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コーヒー28:コーヒーの歴史(起こり〜17世紀)

おはようございます。
春の寒の戻りってこんなに長くて本格的に寒いんでしたっけ?と思うほど本格的に寒いし厚い雲空に春のかけらさえも見つけられない。

さて、昨日は人類がコーヒーを見つけたとされる逸話をいくつか見たので、その後どのようにコーヒーが世界に広がっていったのかを順を追って見ていこう。

6世紀

1. アビシニア(現在のエチオピア)でコーヒーを発見

コーヒーが発見された経緯は、昨日見た6世紀頃の羊飼いカルディの話が産地の歴史とも合致している。ただ、当時は各地域間でそれ程大きな交流があった訳ではなく伝播するまでに長くの時間を要した。実際次の話の展開は15世紀まで待つ必要がある。

15世紀

2. アラビア半島のイエメンにコーヒーが薬として紹介され、移植される

アデン(イエメンの首都)のイスラム教師、シーク・ゲマレディンが、1454年にアビシニア(エチオピア)に旅行した際、コーヒーの効能を詳しく知ることとなる。
アデンに帰国後健康を害したゲマレディンは、アビシニアでのコーヒーのことを思い出し、効き目に期待して現地からコーヒーを取り寄せ飲んでみた。すると病気が治ったばかりか、眠気を追い払ってくれるじゃないか。これに驚いて、彼は夜の儀式中に居眠りをする修道僧たちにも飲ませてみることに。すると効果はてきめん、弟子たちは居眠りもせずに勤行に励むことができたという。
アデンではこれ以前にもコーヒーの飲用は知られてはいたが、ゲマレディンのこの宣伝活動がコーヒー流行のきっかけになった。
フランスの国立図書館蔵のアラビア語文献には次のように残されている。
「法律家や学生ばかりか、夜歩く旅人、芸術家など日中の暑さを避けて夜働く人々は、もっぱらコーヒーを飲むようになった」
コーヒー飲用はイエメンから、サウジアラビアのメッカとメディナにも広まった。

コーヒーの栽培は、これに合わせて、アフリカのアビシニア高原から南アラビアのイエメン地方にコーヒーの木が移植された。

16世紀

3. トルコ国内で飲み物として広がる

トルコのセリム1世がエジプト征服後、コーヒーをコンスタンティノープル(今のイスタンブール)に伝わる。
1554年、ダマスカス(現シリア・アラブ共和国)出身のシェムジと、アレッポ(現シリア・アラブ共和国)出身のヘケムが、トルコのコンスタンティノープルのタクタカラと呼ばれる界隈に、それぞれコーヒーハウスを開業しました。
この2店が世界最初のコーヒーハウスと言われている。両店とも調度品と装飾に凝り、居心地は抜群で、社交の場としてトルコ人の熱狂的な支持を集めました。以後、トルコではコーヒーハウスが急増し、コーヒーはあらゆる階級に大歓迎される。
人気が高まるにつれてコーヒーハウスはますます豪華になり、深々と絨毯が敷かれ、サロンも併設されるように。そこには、様々な国の商人や旅人、官職を求めて地方からやってきた法官、裁判官を目指す若者、官廷の役人などが訪れ、コーヒーハウスは「賢者の学校」とも呼ばれるようになった。

コーヒーの栽培は、アラブ人がセイロンにコーヒーの木を伝えている。

17世紀

4. トルコから飲み物として、ヨーロッパやアメリカに広がる

シルクロードの出発地点にして終点であるトルコ、そこには多くの国から交易や新しい文化を求めて人々が行き交っていた。

そんなトルコを訪れたときコーヒーに馴染んだアメリカ人ジョン・スミスは、1607年に約100人の植民団を率いて、現在のバージニア州に上陸し、ジェームスタウンを創設。コーヒーは、この時一緒に北アメリカに伝わった。

ヨーロッパでも、ヴェネツィアやアムステルダムなどの海運都市からコーヒーが広まり、各地でもカフェが開店されるように。
紅茶の国イギリスで初めてコーヒーを出すカフェが開店したのは、1650年のオックスフォード。レバノン出身のユダヤ人ジェーコブズによって、イギリス最初のコーヒーハウスがオープン。場所は、オックスフォードのイースト地区セントピーター教区エンジェルで、開店と同時にコーヒーは学生たちの人気を博して飛ぶように売れたという。

因みにロンドンはそこから遅れること2年、1652年にパスカ・ロゼーによってロンドン最初のコーヒーハウスがコーンヒルのセント・マイケル通りにオープン。パスカ・ロゼーは、ダニエル・エドワーズというロンドンの商人がトルコへ行った際に連れ帰った人物で、アルメニア人もしくはギリシャ人とされている。
当初ロゼーはエドワーズのためにコーヒーを入れていましたが、その珍しさから来客があまりにも多くなり、エドワーズはパスカ・ロゼーにコーヒーハウスを開くことを許す。この店の開店をきっかけとして、コーヒーハウスとコーヒー飲用の習慣はまたたくまにイギリス中に広がっていった。

英語によるコーヒー最初の広告も、このパスカ・ロゼーが1657年5月、ロンドンの週刊新聞「パブリック・アドバイザー」紙に掲載された新聞広告。広告文は紅茶に対抗すべく薬効成分を強調しながら以下のように、コーヒーの効能を次のように紹介している。
「旧取引所裏バーソロミュー通り。コーヒーと呼ばれる飲み物(きわめて身体によき天然の飲料、すぐれたる効能多し)。胃の孔を塞ぎ、体内の熱を強め、消化を助け、精神の働きを促し、気持ちを快活にする。ただれ目、咳、風邪、粘膜の炎症、肺病、頭痛、水腫、風疹、痛風、懐血病など多くに効く。午前中および午後3時に売る」

鎖国中の日本にもコーヒーが届けられたのもこの時期。唯一開かれていた長崎のオランダ商館で駐在していたオランダ人によって、彼らと接触できた役人や商人、蘭通詞(通訳)、遊女などの限られた日本人にコーヒーが提供されていた可能性も高い。

飲まれ方においても、カイロで初めてコーヒーに甘味をつけるための砂糖が使われたり、中国駐在オランダ人大使ニューホッフが茶にミルクを入れる風習を見習い、コーヒーに初めてミルクを入れたり、と薬という観念から解放され、日常的な飲み物として親しまれていく。

5. コーヒーの栽培は、アジアへ

16世紀にコーヒーの木が既に持ち込まれていたセイロンで1658年にオランダ人がコーヒー栽培を開始するのを筆頭に広がっていく。

イエメン地方のイスラム教寺院で栽培されていたコーヒーは当時、国外への持ち出しが厳しく禁止され、厳重な監視のもとにおかれていた。このコーヒーの持ち出しに成功したのが、ババ・ブータンというイスラム教徒のインド人。
彼は聖地メッカへ巡礼にやってきた時、コーヒーをインドへといわば盗み去った。せっかく聖地巡礼したご利益を全て失いそうな窃盗…。ただその後、南インドのマイソール海岸で栽培に成功。この木が原木となり、南インド一体はコーヒーの生産地として今に至っていることを思えば多くの人々を幸せにする英断だったとも言えるかもしれない。

そしてインド南部のマラバルから、初めてジャワ 島にコーヒーの苗木が運ばれる。一度目の苗が洪水によって壊滅し、。ジャワへ二度目のコーヒーの苗木を運び栽培に成功。オランダ領インド諸島のすべてのアラビカ種コーヒーノキの先祖となる。

*上記の情報は以下のリンクからまとめています。

https://www.ucc.co.jp/enjoy/encyclopedia/history/index.html

16−17世紀にかけてから世界規模で、動きが急激に広がっていくのがわかる。それだけ人種や文化に関わらず幅広い人々に愛されるポテンシャルを見て取ることができる。
明日は続きを見ていこう。


僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。


皆様も、良い一日を。


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