自分自身と向き合う時間が著しく減っている。

しかし変態的な哲学的問いに取り組むことで、私たちは自分の内面と対話し、人生における重要な価値観や達成したい目標を見つけることができる。

「生きる意味とは」、「自己と他者とは」、「時間と存在とは」、これらを考えないで生きた人生と考えて生きた人生とでは、物事に対する思考の肺活量に差が出てくる。

けれど私の経験と統計によれば、考えすぎるのも精神衛生上良くないので、疲れたらユーチューブで猫の動画を見るのを推奨する。

自己と向き合うのは時として、神経を極限まですり減らして、暗いトンネルの中に入っていく作業だが、終わりのないトンネルは存在しないのである。

私たちが人間の本質や生きる意味を理解するための道具であり、自己成長や発展、人間関係や社会の調和に貢献する学問が哲学なのである。

どんなに時代が変わり技術が発展しても、哲学は私たちにとって大切な指針となり、価値ある人生を送る助けとなる。

3,教養

教養と聞いてわかりやすく説明するのに、これ以上の適任はいない人物を思いついた。

「池上彰」さんである。

今やテレビをつけると見ない日はない。

社会状況や一般常識を誰でもわかるように説明してくれている。

しかし一般人が飲みの場で「日本のGDP」がとか、「グローバル社会で大切なことは」とか、「やっぱりダイバーシティだよね」と急に言い出すと、嫌われる可能性が高い。

話が逸れたが、人々が多様な分野に触れ、知識やスキルを身につけることを教養と定義しよう。

そして教養を持つことは単に情報や知識を蓄えるだけではなく、異なる分野の知識を統合し、新たな視点やアプローチを持つことができるようになることを意味する。

特に現代社会ではグローバル化が進み、情報や技術が急速に発展している。

これに伴い異なる分野の専門知識を持つことはもちろん重要だが、それだけでは不十分であり、異分野間の知識を統合し柔軟に対応できる能力が求められている。

教養を持つことは、多様な状況や問題に対処できる能力を高める。

異なる分野の知識やスキルを持つことにより、私たちは新しい視点から物事を捉えることができ、独創的な解決策を見つけ出すことができる。

また異なる専門分野の人々と協力し、共同で問題解決に取り組むことも可能になる。

さらにはコミュニケーション力を向上させる効果もある。

異なる分野に精通していることによって、他者との意見交換が円滑になり、対話を通じて新たなアイデアや知識を学ぶことができる。

「野球」、「ゆるキャラ」、「近くのスーパーの特売日」この三つを抑えておけば、まず間違いないのではないか?

これにより人間関係やチームでの協力がスムーズに進み、より効果的な成果が生まれることが期待できる。

教養は私たちが自己成長や自己啓発を追求する上で、重要な役割を果たしている。幅広い視野を持つことで、問題に対して多角的な視点で対処できる。

最後に

文学、哲学、教養はスキルの三種の神器である。

AI技術、ゲノム編集技術は資本主義によってこの先も急速に発展していくだろう。

イーロンマスクや各署名人が一時的に休止を呼び掛けているが、将来的には技術進歩していくことは間違いない。

そこで問題になるのは進歩しすぎたAI技術、ゲノム技術を個人がどのように使っていくかだ。

反モラル、非倫理的な使用の抑制につながるのが、文学、哲学、教養であると考える。

それらの三つは力そのものではなく、力の在り方、扱い方を再考察するのを助けてくれる。

技術革新に漠然とおびえる日々を、文学、哲学、教養は開放してくれるかもしれない。

新社会人、いや私たちはもう一度それらの大切さを考え直す必要がある。









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