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短編小説「線路の上」

 ——あなたは信じないかもしれないわね、こんな話。

 私が祖母の部屋を訪れたのは、穏やかな陽光が梅の香りを連れてくる春先の昼下がりのことだ。雨戸は開かれ、軒先で跳ねる小鳥たちの姿がよく見える。時折吹く強い春風に乗ってやって来たのであろう梅の花弁が、一枚だけ畳の上で揺れていた。
 私は膝を抱えたまま、目の前で出掛ける準備に勤しむ祖母の姿をジッと見ていた。祖母が荷物を詰めているキャリーケースは少し古びた私の御下がりだ。丁寧に詰められる荷物と祖母の皺だらけの手を交互に見つめながら、私は小さく息を零した。

「お祖母ちゃん、本当に行っちゃうの?」

 そんな私の問い掛けに、祖母は小さく笑った。

「あら、寂しいの?」

「・・・心配なの」

「大丈夫よ、私は強いから」

 両手を広げたキャリーケースの片面に荷物を詰め終わった祖母は、荷物が散乱しない様に内側のファスナーを丁寧に閉めたのだった。今私が祖母の部屋を訪れているのは、昼食後すぐ、祖母に「話があるから後で部屋に来て」と言われたからである。大学の後期試験をなんとかクリアし、開放的な空っぽの頭で久しぶりに実家に帰って来た当日の昼に祖母から呼び出されることなど想像もしていなかった私は、やや緊張を孕ませつつ、祖母の部屋を訪れたのであった。しかし実際に訪れてみれば、祖母は黙々と小一時間私の目の前で出掛ける準備をするばかりである。祖母がキャリーケースのもう片面の方にも着替えの洋服を詰め始めたところで、何とも言い難い不安と緊張に痺れを切らした私は、そっと訊ねてみることにした。

「ねぇ、おばあちゃん」

「なぁに?」

「・・・私に話って、なに?」

 すると、今まで準備に忙しかった祖母の手がぴたりと止まった。ゆっくりと私の目を見た祖母は、にっこりと笑って見せた。

「そうよね、私が美祈(みき)を呼んだんだもの。お話しなくちゃね」

 そう言うと、祖母はまだ詰め込まれていない荷物とキャリーケースを一旦部屋の隅に追いやり、急須にポットのお湯を注ぎ始めたのだった。幼い頃から祖母のことを好いていた私が、自分から祖母の部屋に遊びに行くことはあっても、祖母から呼び出されたことなど一度もなかった。そんなことを思い出しながら、二つの湯呑みにゆっくりとお茶を注ぐ祖母の横顔を私はジッと見ていた。差し出された湯呑みを受け取り、何気なく一口だけ啜ると、お茶の熱さに思わず飛び上がりそうになった。「まだ熱いわよ」と言って笑った祖母は、顔色一つ変えずにお茶を啜っている。

「・・・そうねぇ、何から話そうかしら」

 漸くお茶の温度に私の舌が慣れる様になる頃、祖母が徐に口を開いた。

「何か大切な話?」

 そう私が問うと、祖母はとても優しく、それでいて少しだけ恥じらうように笑った。

「そうね、私にとってとても大切なお話。そして、美祈にとっても大切なお話」

「・・・私にとっても?」

「そう。あなたには、ある人のことを話しておかなきゃいけないの」

「・・・ある人?」

「その人に、あなたから伝えてもらいたいことがあるの」

 首を傾げる私に微笑んだ祖母は、静かに湯呑みを置いた後、そっと語り始めたのだった。

——§——

 私が初めてあの人に会ったのは、とても暑い夏の日のことだ。私はその時8歳だった。じりじりとした太陽の光が降り注ぐ田園の間の小道をひたすら歩いて、漸く辿り着いたローカル線の駅で飲んだラムネの味を今でも覚えている。その日、私は市内に住む千代ちゃんの家に遊びに行くため、生まれて初めてたった一人で電車に乗った。
 土曜日の正午に迫ろうとする車内は多くの人に溢れ、騒がしさと熱気に包まれていた。千代ちゃんが住む市内は私が住む田舎町とは違い、大変多くの人が行き交い、過剰なまでの流行が集まる賑やかな街だった。私は電車の中で座ることもできず、扉の前に立って、流れていく窓の外の景色をただ眺めていることしか出来なかった。車内の暑さはむせ返る様で、せっかくラムネで冷やしてくれた体は再び熱くなり、額に染み出した汗にじっとりと前髪がくっ付いてしまっていた。車内は延々と騒々しく、多くの若者の話し声や乗客の間を擦り抜けて追いかけっこをしている子供達のはしゃぎ声、そんな子供を叱りつける母親の怒鳴り声、誰かが鳴らすラジオの音声などが無数に飛び交っていた。口元を「へ」の字に結んでジッと我慢していた私であったが、とうとう暑さと騒々しさに目眩を覚える様になっていた。各駅に停車するごとに車内の人数は増すばかりである。押し込まれて、いつしか電車の壁に貼り付けられていた私は遂に決意し、ひしめき合う乗客の間を潜り抜けつつ座れる席を探すことにしたのだった。自分より遥かに背の高い大人達は、時折私を迷惑そうな顔で見下ろしていたが背に腹は変えられない。
 私が乗り込んだ3番目の車両から漸く後尾車両に踏み込むことが出来た時、運良く一席だけ空いているのを見付けた。ただその席は二人掛けで、窓際の方に既に一人の乗客が座っているのだった。私は空いている席を見付けることが出来た嬉しさと同時にとても不思議な思いを抱いていた。窓際に座っていたのは若いお兄さんで、頬杖を付いて窓の外を眺めていた。少しだけ開いた窓から入り込んでくる風がお兄さんの長い前髪を揺らしている。人のひしめき合う暑い車内で、そのお兄さん一人だけがとても涼し気な空気を身に纏っている様だった。お兄さんが座る席の近くには、立っている乗客が複数人いたが誰もお兄さんの隣に座ろうとする人はいなかった。私は背負っていたリュックサックを担ぎ直して、お兄さんの元へ足を進めた。近くで見れば見る程に、その涼し気な様子に目を奪われたのだった。私は一度ごくりと生唾を飲み込み、緊張で高鳴る胸を必死で抑えつつ、そっとお兄さんに声を掛けてみた。

「・・・あの」

 擦れた私の声など車内の騒がしさと電車の走行音にすぐさま打ち消されてしまった筈なのに、私の声に気付いたお兄さんはゆっくりとこちらに顔を向けた。

「あの・・・」

 お兄さんにジッと見つめられたまま、私の口は次の言葉を紡ぎ出すことができず、震えるばかりだった。すると、不意にお兄さんがにっこりと笑った。

「どうぞ」

 そう言って差し出されたお兄さんの手は、隣の席を指し示していた。たたん、たたん、という電車が線路を踏み超えていく音が足元から舞い上がって来る中、私は真っ白になった頭でただただぼんやりとお兄さんの顔を見ているのだった。

「座らないの?」

 そんな言葉に、ハッと我に返った。気付けばお兄さんの手はずっと隣の席を指している。焦った私はカクカクと何度も頷いて、お兄さんの隣の席に腰を下ろしたのだった。リュックサックを前に抱えて、やや緊張しながらお兄さんの方をちらりと窺うと、お兄さんは再び頬杖を付いて窓の外の流れて行く景色を眺めていた。差し込む陽光がお兄さんをほんのりと照らし、私はその何とも言い難い様子にしばらく見惚れていたのを覚えている。
 それから、漸く席に座ることが出来た安堵感と疲労で、私はいつの間にか浅い眠りの中に落ちているのだった。揺れる車内の不安定さで何度か席から落ちそうになって目を覚ましたが、眠気に負けていつのまにかまた夢の中をぼんやりと泳いだ。そして、そんな私を見て、隣でお兄さんが静かに笑っていたような気もするが、それが夢なのか現実なのかはっきりとは覚えていない。ただとても柔らかく優しいものに包まれている様な時間だったということは間違いない。
 浅い眠りの中でゆらゆらとしていると、不意に軽く肩を叩かれた気がした。目を覚ました私がゆっくり顔を上げた隣で、苦笑したお兄さんが私を見ていた。未だ寝ぼけ眼のままにきょろきょろと辺りを見渡した私は、いた筈の大勢の乗客が既にいなくなり、車内は私とお兄さんの二人だけになっていることに気付いた。

「ここは・・・」

 小さな呟きが聞こえたのか、お兄さんは静かに笑って、

「着いたよ」

 と言った。窓からホームを覗いてみると、千代ちゃんが住む街の中央駅の名前が書かれた看板が見えた。途端にホームのベルが鳴り始める。間もなく電車が次の駅に向けて発車するというアナウンスが流れ、

「うわっ」

と思わず声を上げた私は、慌ててリュックサックを担ぐと、飛び出す様に電車からホームに走り出たのだった。寸分違いで扉が閉まり、その後にゆっくりと電車が動き始めた。胸の中で激しく跳ねている心臓の音を聞きながら、動き始めた電車の後ろ姿を見て私はハッとした。

「お礼、言ってない」

 手に握りしめていたチケットは汗ですっかり濡れてしまい、印刷された文字が滲んでいた。私が住む田舎町と同じくらい蝉の声が響く駅のホームで、次第に遠くなっていく電車の姿をぼんやりと見つめていると、後から名前を呼ばれた。振り向いて見た改札の向こう側に、手を振る千代ちゃんと千代ちゃんのお母さんの姿があった。迎えに来てくれていた様だ。千代ちゃんらの方へ足を進めようとした私であったが、何気なくもう一度だけお兄さんが乗った電車を振り返ってみた。夏の熱さに揺らぐ線路の上を、電車はゆっくりと遠ざかっていくのだった。

——§——

「なんだか、不思議な話」

 そう呟いた私に静かに微笑んだ祖母は、一口だけお茶を啜った。

「美祈もそう思う?」

「うん、そのお兄さんは初めて会ったのにお祖母ちゃんが降りる駅を知っていたってことでしょ?」

「そうね」

「それに、お祖母ちゃんが座れる席を探していたことも知っていた」

「そうみたいね」

 何かを含んだ様に笑い、そっと湯呑みを置いた祖母が軒先に目を向けたので私も見やると、一羽のメジロが縁側まで上がり込んでいた。春の陽光を弾く縁側の上で、鮮やかな緑色が良く映える。

「一目見た時から、とても不思議な人だったわ」

 そう呟いた祖母の横顔を見た私は、自然と自分の顔が綻ぶのが分かった。

「お祖母ちゃん、もしかして・・・」

「なぁに?」

 訊ねる祖母に、「なんでもない」と私は首を横に振ってみた。急ぐ解釈ほど野暮なものはない。私は足を崩して、少しだけ冷めてきたお茶を啜った。とても飲みやすい温度になっていた。

——§——

 私が次に彼に会ったのは、16歳になった翌日のことだ。
 その日は大変寒く、朝から引っ切り無しに雪が降っていた。粒の大きい雪は、少し外を歩いただけですぐに肩や頭に積もるものだから、傘を家に忘れてきたことを酷く後悔したのを今でもよく覚えている。
 その日は放課後に通う隣町にある塾からの帰りで、午後11時に差し掛かろうとする遅い時間の電車に乗っていた。苦手な数学の課題に散々手を焼き、漸く帰路に就けた私は自分へのご褒美に甘い缶コーヒーを買って乗客の少ない先頭車両の一番前の席で一口ずつ味わいながら飲んでいるのであった。
 時折窓の外を見やると、斜めに降り頻る雪が電車の明かりを跳ね返して白く光る。電車は未だ動いているが、ダイヤの乱れは大きく、明日は運休の可能性が高いというアナウンスを駅のホームで耳にした。私は小さく溜息を零しつつ、緩んだ首元のマフラーを締め直したのだった。
 その時、突然車内を大きな衝撃が襲った。耳を劈(つんざ)くようなブレーキ音が響き渡り、私は成す術もなく席から放り出され、冷たく固い床の上に転がり落ちたのだった。手に持っていた缶コーヒーは知らぬ間に何処かへと飛んでいってしまい、激しい痛みだけが背中に残った。どうやら背中を強打したらしく、暫く息が出来ずに咳込んだのだった。
 ブレーキ音が漸く止むと、乗り込んでいた乗客達がざわざわと騒ぎ始めた。床に丸くなり、蹲っていた私は、激しく脈打つ自分の心臓の音が耳元で鳴り響いているのを聞いた。ゆっくり顔を上げて見渡した車内では、同じ様に目を丸くした乗客らが、周囲の様子を不安気に伺っているのだった。運転席の方を見やると、中で運転手が慌ただしく車内電話機に話し掛けている様だった。乗客の一人がやって来て「何事だ」と喚きながら運転席の窓ガラスを叩いていたが、運転手に取り合う余裕など全くない。やがて後尾車両から慌ててやって来た車掌が「状況を把握した後に車内アナウンスでご案内します」と乗客を宥め、運転席の中へと入って行った。電車が停車した後、なぜか自動扉が開いたままとなり、凍える様な風が車内へと吹き込み始めた。舞い込んだ雪が次第に床に積もっていき、車内はあっという間に身を切る様な寒さに包まれてしまった。
 あまりの寒さに、私は席を立って後方の車両に逃れようと思ったが、どうやら後方車両も全て自動ドアが解放されてしまっている様だった。「ドアを閉めろ」という乗客の大声が車内に響く。すると、ざらざらと砂埃が舞うような音が車内に設置されたスピーカーから漏れ出てきた。流れた車内アナウンスによると、車両トラブルの発生による緊急停止装置が作動したとのことだった。車両トラブルの詳細は不明で現在調査中らしい。いつしか私は開いたままのドアから離れた車両の真ん中付近の席で蹲り、ガタガタと震えながら寒さに耐えていた。他の乗客も同様、車両の真ん中に集まり始める。私のすぐ隣に身を寄せて来た30代くらいの女性が、長いタオルケットを貸してくれ、共に暖を摂りながら車両が復旧するのを待った。しかし、緊急停止から20分が過ぎようとする頃になっても、一向に電車が動き出す気配はなく、扉も開いたままだった。寒さに冷えた体がすっかり草臥れ、意識が少しだけ遠ざかりそうになった時、何気なく私が顔を上げると、運転席に向かって静かに歩いて行く一人の青年の姿が目に入った。私は彼の姿を見付けて、思わず「えっ」と声を出して立ち上がっていた。その青年は、私が8歳だったあの夏の日、千代ちゃんの家に遊びに行く時に乗った電車の中で会った、あのお兄さんだったのだ。私の声に一度だけこちらを振り返ったお兄さんは、その後、何事も無かったかのように再び運転席の方へ歩いて行った。

「どうしたの?」

 という女性の声も耳に届かないまま、私は歩いて行くお兄さんの背中をジッと見ていた。先程までの寒さなど、すっかり何処かへと消え去ってしまったかの様だ。

——とくん

 制服でしっかり包んだ筈の胸の奥が小さく痛んだ。
 運転席をノックした後に、なぜか拒まれることなく運手席に入っていったお兄さんは、しばらくすると車掌を引き連れ、開いたままの扉の外に降りて行こうとしていた。私は何を思ってそうしたのか分からないが、お兄さんの傍まで駆け寄って行って、

「あの・・・」

 と声を掛けていた。扉に手を駆けて今にも外に降りようとしていたお兄さんは、私の顔を見てにっこりと笑って見せた。

「寒いだろうけど、もう少し我慢してね」

 静かでいて、とても穏やかな声だった。間違いなく幼い頃に聞いたあのお兄さんの声だ。

「大丈夫なんですか?」

 と私が訊ねると、お兄さんは微笑んだ後、上に羽織っていたジャケットを脱いで私に寄越して来た。

「悪いけど預かっていてくれないかな。大切なものなんだ」

 差し出されたお兄さんのジャケットを恐る恐る受け取ると、微かに温もりが残っていた。


 車掌と共に暗闇の中に姿を消したお兄さんは、10分程で車内に戻ってきた。それからすぐ、停止していた電車のエンジンが動き始める音が車内に響き渡った。漸く寒さから解放されるという安堵感からなのか、乗客達の間から歓声が上がる。共に戻ってきた車掌に何度もお礼を言われ、固い握手まで交わしたお兄さんは、少しだけ照れ臭そうに笑っていた気がする。私は預かったジャケットを両腕に抱き締めたまま、そんなお兄さんをぼんやりと見つめていた。胸の奥の痛みがざわざわと波立ち、次第に鼓動が強く、大きくなっていく。運転手とも握手を交わしたお兄さんは、ふと私の方を振り向いてゆっくりとこちらにやって来た。

「上着、ありがとう」

 そう言って差し出された手は、夏の日の電車の中で席に招いてくれた優しい手だった。お兄さんの顔ばかりを見ていた私は、堪らず預かっていたジャケットを押し付ける様に返した。そして目線を外して顔を背けはしたものの、どうしても横目にお兄さんの顔を伺ってしまった私は、とうとう吹き出して笑い始めてしまったのだった。
 要領を得ないお兄さんのきょとんとした顔が尚面白く、私は更に涙がにじむ程に笑ってしまっていた。戻ってきたお兄さんの顔は、電車のオイルでタヌキの様に汚れていたのだ。私の胸はどうしてしまったというのだろう。一体私は、どうしてしまったというのだろう。気付けば私の胸の中は、お兄さんのことでいっぱいになってしまっている。

——この人は、私のことを覚えているだろうか?

 一頻り笑った後、私はお兄さんの目を見て

「あの・・・」

 と問うてみようとした。しかし、お兄さんは私に背を向けると、静かに開いたままの扉の元へ歩いて行き、外へ降りて行ってしまった。

「あ、待って!」

 私が扉に駆け寄って外を伺うと、雪が降り頻る中にお兄さんが立ってこちらをジッと見ていた。電車の明かりにぼんやりと照らされているお兄さんはまだ近くにいたが、背後には真っ暗な闇が広がっている。

「・・・行っちゃうんですか?」

 私がそう問うても、お兄さんはもう何も答えてはくれなかった。黙ったままのお兄さんの肩や頭には、既に雪が少しだけ積もっている。ゆっくり膝を付いた私は、巻いていたマフラーを外して、そっとお兄さんの首元に巻いた。にっこり笑ったお兄さんが何か言った様な気がしたが、ぷしゅーっという空気の音と共に扉がゆっくりと閉まり、やがて私とお兄さんの間は静かに閉ざされたのだった。

——§——

「お兄さん、どこへ行っちゃったの?」

 すっかり空になってしまった湯呑みを両手に包んだまま、私は祖母にそう訊ねていた。

「分からないわ」

 答える祖母は、静かに微笑んでいるだけだった。

「お兄さんは、お祖母ちゃんのことを覚えていたのかな?」

「どうかしらねぇ」

「でもその時のお祖母ちゃんは16歳になっていたから、もしかしたら気付いてなかったかもしれないね」

 そう言って体を揺らしながら、私はまた膝を抱える様に座った。この姿勢が落ち着くのだ。

「もっとお話しできれば良かったのに、またあっさり別れちゃってなんだか切ないなぁ」

 私がそう呟くと、祖母は苦笑しながら再び急須にお湯を注ぎ始めた。

「実は彼と別れた後、なんだかとても寂しい気持ちになって、車掌さんに彼の事を訊ねてみたの」

「え、そうなの? それで、車掌さんはそのお兄さんのことを何か知っていたの?」

 しかし、祖母はゆっくりと首を横に振った。

「電車が動き始めたすぐ後に訊ねたのだけれど、車掌さんは彼の事をすっかり忘れてしまっていたわ。まるで最初からそんな人なんていなかったみたいに」

 私はそんな祖母の言葉に奇妙な混乱を覚えた。

「じゃあ、そのお兄さんって一体何者?」

 どこか遠くから鶯の声が聞こえた。風に雨戸が揺れて音を立てると、軒先に集まっていた小鳥達が一斉に飛び立っていった。祖母は小さく笑みを零して

「私も美祈と同じ様な疑問を抱いたわ。でも、次に彼に会った時から、少しずつ彼のことが分かっていくようになったの」

 と語った。首を傾げる私の湯呑みには、再び淹れ立てのお茶が注がれ、巻き上がる様な湯気を立てている。ジッとその水面を見つめてみると、ゆっくり一つだけ茶柱が立ち上がるのが見えた。

——§——

 私がその次に彼に会ったのは、あの雪の日の夜から26年後のことだ。
 その日、私は役所に離婚後の手続きをしに行った帰りだった。親権と財産分与を巡って散々元夫と揉めた私は、ここ最近すっかり疲弊してしまっていた。その日も帰りの電車の中でぐったりと壁に寄りかかり、気付けば何度も深いため息を零しているのだった。今年で12歳になった息子は来年中学生になる。長い間苦しんだ元夫との生活から解放される喜びも束の間、これから女手一つで息子を育てていくことができるのか不安に押しつぶされそうになる時もある。

——私は間違っていたのだろうか?

 そんな思いばかりが何度も何度も頭の中を反芻しては、遠い過去に逃避してしまう自分がいた。暑い夏の日差し、甘いラムネ、むせ返る様に暑い電車の中、降り頻る雪、ほんのり温かいジャケット。私は頬杖を付いて、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めているのだった。

 電車が次の駅にゆっくり停車すると、乗り降りするために人が動き始める。私はそんな人の流れも何の気なしに眺めていたが、ふと、信じられないものを目撃して思わず声を出して立ち上がっていた。膝に乗せていたバックは盛大に床に転がり落ち、中身が一斉に放り出されてしまった。もちろん乗客の奇妙なものを見る様な視線にもさらされたが、それらのことがどうでもいいと思える程に私を呆けさせてしまうものが、人の流れに紛れてゆっくりと私の目の前に歩いてやって来たのだった。

「お久しぶりですね」

 私にそう微笑み掛けたのは、思い出の中にいる筈のあのお兄さん・・・いや、あの青年だったのだ。

「ど、どうして・・・」

 紡ぐ言葉を見つけ切れない私を余所に、青年は床に散らばった私の荷物を静かに拾い始めた。ハッとした私も恥ずかしさを抑えつつ、自分の荷物を拾い始める。視界の中をゆっくり行き来する彼の手に、胸の奥がズキンと痛んだ。しかし、私は苦笑しながら首を横に振り、荷物を拾い集めることだけに気を向けたのだった。

——私はもう少女ではないのだ

 荷物を拾い終えた私は、静かに佇んでこちらを見ている青年と向き合った。ゆっくりと息を吸うと、少しだけ心が静かになった様な気がした。

「もう、隠し事はなしよね?」

 と私が訊ねると、青年は苦笑しながら小さく頷いたのだった。
 私が座っていた席は向かい合わせになっているボックス席で、他に乗客は座っていなかったので、向かい側の席に腰掛けるよう手をかざして「どうぞ」と私が青年に示すと、彼はくすりと静かに笑っていた。向かい側の席に深く腰を下ろした青年は、再び動き始めた電車の窓の景色を眺めていた。私は思わずその横顔にぼんやりと見惚れてしまっていたが、もう一度首を横に振って、青年と同じ様に深く座り直したのだった。
 こほん、と小さく咳払いをする。

「・・・それじゃあ、まず教えて。どうしてあなたは、あの頃のままなの?」

 初めて会った時から34年。雪の日の夜に会った時から26年。それだけの月日が経ったにも関わらず、青年はあの時と同じ『お兄さん』のままなのであった。すると、

「いきなり核心を突くんですね」

 と青年は苦笑して見せた。私は顔が熱くなるのを感じずにはいられなかったが、

「だって、辻褄が合わないもの」

 と言い返してやった。

「あれから私はどんどん大人になって年を取っていっているのに、あなたはあの頃のまま。一体どうしてなの?」

 訊ねる自分の方がまるで頭が変になった様に感じる私であったが、今、彼がそのままの姿で目の前にいるのは確かな現実であるのだから、否定の仕様がない。私の質問に、青年は一度だけ困った表情を浮かべつつ何やら言葉を探そうとしている様子であったが、

「それは、僕の口から話さない方がいいと思いますよ」

 としか答えてくれなかった。

「どうして?」

「・・・僕の役割ではないから」

 要領を得ない青年の言葉に、私は再度踏み込んでやろうかと思ったが、結局答えてはくれないような気がして止めておいた。しかし、以前からなんとなく気付いていた疑問を投げ掛けてみることにした。

「・・・じゃあ、どうして私の元へ会いに来てくれるの?」

「ある人に頼まれたんです」

「・・・誰に?」

「それを答えるのも、僕の役割ではありません」

 少し期待しただけに、私はがっくりと肩を落としたのだった。

「あなたって、なんでも教えてくれそうで、実は何も教えてくれないのね」

 と皮肉っぽく言ってみると、青年は苦笑して、

「得てしてそういうものです。大抵の人も、物事も」

 と言っていた。

「ふーん、そういうものなのかしらね」

 私は窓の外の景色を眺めて、目に映るもの全てにまるで何も意味がないかの様な感覚をぼんやりと感じているのだった。一つだけ小さく溜息を零して、私は青年の目をゆっくりと見つめた。

「それじゃあ、最後の質問」

「・・・何ですか?」

「あなたの名前は?」


 それから暫く、私は青年と他愛もない談笑を続けた。仕事の事、家庭の事、息子の事、自分の事。今思えば、どうしてあれ程までに青年に自分の話をしたのかとても不思議であったが、恐らくもう一度彼と顔を合わせれば、きっと私は何もかも話してしまうのだろうな、という思いもある。彼は私の話を静かに聞いて、零す愚痴にまで付き合ってくれた。時折窓辺に頬杖を付いて景色を眺めている様であったが、その全てが私にとって美しく、とても愛おしい時間であった。
 私はずっとこんな一時を探していた。私はずっとこんな一時を待ち望んでいた。胸の奥底で疼いていた痛みが、じんわりと溶けて行くのを感じた。

——やっぱり、間違ってなどいなかったんだ

 いつしか話し疲れた私は浅い眠りの中に落ちてしまい、目が覚めた時には、向かいの席に青年の姿は無かった。ただ、丁寧に折り畳まれたマフラーが一つだけそこには置かれていた。ブラウンの織り込みが綺麗な、かつてのお気に入りのマフラー。
 そっと手に取ってみると、柔らかな触り心地は少しも変わらず、あの冬の日の思い出が蘇ってくる。気付けば生地の端には、小さくオイルらしき汚れが残っていた。

「・・・あの頃のまま、なんだね」

 静かに綻んだ私の頬を一粒の小さな涙が伝っていき、やがて、マフラーの生地の上に弾けたのだった。

——§——

「・・・ちょっと待って、お祖母ちゃん」

 いつしか身を乗り出して祖母の話を聞いていた私は、思わずそんなことを口走っていた。

「あの頃のままってどういうこと?」

「・・・言葉のまま、彼はあの頃のままだってことよ」

 せっかく祖母が新たに注いでくれたお茶は私が全く手を付けない内に冷めてしまった様で、先程まで立ち昇っていた湯気はすっかり姿を消しているのだった。

「じゃあ、お兄さんは年を取らないってこと?」

 目を丸くしてそう問う私に、祖母は静かに微笑むばかりだ。

「でもマフラーだって貸した時から26年も経ったら少しは古くなるはず。それなのに何も変わっていないなんて、そんなこと信じられない」

 しばらく腕を組んで辻褄の合わない祖母の話に首を傾げていると、ゆっくり立ち上がった祖母は、陽の光が落ちる縁側へ歩いて行き腰を下ろした。丸くもならず、真っ直ぐに伸びている祖母の背中を見つめていると、不思議とその後姿が誰かを待ち呆ける少女の様に見えたのだった。

「私が彼に会うためには、とても長い時間が必要だった。でも、彼にとって私に会うことは、ほんのついさっきの出来事だったの」

 暖かな日差しの中で、優しく、それでいてどこか遠くに溶けて無くなっていってしまいそうな祖母の声と言葉が、私の中にそっと波紋を描いた。

「お祖母ちゃん、もしかしてそのお兄さん・・・」

——§——

 私が最後に彼と会ったのは、40年以上も働き続けた職場を定年退職した日のことだ。夕暮れが差し込む電車の一角。向かい合わせのボックス席に一人で座っていた私は、職場の皆が用意してくれた花束を手に、ぼんやりと窓の外を眺めているのだった。たたん、たたん、と電車が進む軽快な音が足元から伝わってくるのを私は楽しんでいた。
 職場で何か大きなことを成し遂げた訳ではない。初めから一生の仕事にすると決めていた訳でもない。就職して、結婚して、子供を育てて、離婚を経験している内に、あっという間に時間だけが過ぎて行った様に感じる。自分が社会の歯車になるとか、誰かのためになるとか、そんなこと、一度も考えたこともなかった。自分にとって大事なものが何か、私はずっと知っていたのだろうから。
 流れていった時間の記憶をもう一度だけ辿りながら窓辺に頬杖を付いていると、静かに私の向かい側の席に誰かがやって来て腰を下ろした。珍しく、小さな溜息が零れるのを聞いた気がした。

「お疲れの様ね」

 私がそう言って苦笑して見せると、向かい側の席に座っていた彼が、

「ええ、少しだけ」

 と言った。夕日に照らされた彼は、やはりあの頃の『お兄さん』のままだった。疲労してやや草臥れた様子の青年であったが、足を組み、頬杖を付いている姿はリラックスしている証である。よく見ると、上に羽織っているジャケットの袖口の縫い目が大きく解(ほつ)れていた。

「それ」

 と言って私が指を差すと、

「え?」

 と言って彼は私を見た。

「解(ほつ)れてる」

 私の指差す先にある自分の袖口を覗き見て、

「本当ですね」

 と青年は笑った。

「貸して」

 私はバックから小さな裁縫セットを取り出して、青年に手をかざした。察した青年は静かにジャケットを脱ぎ、そっと私に手渡したのだった。私にとって49年振りの筈なのに、彼のジャケットの触り心地はちっとも変っていなかった。
 針に糸を通し、解れた袖口を縫い付けていると、向かいの席で青年がくすりと笑った気がした。

「もう訊かないんですね、僕のこと」

 私はちらりと青年を一瞥した後、

「なんとなく、分かっちゃったから」

 と答えた。

「でも大丈夫なの? こうやって私に会いに来て」

 と訊ねる私に一度だけきょとんとした後、青年はにっこりと顔を綻ばせた。

「初めからそう決まっていたのだとしたら、きっと何も間違ってなんていないんですよ」

 私は少しだけ縫う手を止めて、そう言う青年の瞳をジッと見つめた。そして、ふっと小さく溜息が零れた。

——そっか、何も間違ってはいなんだ

 不思議な安堵と小さな喜びが、すとんとお腹の底に落ちて行く。

「次はいつ会いに来てくれるの?」

 私が悪戯っぽくそう訊ねてみると、

「15年後の明後日です。その日、僕は2回あなたに会いに来ます。・・・正確には後の方ですが」

 と青年は答えた。

「そうなの? それじゃあ、後からやってくるあなたに、一つだけ頼み事があるの」

 僅かに身を乗り出して私がそう言うと、青年は首を傾げた。

「何ですか?」

「・・・あのね」

 駅を通過した電車が汽笛を鳴らし、少しずつ速度が上がり始める。長い線路の上を、少しずつ滑っていく。
 私が頼みごとを耳打ちすると、青年はとても優しく笑って見せた。

「・・・喜んで」


 縫い直しが済んでジャケットを返すまで、青年は静かに向かいの席で待っていた。私に会いに来る前、一体どこで何をしていたのか全く知る由もないが、それでもこうやって再び私の元へ来てくれる彼がとても愛しく思えるのだった。

「あんまり無茶しないでね」

 そう小さく呟いた私の言葉が、ぼんやりと窓の外の夕暮れを見ている青年の耳に届いていたのかどうか、私は知らない。
 それから二言三言、言葉を交わした私達は、それ以上何も語らずただ静かな時を過ごした。
 しばらく電車に揺られていると、気付けば向かいの席の青年は目蓋を閉じて、小さく寝息を立てているのだった。昔の自分は良く胸の奥に痛みを感じた。自分が信じているものや自分が求めているものが、とても遠くにあって、それを手に入れられないまま少しずつ少しずつ時間が過ぎていき、やがて小さく輝くだけの星になってしまう。私はそんな臆病な自分と何度喧嘩をしてきたことだろう。焦りと劣等感に何度溺れてしまいそうになったことだろう。しかし今、薄い暗闇の向こうに浮かんでいる小さな星の輝きを見上げていると、そんな自分もいて良かったと思うのだ。何もかも自分の欲しいものが手に入ったら、何もかも全ての意味が分かってしまったら、きっと私は目が眩んで何も見えなくなってしまうだろうから。
 夕暮れの街を電車が進む。私と青年を乗せた小さな箱が、ゆらゆらと揺れて運ばれていく。

——§——

「もしかしてそのお兄さん、タイムスリップしてお祖母ちゃんに会いに来ていたってこと?」

 縁側で足を延ばして座っていた祖母の隣に、私は両膝を付いて歩きながらやって来た。思わず、祖母の顔を覗き込む。

「そうかもしれないわね。本人からちゃんと訊いたわけじゃないから真実は分からないけれど」

 私はぺたりとお尻を付けて、あっさり答える祖母の横顔を見ていた。祖母は私に嘘など語らない。わざわざ部屋にまで呼び付けて、意味のない話などしない。

「でも、そんなことあり得るの?」

 訝しげにそう問う私など意にも介さぬ様に、祖母は軒先から見える春の陽気に染まった青い空を見上げていた。通り抜ける爽やかな風に乗って、梅の香りが駆けていく。庭先の木々がさわさわと新緑の音を鳴らし、小鳥達の羽ばたきが至る所で遊んでいた。

「そろそろ、出掛けなきゃ」

 不意にそう零した祖母は立ち上がり、部屋の隅に放っておいた荷物の準備に再び取り掛かり始めたのだった。私は縁側に置き去りにされたまま、ぼんやりと祖母の様子を見ていた。

「お祖母ちゃん」

「なぁに?」

「それで、結局お兄さんとはそれっきりなの?」

「ええ、そうよ。私が降りた駅で彼とは別れたわ」

「もったいないなぁ、捕まえていれば良かったのに」

 私がそう零すと、祖母は珍しく声を上げて笑っていた。

「無理よ、彼を捕まえておくことなんてできっこないわ。だから、あなたにこの話をしたの」

「・・・どういうこと?」

 すると祖母は微笑みながら私の目を見つめた。

「大丈夫、いずれ分かるわ」

 ファスナーが走る音がして、キャリーケースの蓋がしっかりと閉められた。立ち上がった祖母はおめかしをして、余所行きの小綺麗な格好に身を包んでいた。

「お祖母ちゃん、本当に行っちゃうの?」

 私がもう一度そう訊ねると、

「もちろんよ」

 と祖母は答えた。そして私の手を優しく握ると、

「彼によろしくね」

 と言って玄関の方へ行ってしまうのだった。何とも言い難い寂しさが胸を覆っても、祖母の歩みが止まることなどないということが分かってしまった私は、その背中が遠ざかっていくのをただ見送ることしか出来ないのだった。
 祖母が家を出て行く時、私の父と母は必死に祖母を止めようとしていた。しかし何度も説得を試みた所で、意にも介さない祖母は私達に頭を下げると、静かに家を出て行ってしまったのだった。遂には諦めてしまった父と、とても心配そうな顔で父に「どうするの?」と詰め寄る母を余所に、私は祖母の後を追って玄関先に飛び出した。少し先に、キャリーケースを転がしていく祖母の後ろ姿を見付けた。

「お祖母ちゃん!」

 私が大声で祖母を呼ぶと、振り返った祖母がゆっくりと手を振っているのが見えた。私の視界は少しずつ溶け始め、やがて離れていく祖母の姿をぼんやりとしか見ることが出来なくなったのだった。祖母は私の知らないどこか遠くに行ってしまって、もうそれっきり帰っては来ないような気がした。

 それから1週間が経つ頃、祖母はひょっこり戻って来た。母と買い物から帰ると、祖母が玄関先にぼんやりとした顔をして座り込んでいたのだ。私が傍に走り寄って声を掛けても、祖母はただぽかんとした表情を浮かべて首を傾げるばかりだった。

「ここは・・・どこですか?」

 そんな言葉を口にした祖母は、すっかり家のことも私達のことも忘れてしまっている様だった。ぽろりと涙が零れた私は、祖母の小さな体を優しく抱き締めた。

「おかえり、お祖母ちゃん」

 本当に祖母は、私の知らない遠くへ行ってしまった。

 その後、急激に体調を崩し始めた祖母は入院することになり、春休みの間、私はほとんど毎日祖母の顔を見に病院へ見舞いに向かった。ある日、一日だけ祖母の体調がとても良い日があり、花瓶の水を変えていた私の名前を呼んで、

「彼によろしくね」

 と言った。共にお見舞いに来ていた父や母は一体何の事を言っているのか分からないという様な顔をしていたが、祖母の体調の事ばかりが気になってすっかり忘れていた私は、ハッと祖母から聞いた話を思い出したのだった。
 祖母が私から『お兄さん』に伝えて貰いたいこと。どうして私が『お兄さん』に会うことができるのか、ということ。何一つとしてまだ分かっていなかったが、ベッドの上から優しく微笑んでいる祖母に、私は小さく頷いたのだった。

 2週間後、祖母は眠るように病院で息を引き取った。その優しくて静かな鼓動が止む瞬間まで、私は祖母の傍に付き添って手を握っていた。最後の呼吸がゆっくりと止まった時、祖母はなんとも幸せそうな表情を浮かべていた。共に病室にいた父と母、それから集まっていた親戚たちの間からすすり泣く声が聞こえていたが、私は不思議と微笑んで祖母の最後を見送ることが出来た。
 家を出て行った祖母がどんな旅をしたのか私には分からない。しかし、それはきっと祖母にとって、とても素晴らしいものだったに違いない、と思う私がいるのだった。

 春休みの最後の日。私は大きな花束を持って祖母の墓参りに向かった。仕事で忙しい父と母には内緒で、一人で祖母に会いに行ったのだった。
 春がやって来た街は至る所で桜の花が咲き乱れている。暖かな風に乗って薄桃色の花弁が舞い、道の上や街角をひらひらと泳いで行く。
 私は踏切を超え、少し小高い坂の上にある墓園まで歩いて行った。墓園の周りは満開の桜の木々に取り囲まれていて、灰色の筈の墓園が一面薄桃色に柔らかく包まれていた。
 細かな砂利の上を静かに歩いて、並んだ墓石の間を歩いて行くと、丁度、祖母の墓石の前に一人の男の人が立っているのが見えた。風になびいた前髪が、そっと瞳の上の影を散らす。恐る恐る近付いて行き、よくよく様子を伺うと、どうやら20代前半くらいの若い青年だった。
 私が砂利を踏む音に気付いた青年は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。私は青年の顔を見て、思わず手に持っていた大きな花束を落としてしまっていた。
 にっこりと優しく微笑んだ青年は、

「美祈さん、ですね」

 と言った。

「ど、どうして私を知っているんですか?」

 と驚いて訊ねると、

「・・・とても似ているから」

 と青年は答えたのだった。私は思わず体が小さく震えていることに気付いた。祖母が私に話してくれた『お兄さん』が目の前に現れたのだ。突然のことに動揺を抑えられなかった私は、『お兄さん』とまず何を語ればいいのか全く見当がつかなくなってしまっていた。
 すると、

「お祖母さん、分かっていたのかもしれませんね」

 とお兄さんが先に口を開いた。

「・・・何をですか?」

 私がそう訊ねると、お兄さんはゆっくりと瞳を閉じた。

「もうあまり自分が永くないということ。そして、旅の結末のことをです」

 私はハッとして、あることに気が付いた。

「もしかして、あなたが祖母を家まで送り届けてくれたんですか?」

 目蓋を開けたお兄さんは、小さく頷いた。その瞳が少しだけ翳っていた気がした。

「旅の時間はあっという間に過ぎ去って、気づいた時にはお祖母さんは何もかも忘れてしまっていました。もし旅などしなかったら、あなたのことも忘れ・・・」

「いいえ」

 お兄さんが話す途中で、私はその先の言葉を遮った。一際強く吹いた風が、墓園の桜を舞い上がらせる。

「いいんです」

 私の言葉は自分でも驚くほどに強く、明瞭な響きを持っていた様に思う。

「祖母が望んだ結末です。例え私を忘れてしまっても、祖母が幸せなら、それでいいんです」

 もし、祖母の語っていた『お兄さん』に会うことが叶うのなら、私は何もかも聞き出してやろうと思っていた。一体何者で、一体どこからやって来て、一体何のために祖母に会っていたのか問い詰めてやろうと思っていた。しかし、祖母はそんなことをお兄さんに詰め寄って、最後まで聞き出すようなことはしなかった。それが何故なのか、私はお兄さんに直接会って初めて気付くことが出来た気がする。
 足元に落としてしまっていた花束を手に取り、私はそっとお兄さんの元へ歩み寄った。近くで見るお兄さんの瞳はとても深くて遠い色をしていた。それは青でもなく、黒でもなく、緑でもなく、茶色でもない。私はゆっくりと息を吸うと、鼓動の静かな高鳴りに耳を澄まして、そっと口を開いた。

「ありがとうございます。お祖母ちゃんに会いに来てくれて。お祖母ちゃんの、好きな人でいてくれて」

 私の言葉に、お兄さんはそっと静かに微笑んだのだった。

 手に持った花束を祖母の墓石の前に置き、私は両手を合わせた。お兄さんもその隣で、言葉にするでもなく静かに祖母に語り掛けていたような気がする。温かい春の陽光が、私とお兄さんの二人の影を、そっと足元に落としていた。

 —— お祖母ちゃん、お兄さんにちゃんと伝えておいたよ。お兄さんはお祖母ちゃんが好きになってしまうだけあって、とても素敵な感じの人だね。私、お祖母ちゃんによく似ているんだって。もしお兄さんとお祖母ちゃんが結ばれていたら、とてもお似合いだったと思うな・・・。

< 終わり >


◇◇◇◇エピローグ◇◇◇◇

 キャリーケースを足元に寄せて、私はボックス席に深く腰を下ろした。車窓から見える外の景色は次第に速く流れていき、たたん、たたん、と子気味良いリズムが車内に満たされ始める。
 やや傾いてきた春の日差しが、皺の増えた私の手元に優しく零れ落ちていた。若い頃、私は自分が年を取っていくことを非常に恐れていた。自分が欲しいと思っていたものが理想とする年齢に差し掛かっても一向に手に入らないことに酷く焦ってもいた。皺が深くなった自分の手を見て思うのは、時の流れは驚く程速く、無情にも元には戻らないということだ。しかし、改めて人生を振り返ってみると、そんなに喜びや幸せばかり求めなくても、苦しみや悲しみと共に彼らはちゃんと手を繋いでやってくる、ということがとても良く分かる。乗客は発車した電車を止めることも、引き返させることもできない。揺れては曲がり、しばらく止まってはまた進み始める。後はそれぞれの席で、それぞれの物語が広がっていくのだ。
 私は軽く目を閉じて、線路の上を滑っていく電車の行方に身を任せるのだった。うつらうつらとした浅い眠りがやって来て、夢か現か、私はあの青年が時を超えたどこか遠くの街で生まれて、得も言われぬ過酷な運命を背負ってしまう、という情景を見た気がした。彼もまた、巡る時間の中を孤独に旅しているのだろうか。

「あの・・」

 そんな静かな声で、私はゆっくりと目を覚ました。声のする方に顔を向けると、そこには見覚えのある青年が立っていた。しかしその青年は、私がよく知っている彼ではなかった。なんとなくまだ少しだけ目元に幼さが残っている様に見えた。

「前の席に座ってもいいですか?」

 その青年は私にそう訊ねて来た。私はにっこりと微笑み、向かいの席に手をかざして、

「どうぞ」

 と答えた。
 ゆっくりと腰を下ろした青年は、窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
 しばらく私がその横顔をジッと見ていると、少しだけ気まずそうにした青年が、

「あの・・・何ですか?」

 と訊ねて来た。私は思わず笑みを零してしまった後、気を取り直して青年と向き合った。

「あなたのことは良く知っているわ。ずっとあなたのことばかり考えていたから」

 そんな私の言葉に、青年は何やらハッと察した様な顔をして、それからふと優しい苦笑いを浮かべたのだった。
 私は少しだけ身を乗り出し、

「あなたに、いくつか頼み事があるの」

 と語り掛けた。電車の汽笛が車内を包み、踏切の音が勢いよく通り抜けて行った。私の頼み事を聞いた青年は破顔して「喜んで」と言っていた。


 二つ次の駅で降りて行った青年を見送った後、私は再び目蓋を閉じて進む電車に揺られていた。
 すると、向かいの席に何も言わず、誰かがそっと腰掛けるのを感じた。私はゆっくりと目蓋を開き、目にしたものに思わず自分の顔が綻ぶのを感じた。

「・・・あなたって、意地悪なのね」

 私がそう言うと、向かいの席に座っていた青年が微笑みながら首を傾げて見せた。

「どうしてですか?」

「私に会いに来ていたのは、ある人に頼まれたからだって言ってたけど、私自身だったってことね」

 目を細めた私に青年はただ静かに笑っているのだった。今度私の目の前に現れた彼は、私が良く知る見慣れた『お兄さん』だった。

「15年前の私の頼み事を忘れもせず、ちゃんと会いに来てくれたのね」

「もちろんです」

「でもいいの? こんな私と電車の旅だなんて」

 そう訊ねると、青年はこれまで以上ににっこりと笑って見せたのだった。

「・・・喜んで」

 季節の境目にはいつも、足の速い風が次の季節を連れてくる。車窓から見える街には所々桜の花が咲き始め、もうじき町中が鮮やかな薄桃色に染まることだろう。私は揺れる電車の中で暖かな陽光に照らされた彼の優しい笑顔を、いつまでも、いつまでも見つめているのだった。


——私達の全ては、みんな、線路の上・・・。


《 完 》


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