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おっちゃんはなぜ私を騙さなかったのだろう

あのおっちゃんはなぜ、私を騙さなかったのだろうか。

ベトナムの、湯冷ましのようなぬるい風の中に置いてきた、ひとつの「?」の話をしたいと思う。

その前に。
ベトナムはホーチミン市を訪れたら、ぜひ行ってほしい場所がある。戦争証跡博物館という。

戦争証跡博物館

ベトナム戦争は一般的には1955年から20年間も続いた戦争と言われている。

主な内容としてはアメリカが介入した南ベトナム軍と、ソ連と中国が介入した北ベトナム軍との戦い。その実は資本主義と共産主義の対立、つまりアメリカとソ連の間に起きていた冷戦が背景にあり「代理戦争」とも呼ばれる。

アメリカが援軍を派遣して、北ベトナムに爆撃を加えるようになって以降激化し、1961年頃から開始された枯葉剤の散布はあまりにも有名だ。

その戦争の歴史や資料を展示しているのがこの博物館である。

バイクタクシーのおっちゃんとの思い出

私もここへ行きたくて、一人地図を手にてくてくと道路を歩いていたのだ。
そうしたら、車道と歩道の際に寄ってきたバイクがある。なんだ、と思っていると私にぴったりと寄せて、話しかけてきた。

「どこから来た?日本か?」

流暢な日本語。絶対に警戒しなければいけない相手だ。相手だったのだが、私もベトナムへ着いたばかりだし、コミュニケーションが取れるのは嬉しいと思いもしたので、しばらく話をすることにした。

というより、ついてくるんだもん。でかい道で人も多いから巻けないし、下手に路地に入って一人になるのもより危ない。

ちなみにこのおっちゃん、バイクタクシーの運ちゃんだ。ベトナムはじめ東南アジアの国々ではバイクタクシーがメジャーな移動手段で、運賃は運転手と客の交渉で決まる。
一台に運ちゃん入れて最高3人乗ることができる。

ベトナムの人たちはもっと乗る。一家族が一台のバイクで移動なんてよく見る光景だ。小回りもきくし何より安い。安旅の心強い味方なのだ。

でも中には悪質な運ちゃんもいて、運賃をぼったくったり、詐欺まがいのことをする人もいるから気を付けなければいけない。

「日本から来たよ」
「俺、前に日本人乗せたことがある。一日、いろんなところを見て回った。これ見て。」

そういって見せられたのは、日本語のメッセージがたくさん書かれたノート。彼が乗せた客が書き残したものらしい。最後のページには、一日コース、半日コース、学生割引料金などの料金表が貼り付けられている。

「乗らない?」
「乗らない」
「ちょっとだけ。歩いたらめちゃくちゃ遠いよ」
「今は歩きたい気分だからいいんだよ」

乗る乗らないの応酬をしながら道路を行く、日本人の少年みたいな私とモトに乗ったベトナム人のおっちゃん。 
あまりに必死に話しかけてくるから、「じゃあ、ここまで連れてって」と戦争証跡博物館の写真を見せる。

「5万ドンだ」
「高い。3万ドン」

今度は値段交渉の応酬をしながら無駄に300メートルくらい歩く。
自分でもちょっと笑ってしまった。ちなみにベトナムの通貨は桁が桁違いだが、1万ドンは50円くらいである。

「よしじゃあわかった。5万ドン出すよ。ただしそれ以上はビタ一文出さない」
「オッケー、乗りな」

メットを貸してもらい、後ろに乗って発進。道々おっちゃんは、市内の案内をしてくれた。時折「やっぱり名所巡りしないか」とセールスを織り交ぜながら。都度「行かないってば」と両断する。

無数のバイクが土煙を上げて行き交う道路を右へ左へ、15分ほどで目的地の博物館へおっちゃんはバイクをつけてくれた。

「ついたぞ」
「ありがとう、おっちゃん」

もうすでにコロナがニュースになりつつあった時期でもあり、「中ではあった方がいいぞ」とマスクまでくれた。なんだ、いいおっちゃんじゃん。

「そういう場所じゃあないが、まあ、楽しんできてくれ」
「うん」
「ところで……」
「?」
「ここで待ってるから、出てきたらほかの名所に「行かない」」
最後までおっちゃんはおっちゃんだった。

実際に見学して

この博物館は、凄惨な資料も目をそらさずに展示されていた。
まず博物館の周りの屋外に、たくさんの戦車や爆撃機や軍用ヘリコプターが展示されていて、圧倒される。これ、本当に使ってたものなんだろうか。

枯葉剤のことも、日本の教科書に載っている写真の何十倍もきついものがいくつも並んでいた。

日本で学んだベトナム戦争は、当たり前だが、あまりにも事実を希釈したものだった。
こういう負の歴史は得てしてそういうものだろうが、だからこそ目を向けなければならないものだと思う。

本当なら写真付きで紹介したいが、どうにもカメラ、しかもスマホカメラを向ける気にならなかったのだ。もし興味のある方がおられたら調べて、できることなら行ってほしい。

今でも印象に残ったままでいるのは、かつて樹林だった場所の、かろうじて立っている木に手を添えて立ち、こちらを見ている男の子の写真だ。 

その横に、同じ場所で何年後かに同じ男の子を撮った写真が並ぶ。 

撮られた年数から、無事であればまだ生きている年齢の彼は、今どこにいるのだろう。

その後の話と今思うこと

さて、宿に帰ってきてから私は、ベトナムのバイクタクシーにかかるトラブルが思った以上にかなり悪質であることと、私を乗せてくれた彼が、思った上の上に詐欺ドライバーの典型であったことを知る。 

わかっているつもりではいたが、まさに一言一句たがわず、といった体だった。

宿のオーナーさんからは、「何もなかったのは運が良かっただけ」と言われた。いくら運賃の交渉をしていても、降りた途端法外な料金をふっかけられたり、とても徒歩では帰れないようなところまで連れていかれて、帰りの運賃をふんだくられることもあるという。

でも、それなら彼も、私をどこかへ連れて行って、「帰りたいなら金を払え」と言えばよかったのではないだろうか。

なぜそうしなかったのか。悪質なドライバーは、金のある観光客を相手にするうちに変わってしまうだけでもとは真面目に仕事をしていた人であることも多いらしい。
たまたまそういう人だったのか。でもあのノートは年季が入っていた。何か理由があったのか、なかったのか。

たまたまあの日は機嫌がよくて、とか。あの時私は学生の振りをしていたし、見るからに金のなさそうな風貌に絆されて、とか。もしかして娘に似ていたりしたのだろうか、とか。

いろいろ考えたが、わからないまま私は教訓を手にしてベトナムを発った。
ずっと不思議に思っていた。

そして今日、戦争証跡博物館に関する記事を目にした。

そしてふと思ったのだ。
もしかしてあれは、行き先があの博物館だったからではないだろうか。

もちろんわからない。わからない、が、そんな気がした。

そうだったらいいな、とも思った。

私だって、広島や長崎の原爆祈念館を見に来た外国の人がいたら、嬉しく思うし、ありがとうと言いたくなる。意地悪なことを言ったりやったり絶対にしないだろう(いやほかでもしないけど)。

もしかしてあのおっちゃんは、同じような気持ちで私を見送ってくれたのかもしれないな、と思いながら、今は遠い南国の空気を思い出していた。

まあ、もしかしたら気づかないところでぼられていたりしたのかもしれないが、まあそれもいい。
おっちゃん、元気かな。
できれば元気で、そしてできれば誰も引っかけずにバイクをふかしてくれていたらいいな、と遠く日本の空の下で思っている。



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