<閑話休題>1987年3月『現代思想 総特集 折口信夫』から
折口信夫という人は、日本の民俗学の草分けである柳田国男の弟子であるが、その後柳田とは異なる方向に民俗学の研究を進めた偉大な学者である。また、釈迢空という筆名で和歌や詩を作った歌人でもあった。折口はまた、民俗学のみならず国文学や神道についても独創的な研究を続け、「まれびと」、「貴種流離譚」などの独自の用語を創造したことでも著名である。戦後は、國學院大学教授として後進の育成に寄与するとともに、日本の神道を戦中までの政治と一体化したものから分離して、真の宗教となるための多くの提言を行った。一方、私生活では同性愛者として生き、弟子の中から春海を養子にしたが、太平洋戦争末期の硫黄島で玉砕するという哀しい経験を持っている。
日本では、一般的に民俗学といえば柳田国男とその後継者たちが主流になっているが、折口民俗学には、柳田以上といっても過言ではないほどの多くの人をひきつける独特の魅力がある。そうしたことが、『現代思想』という雑誌が、本来の趣旨とは異なるような対象である折口信夫の特集号を、敢えて作成した背景となっている。つまり折口は、民俗学者という枠におさまりきらない日本を代表する思想家、例えば和辻哲郎、西田幾太郎、三木清らと同列に見られる存在になっているのだ。
以上の観点から、この特集号には多種多様な分野の研究者による論文が収められている。その中には、私の興味と関心を惹いたものが三点ほどあったので、それを紹介したい。なお、以下に引用した内容は、既に承知している方も大勢おられると思うが、私にとっては新鮮な発見であり、また日本の民俗学(民話)のみならず、日本の神話に対する解釈に対して、良い参考となったので、私の理解を<個人的見解>として付記した。
〇 折口信夫による「祭」論がある。日常的に使用する秋祭り・冬祭り・春祭りというのは、ほんらい一夜のうちに続いておこなわれたものであって、「歳の窮った日」の宵のうちに秋祭りがおこなわれ、夜中に冬祭りが、そして明け方に春祭りがおこなわれたのではないか、というのがそれ(折口の「祭」論)である。大晦日に、籠りの状態に入って正月様を迎える、というのが「歳の窮った日」の祭りの中核をなしていたと考えるわけである。が、のちに太陰暦が輸入されると、そこに暦法上の秋・冬・春という時間区分があてはめられて、秋祭り、冬祭り、春祭りにそれぞれ分節され、さらにそのなかに夏祭りまでが割り込んできた。(1987年3月『現代思想 総特集 折口信夫』から「分節しない時間 折口信夫の『発生』と歴史認識」山折哲雄 から引用)
<個人的見解>
日本の祭は、季節ごとではなく大晦日から正月にかけての一日で行ったものが、その後秋・冬・春に分割されたというのは、その時間軸の感覚が非常に面白い。そこで思うのが、(後から割り込んできたとされているが)夏祭りはないのか?ということだ。そして、このコンセプトにおいて夏祭が最初からないとすれば、そもそも夏祭は、日本古来の祭として存在していなかったのではないかと私は考える。そして、(どこから、またどうやって入ったかということは、別途考察するとして)後から加わった夏祭はなにかということを、この時間軸のコンセプトから考えると、それは時間軸の外にある祭、あるいは時間とは無関係な祭であるとみなせるだろう。そのため、夏祭は、他の時間を前に進めるための祭とは異なり、無礼講としてのハレ(異世界)の概念を強く持つと同時に、時間を止めた後にリセットするものとして機能したのではないだろうか、と私は考えている。
〇 折口によれば、村はずれの境界=賽の河原は、他界(常世・山)へとわたることのできぬ幼い者らの魂が集中している場所である。この賽の河原と、境界を障えるさいの神とがその根底にあってひとつの信仰を分有しあうものである・・・・・折口は霊魂の成熟・未成熟をかんがえる。それに応じて、完成した霊魂・未完成の霊魂・元来完成のありえぬ庶物の霊それぞれに、位相を異にする他界がふりあてられることになる。村境の賽の河原が、そのうちの未完成の霊魂のとどまる場所とされることは、いうまでもない。(1987年3月『現代思想 総特集 折口信夫』「折口信夫における境界観念」赤坂憲雄 から引用)
<個人的見解>
村の境界には、行倒れをした死者を弔うための地蔵菩薩が置かれているのをよく見かける。もともと地蔵菩薩は、来世への門番的な役割が原始仏教ではあったとされる。そのため、地蔵菩薩が置かれた場所は、まさに境界=来世との境界を示している。こうした概念とこの折口が賽の河原と見なしたという概念は、論理的に整合性が取れている。なお、この境界の外からくる異人が「まれびと」であるが、それは同時に地蔵菩薩が門番を務める常世(彼岸)からやってきた者と見なされているのだと私は考える。
〇 狂言には『節分』という古い曲があって、この中に出てくる蓬莱の鬼も、風流の要素を持っているという。節分の夜、亭主が出雲大社へ年を取りに行った留守に、女房ばかり内悦びをしようとしていると、「是は蓬莱の鬼で御座る」といいながら鬼が出て来て案内を乞う。女房が門を開けるけれども、鬼は隠れ蓑――隠れ笠をきているので見えない。鬼が蓑笠を脱ぐと、女房は恐ろしがって「あっちへ行け」という。鬼は、身どもはこわい者でないといいながら内へ入って来て、喰う物を所望する。するうちに鬼は女房を口説き出す。女房は思案して、まこと思うているなら宝をくれというと、鬼は早速隠れ蓑・隠れ笠・打ち出の小槌などをとらせる。そして「これから此処の亭主ぢゃ、是へ寄って腰を打っておくりやれ」という。その時、女房は節分の豆をとりだして、「福は内、鬼は外」とはやすと、鬼はほうぼうの体で逃げる、という筋である。(1987年3月『現代思想 総特集 折口信夫』「水平的他界の問題」秋山さと子 から引用)
<個人的見解>
節分にやってくる鬼とは、あの世からの鬼=精霊という概念であると、この狂言から理解できる。それはお盆にやってくる先祖の霊を歓迎するのとは正反対の行為である。そして、お盆が七月または八月であるのに対し、節分は二月であることを考えれば、夏に対する冬であり、さらに二月は冬が終わる季節であり、八月は夏が終わる季節であると理解できる。この観点からは、お盆の先祖の霊は、夏が終わることを告げる霊であり、節分の鬼=霊は、冬が霊の形となって家から追い出されることなのだと理解できるだろう。
<私がアマゾンで、キンドルまたは紙バージョンで販売している、各種論考などです。宜しくお願いします。>
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?