ねぇ、くるみ。この街の景色はきみの目にどう映るの?
分岐点に立たされたとき、悪気のないだれかの言葉に勝手に落ち込んでしまうとき、心の奥底にいる弱い自分が顔を出すときがある。
あの日のわたしだったら、きっと悩みすぎて選択をすること自体を諦めてなんとなく歩んでいただろう。あの日のわたしだったら、ありのまま受け止めて落ち込んで涙を流していただろう。
あの日のわたしが今のわたしに問いかける。
「ねぇ、きみの目にはどう映っているの?」
「誰かの優しさも皮肉に聞こえてしまうんだ
そんなときはどうしたらいい?」
わたしは褒められることが苦手。
そして天邪鬼でいつも否定的だ。
”いやいや、そうはいってもぜんぶお世辞でしょ?”
大人になればなるほど、わたしではない誰かに理想を抱いて、自分を否定して、わたしのことを良く言ってくれる人がいても、そういう言葉を素直に信じられなくなってしまった。
そんなふうに小難しいことばかり考えていた。
答えなんて出やしないのに。
そんなとき、わたしはとあるMVに出会った。
Mr.Childrenさんの「くるみ」
わたしはこのMVをはじめて見たとき、どうしようもなく心が震えて、声を出して涙を流した。そんなこと初めての経験だった。
ブラウン管テレビの4:3の画面から流れてくるのは、冴えない毎日を送るどこにでもいるおじさんが、一本のギターに出会い、かつての仲間と共に「置いてきた夢」と向き合っていくお話。
MVだからもちろんセリフはない。
それでも、どうしようもなく心動かされたのは「誰にでもある葛藤」に向き合うおじさんたちの姿。
この曲の歌詞に登場する「くるみ」という存在。
これは「来る未来」という意味をもじったことと、「くるみ」といういそうでいないリアルすぎない女性を表現しているのだそう。
この記事を書くにあたって、わたしはいろんな人の「くるみ」の考察を見てきた。その多くは別れた恋人に向けた曲だと言っている。しかしわたしは楽曲よりも先にMVを見たので、わたしの考えは全く違うものだった。
「くるみ」=「未来の自分」
「くるみ」=「過去の自分」
その両方だと思った。
この曲は、どうしようもない現実にもがき、輝いていた過去に思い馳せ、まだ見ぬ未来を思い描きながら葛藤している。
この曲の主人公が問いかけるのは、ここではないどこかにいる「もうひとりの自分自身」
「良かったことだけ思い出して
やけに年老いた気持ちになる
とはいえ暮らしの中で今動き出そうとしている
歯車の一つにならなくてはなぁ」
あの頃は良かったなと、きっと誰しも思い馳せる瞬間はあるだろう。しがらみなんて物ともせず、なんなら反発しながら自由に生きていた。それに比べて今のわたしはどうだろう。暗黙のルールや常識にとらわれて「自分」に蓋をして流れるままに生きなきゃならない日々が急に虚しくなる。
「出会いの数だけ失望は増える
それでも希望に胸は震える
十字路にでくわすたび迷いもするだろうけど」
それでもなお「希望」という灯火はずっと心の中で燃え続けている。「いつかはいつかは」と理想を思い描きながらも、現実の自分と未来の自分との間で葛藤し続ける日々。
”ねぇ、くるみ。
この街の景色はきみの目にどう映るの?”
わたしは「くるみ」に問いかけ続ける。
もがきながら「現実」を生きるわたしはどう見えてる?
でも「くるみ」はわたしに明確な答えを出してくれやしない。その問いに対して答えを出すのはいつだって「現実」を生きるわたし。他の誰かが答えを出してくれるわけでもない。進む道を決めるのも、進もうとするのもいつだってわたし。
それはきっと「過去」にとらわれているわけでも
「未来」の自分が眩しすぎて手を伸ばせないわけでもない。
そんなの言い訳に過ぎないんだ。
わたしは何かと理由を付けたがる。
小難しいことを考えすぎてはタイミングを見失う。
そんなんじゃ答えなんて出やしない。
そんなのわかってるさ。
だからこの道の角を曲がるときに
「くるみ」とお別れしよう。
いまそう決めた。
「引き返しちゃいけないよね
進もう きみのいない道の上へ」
由佳
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