短編小説「同じ気持ち」
遠い夕焼けが水平線の彼方へ暮れなずむ。
花火の残り香は風に流され、再び潮の香りが辺り一帯に満ち始めた。潮騒を奏でる波打ち際は夕と夜の微かな間隙に現れるプルキニエの薄い青に染まり、黒髪を白い柔肌の首筋にそっと撫で付ける詩織は浅い波間を裸足で歩いていた。私は砂浜に腰を下ろしてそんな彼女の横顔を見詰める。くすりと鼻を啜れば、二人の間に居座る気まずさが去ってくれることを期待して。
「・・・なんで?」
長い沈黙の末にしびれを切らした私がそっと問い掛ける。やや擦れたその声にこちらを振り向いた詩織は、何も言わぬまましばらく私の瞳を見詰めていた。
「私は無理だもの。そういう関係」
まるで余裕を帯びた彼女の言葉に、私の苛立ちは容易に誘われる。
「なにそれ。馬鹿にしてるの?」
詩織は「ふっ」と小さく鼻で笑った。
「あなたのそういうところ、大嫌い」
私は手に掴んだ砂を思い切り詩織に向かって放り投げたが、届く間もなく潮風に飛ばされて散っていった。二人の間はそれ程に離れており、近くもあった。
「・・・まるで子供みたいね」
小さな笑みを浮かべた詩織はそう呟くと、砂浜に打ち上げられた貝殻を拾い始めた。私はそんな彼女の姿を見詰めながら、
・・・なんでこんな奴の方が
と閉じた口の中で少しだけ歯を食いしばっていた。
潮風になびくワンピースが薄っすらと浮き上がらせる詩織の細い体躯。整った顔付きの頬の上には物憂げな瞳が長い睫毛を乗せている。それに比べて私の容姿ときたら。誰かに振り向いて貰えたことなど一度もない。切り揃えた短い髪を風にくしゃくしゃと弄ばれるばかりだ。
「詩織を選んだんだからそれで良いじゃん。それなのになんで・・・」
苛立ち紛れに私がそう言うと、詩織が足元の波を蹴飛ばした。
「逆ならそうするでしょ、あなたも」
そう言ってこちらを振り向いた彼女の眉間には、珍しく深い皺が刻み込まれているのが見えた。
ふと気付けば、彼女の握った拳が小さく震えている。
私は溜息を零し「ねぇ、詩織」と訊ねた。
「・・・何?」
「なんで私達って、こんなに面倒臭いんだろうね」
詩織は何も答えずに波打ち際の方からジッとこちらを見ていた。少しずつ暗がりが迫る視界に、自分の輪郭も曖昧になっていく。
「私達はお互い、遠く離れた方がいいのかもしれないわね」
呟く様に言った詩織の目元には、辛うじて黄昏を残した夜の明かりが腰を下ろしていた。それはまるで薄っすらと光を帯びた涙の様にも見え、私はゆっくり砂浜に立ち上がるのだった。
—— § ——
この世界で私が初めて詩織の存在を知ったのは幼稚園の時だ。
登園後の朝の挨拶が終わってお遊戯の時間に差し掛かろうとする頃、同い年の男の子と頬を摘まみ合って遊んでいた私の前に園長先生に手を引かれて現れた可愛らしい女の子が詩織だった。真っ白なワンピースに身を包んだ真っ白な肌の女の子だった。私はすっかり彼女に見惚れてしまっていた。私と詩織はすぐに仲良くなった。
小学、中学、高校と成長するに従って、詩織はより可憐さを増していった。中学と高校では校内中の男子が詩織に注目していたと思う。同学年で一番のイケメンが詩織に告白したとか、三年生のバスケ部の大人気の先輩が詩織を呼び出したとか、時には他校の男子が体育館に集まってバレー部のマネージャーを務める詩織の姿を覗きにきたとか、彼女の噂はいつも絶えなかった。詩織の美しさは日増しに艶を帯びて、男子の皆が彼女を捕まえることに躍起になっていた。
しかし詩織は誰一人として意に介することはなかった。彼女はいつも私の隣にいた。
「なんでいつも私と一緒にいるの?」
そう訊ねたことがあった。
「あなたのことが好きだから」
詩織は臆面もなくそう言った。私は思わず上気したが、それは「あなたのことが好き」という言葉に慣れていないから、ということにして自分を納得させた。
鈴の様な声音と上品な口調で話をする詩織。コーラを啜りながらバーガーを頬張り彼女の話を聞く私。透ける様な肌の白色が空間まで滲み出すような詩織。陽に浅く焼けて陸上部で鍛えた引き締まった体の私。艶のある黒髪が背中に流れる詩織。陽に透かすと薄茶色に光る髪が肩先で跳ねる私。
二人でファストフードの店で話していると、周囲の視線を痛い程感じた。その熱い視線の大半は詩織に向けられているが、彼女の醸し出す美しさに包まれている私にも彼らの視線は注がれた。しかし、最後にはやはり詩織に戻っていく。
高校二年に進級した年の春、私は初めて恋をした。胸が焼け付く様な片思いだった。相手は二年生になって同じクラスになった短髪が似合う爽やかな顔立ちに気さくな性格の人で「清水くん」という。出席番号順に並べられた席で彼は私の隣だった。
休み時間や自習中に彼とはよくお喋りをする仲になり、私は次第に好意を抱く様になっていった。授業中も隣が気になるし、移動教室や昼休みに他の男子と他所へ行く彼の姿をいつの間にか目で追っていた。清水くんを見ているだけで胸の奥が高鳴った。
・・・半年。半年経ったら彼に気持ちを伝えよう。
五月のゴールデンウィークを前にして、私はそう固く決心したのだった。そのことを詩織に話してみると
「清水くんはエースよ」
と彼女は言っていた。
清水くんはバレー部に所属していた。
その後、夏休み前のインターハイで予選敗退した私は高校生活において情熱を捧げられる大きなものを失った喪失感に肩を落としていた。二年生でインターハイに行けなかった選手は部活を引退し、大学受験に備えて勉強を始めなければならない。ただ一つだけ私にとってまだ失われていない大きな希望があるとしたら、それは清水くんだった。
バレー部は予選を突破し、インターハイ出場が決まった。私はつい嬉しくて隣の席の清水くんに「あめでとう」と何度も言った。しかも彼はスタメンで出場するらしい。清水くんは「ありがとう」と言って私と握手してくれた。彼の手はとても大きくて力強かった。
詩織もマネージャーとしてバレー部のインターハイ出場を喜んでいた。しかしその頃からなんとなく私に見せる笑みがぎこちなくなり、彼女が私と一緒にいてくれる時間が少なくなっている様な気がした。
結局インターハイの二回戦で敗退し、バレー部の夏は終わった。
なんだか切ない気持ちを抱えつつ夏休みが開け、残暑の中の新学期早々席替えがあり、私と清水くんは遠く離れてしまった。爽やかだった彼の短髪は少しずつ長くなり、すっかりイケメンアイドル風の髪型になっていたが相変わらず私には素敵に見えた。
九月の後半に差し掛かる頃。私は詩織と久しぶりにファストフード店に入った。夏休みが終わってからというもの彼女はいつも一人で行動するようになっていて、学校でもプライベートでもなかなか二人きりになれずにいて寂しかったので、詩織と一緒にいれることが嬉しかった。
しかし、今日の彼女も浮かない顔のままだ。
「どうしたの?」
せっかく注文したバーガーだが、なんとなく口を付ける気にならなくて私は詩織にそう訊ねてみた。彼女はちらりと私の目を一瞥した後に、
「私ね、清水くんに告白されたの」
と小さく言った。私は「え?」と訊き返した。
「清水くんに、付き合ってほしいって言われた」
私はさっと血の気が引くのを感じた。体から一気に力が抜けていく。
「・・・いつ?」
「夏。インターハイの前」
「それで・・・返事は?」
詩織は首を横に振った。
「なんで?」
私は真っ白になった頭のまま、無意識にそう訊ねた。
「分からない」
「分からないって、何が?」
「どうすればいいのか、分からない」
詩織の綺麗に膨らんだ唇が微かに震えていた。
私は急に心臓がばくばくと音を立てるのを感じた。
「詩織は・・・清水くんのこと、好きなの?」
彼女の目が真っ直ぐ私の目を捉えた。何も言わない。でもそれは答えだ。それが答えなんだ。私はぐっと閉じた口の中で歯を食いしばって席を立った。両の手が震えていた。
「付き合えばいいじゃない。好きなんだったら」
私はそれだけ言い残すと、詩織を置いたまま店を後にした。
それからというもの、私は詩織と一切言葉を交わすことなく、一年の時が過ぎ去って行った。三年に進級する頃には清水くんと詩織は私と違うクラスに分けられていた。そして風の噂に、詩織が清水くんと交際していることを聞いた。私はその日の夜に一度だけベットの中でしくしくと泣いたが、後はすっきりとした顔で学校に通った。三年生にもなるとクラスは一気に受験モードに突入して鬱々とした日々が続いたが、大学に行けばまた環境が変わるのでそれを支えに私は受験勉強に励んだ。
残暑も落ち着き始める九月の下旬。
突然、詩織からメールで「花火を観に行こう」と誘われた。私の地元では夏の終わりに遅めの納涼祭りが開催され、夕闇の空に打ち上がる乙な花火を観ることができる。私は「行かない」と返信しようと思ったが、メッセージを送る前にしばらく悩んだ末、結局「行く」と返信した。
私達は近くのコンビニで待ち合わせ、納涼祭りへと向かった。無言のまま並んで歩いて集まり始めた人の波に乗った。溢れんばかりの人いきれにはぐれそうになったが、詩織が私の手を握って離さなかった。彼女は細い首の覗くワンピースを身に纏っていて、前より更に美しく見えた。
色とりどりの花火が夕と夜の混ざり合う空に咲き乱れ、過ぎ去っていく夏とのお別れを偲ぶ。空を見上げる詩織の横顔を見ると、薄く微笑みを浮かべた口元のすぐ上に高い鼻が伸び、大きい瞳には長い睫毛が乗っていた。風に揺れた黒髪の隙間から覗いた項が妙に色っぽく、私は彼女が大人の女性になったのだな、と思った。
打ち上げ花火が終わり、私達は近くの砂浜へと向かった。詩織は履いていたサンダルを脱いで波打ち際に足を浸ける。私は柔い砂浜に腰を下ろして彼女の姿を見ていた。
しばらく波と戯れた詩織は、そっと言った。
「私、彼とは付き合ってない」
—— § ——
潮風に吹かれた詩織のワンピースがはためき、白い太腿がちらりと見えた。
「きっと、私達は似た者同士なのよ」
「どこが似てるの? 私と詩織が一緒にいたら、誰だって詩織の方に見惚れるよ」
詩織は首を横に振った。
「私なら、あなたに見惚れる」
「謙遜しないで。馬鹿にされてる様に感じる」
そう言う私に、詩織は再び首を横に振った。
「馬鹿になんかしてない」
波打ち際でどしゃりと波が音を立てる。
「それに外見の話をしてるんじゃないの。お互いが何を好きで何を嫌いかっていう話。私達は似た者同士だからお互いに嫌いなものが被ってとても親密になれるけど、同時に同じものを好きになってお互い傷付け合うことになってしまうのよ。きっと」
「・・・やっぱり面倒臭い」
呟く様に零した私に、詩織がふと苦笑した。
太陽の残り火がすっかり絶えた海の向こうに幾つもの船の灯りが浮かんでいる。ワンピースを身に纏う美しい彼女は長い黒髪を風に吹かれたまま、その柔肌を夜の光に薄っすらと白く浮かび上がらせて私を見詰めていた。
彼女の足元は波に濡れ、私の足元は砂に埋もれている。
「私ね、東京の大学に行くの。推薦で受かったからそこに決めた」
詩織が闇夜に浮かび上がらせた言葉に、私は驚くこともなかった。彼女ならそうなると最初から分かっていた。おめでとう、という言葉は出て来なかった。
「だから、あなたとはあまり会えなくなる」
私は顔を伏せて足元に目を落としたまま、
「良かったじゃない。私と一緒にいない方がいいのなら・・・それで良かったじゃない」
と絞り出す様な声で言った。詩織は何も言葉を返さず砂浜に上がり、脱いだサンダルを手にして私の隣まで歩いて来た。
「ねぇ、こっち見て」
しかし私は彼女を見なかった。見れなかった。
「ねぇ、こっちを見てよ」
震えていた詩織の声に私は堪らなくなって波打ち際へと逃げた。
静かな波の音が夜空の向こうに吸い込まれていく。星が散らばり、雲が流され、世界が遠く離れていく様に感じた。
しばらく肌寒い風に吹かれていると、「さよなら」という声が聞こえた気がした。私はハッと後ろを振り返る。そこに詩織の姿はもうなかった。私だけが波打ち際に取り残されていた。
一粒の涙が頬を零れ落ち、二粒の涙が風に舞った。そして止まることなく沢山の涙が零れ始めた。波打ち際にしゃがみ込み、なんとか涙を堪えようと自分の体を抱いても涙は止まらなかった。打ち上げられていた小さい棒切れを手に取って、濡れた砂の上に「大嫌い」と書いた。しかし激しい波が押し寄せて来て、やがてその言葉を連れ去って行った。
ボーっと船の警笛が遠くから聞こえ、幼い頃の詩織の笑い声が耳元で転がるのが聞こえる。いつも私の手を引いて、いつも私の傍にいてくれて、いつも私の味方でいてくれた。泣いた顔も、怒った顔も、照れた顔も、落ち込んだ顔も、笑った顔も、全部私に見せてくれた。
力なくふらふらと砂浜に立ち上がり、私は声を出して泣いた。手で拭っても拭っても涙が乾かない。
もっと素直になれば良かった。
もっと一緒にいれば良かった。
もっと気持ちを伝えていれば良かった。
でももう遅い。詩織は行ってしまった。
ずっと一緒にいてくれた彼女はもうここにはいない。一晩ベッドでしくしくと泣いたあの時の哀しみなんて比べ物にならないくらい、私は大切なものを失ったんだと気付いた。たっぷりと涙を流して私の体はとても冷たくなっていた。誰もいない砂浜に、私は一人ぼっちだった。
その時、不意に後ろから強く抱き締められた。驚きの余り息が詰まって声も出なかった。甘い香りと柔らかな感触。鈴の音の様な声が聞こえた。
「大好き」
しかしそれは今まで聞いたことのないほど強く響く鈴の音だった。
ぎゅっと抱き締める力が一際強くなり、そして吹き去る風の様に解けた。自由の身になった私が後ろを振り返る頃には、ただ走り去って行く足音だけが夜の闇の向こうに聞こえていた。
私の涙はやがて止み、しっとりと濡れた頬に微笑みが浮かんだ。
「私も・・・大好き」
星影が夜空を七色に彩る。
それはきっと、いつまでも変わることのない不変の真理に違いない。
〈 終わり 〉
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