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<書評>『夜と霧』

『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録 Ein Psycholog Erlebt das Konzentraionslager, Osterreichische Dokuments zur Zeitgeschicyhe 1』ヴィクター・フランクル Vitor E. Frankl著 霜山徳爾訳 みすず書房 1961年 原著は1947年ウィーン

『夜と霧』

 原題を直訳すると「ある心理学者が強制収容所を体験する、オーストリアの現代史に関する文書1」

 「夜と霧」というのは、ヒットラーの1941年に出した総統命令「ライヒ(注:ドイツ第三帝国)及び占領地における軍に対する犯罪の訴追のための規則」(注:逮捕理由及びその結果を近親者等に伝えることなく、ナチスの意に沿わない人たちを強制収容し、強制労働などにより衰弱させた末の殺害を意図したもの)だという。また、「夜と霧」という表現は、リヒャルト・ワーグナー『ニーベルングの指輪』序夜『ラインの黄金』の第三場「ニーベルハイム」にある、アルベルヒという人物が「夜と霧になれ、誰の目にも映らないように!」という呪文からの引用だそうだ。なお、1956年にフランスのアレン・レネが『夜と霧』というドキュメンタリー映画を作っている。

 私は本書を学生の頃に購入したが、挿入されている写真を見た後に、ページを開くことができなくなった。つい最近も、写真を見た後に悪夢にうなされることがあった。そのため、仕事や多忙あるいは怠惰という理由ではなく、ただ「怖い」ということで手を付けられなかったのだ。そのため、実家の本棚の奥深くに40年余も封印していた。

 それが、定年退職後の二年余にわたる「リハビリ」で、心身ともに「正常化」あるいは「本来の姿に復帰」してくれたことで、ようやく読むことができる安定した心理状態になれた。思えば、学生時代から定年まで、ずっと心理的に不安定な状態だったのだろう。しかし、今の心理状態に戻れただけでも、二年余をかけて「リハビリ」した甲斐があったことが嬉しい。

 また一方では、貧乏学生時代を経てどうにか就職したものの、かくも長くリハビリを必要とするほどに、心身ともに「異常」で「本来の心理状態から遠い状況」であったかを、今さらながら思い知らされる。貧乏学生という不安と同居する環境を経て、生きるための選択とはいえ、わずかな金を稼ぐために、心身だけでなく魂もすり減らしてきたのだと実感する。それは、極端な表現ではあるが、私の疑似収容所体験とも言うことができるだろう。そう私は、45年ほど疑似収容所におり、そのうちn40年はアウシュビッツのような人間性を阻害する環境で生活してきたのだ。少なくとも、私にとって仕事をすることとは、「自分自身」=我(セルフ)を心の奥底に秘匿しつつ、ロボットのように命令に従って肉体を酷使することであったのだから。

 上述したように本書は、アウシュビッツ等の強制収容所(別名、絶滅収容所)の苛酷な状況から生還した、オーストリア生まれのユダヤ人精神分析医の記録であるが、ユダヤ人と精神分析についての当時の状況を付言しておきたい。第二次世界大戦時のヨーロッパ社会では、精神分析はユダヤ人であるジグムント・フロイトが創始したため、それだけで「ユダヤ人の悪魔的思想」と、ナチスのみならずヨーロッパ全体から見られていた状況であった。そのため、「ユダヤ人の精神分析医」という存在は、ナチスにとっては徹底して破壊・絶命しなければならない対象であった。

 しかし、著者は、そうした数々の苦難を乗り越えた末、戦後にこの収容所の過酷な体験のみならず、収容所の体験から得た精神分析学の研究成果を発表することで、世界的に著名な心理学者となった。収容所の体験がなかったと考えることは論外だとは思うが、収容所体験が著者の研究に大きく寄与したことは否定できないだろう。参考として、私の手元にある『現代思想の109人』(雑誌「現代思想」臨時増刊1978年)によれば、著者のヴィクター・フランクルは、「フロイトの精神分析学とマックス・シェーラーの実存哲学を基にした、ロゴス(精神)によるセラピー(治療)である「ロゴテ(セ)ラピー」の提唱者」と紹介されている。

 以上が、著者フランクルの大まかな紹介である。そして、私は読むまでに数十年もかかった本であったのにも関わらず、想定外の短期間で読了してしまった(その背景には、学術書とは異なって原注や訳注がなく、また論文ではなくエッセイとして書かれている文書ということがある)が、その中で私が感情を動かされた箇所を、以下に紹介したい。なお、特定の引用文とそれに対する私の見解の記載を基本にしているが、他方ではある文章の概要とそれに対する感想という形式も混在するものとなっていることを、ご了承願いたい。

P.78
 長くまた数箇所に分かれるため全文を引用しないが、アウシュビッツに入所した直後の記述で、「良い人は皆死んだ」、「自殺をした者は、高電圧の流れる鉄条網に行けばいつでも死ねた」と書いている。

<私の感想>
 たぶん私が収容所に入ったら、すぐに高電圧の鉄条網に突進していると思う。なぜなら、他の囚人の食べ物を奪い得ることや、ガス室送りの順番を他人にいくように仕向けたりするなどして、自分だけが生き延びることは、私にはできないからだ。それは、私が倫理的に優れているからでは決してない。私が弱いからだ。私はそうした「奪い合いの世界」には生きられない弱い人間だからだ。しかし、生き残った人が倫理的に悪なのだとは絶対に言わないし、また言えないと私は考えている。生き残った人には、この人類史上最悪の出来事の一つを後世に語りつたえるという、重要な役割があるからだ。その人は自分の役割を果たすために、生き残るべくして生き残ったのだと考えている。

P.80
 あらゆる他の普通の囚人は危険な加重労働による賞状で手に入れた煙草を食料と交換するのを常としていた。そうでなければ彼等は生きのびることを放棄し、なお彼等の自由にし得る生涯の最後の日々を「享楽しよう」と決心したのである。すなわちもし一人の仲間の囚人が、彼の数本の煙草を自分でのみ始めるならば、われわれは、彼がもはや生き続けようととは思わないのだ、ということを知るのである―――そして事実その時、彼は生きることができなかったのである。

<私の感想>
 私は煙草を吸わない。だから、煙草を得ることがあればすぐに誰かに譲っていたと思う。そして、私の収容所生活での寿命はすぐに尽きたと思う。

P.120
 フランクルが収容所に入るときに没収された学術論文の原稿を回復すべく、密かに粗末な紙に速記で書いていたというエピソードがある。しかも、発疹チブスの譫妄に夜間犯されないため、できるだけ寝ないで過ごすために始めたと書かれている。

<私の感想>
 これは、あのルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインが、第一次世界大戦に従軍しているときの塹壕の中で、有名な『論理哲学論考』を書いていた行為と酷似している。人は、逆境にあるときこそ、自らの希望するものをなんとかやりとげようとするのだと思う。

 かくいう私も、卑近かつ低レベルではあるが、仕事をしているときはその合間に、定年後の今は、電車で移動しているときに、頭に浮かんだ事柄をメモするようにしている。また、散歩をしているといろいろなアイディアが浮かんでくるのは、古今東西よく知られたことである。私のこうして思いついたアイディアのいくつかは、その後発展・拡大していって、論考や小説のネタ=種になっている。また、このネタ=種は、アルフレッド・ヒッチコックの述べる「マクガフィン」でもある。ニュートンがリンゴの落ちるのを見て万有引力に気づき、アルキメデスが風呂に入っているときに浮力の原理に気づいたのも、みなこうしたマクガフィン=ネタ=種が原点なのだ。

P.121-122
 元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な、外的状況を苦痛ではあるにせよ彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドクスが理解され得るのである。

<私の感想>
 そう、私は仕事をしていたとき、とても嫌な状況になった場合は、頭の中で好きなクラシック音楽のメロディーが勝手に聞こえてくる体験を何度もした(自動的自己防衛反応?)。また、仕事に対して魂の全力を注入することはせず、魂の一番大切な部分は心の奥底に秘匿し続けた。これによって、私の人格を否定・罵倒・破壊するような様々な事案が度々あったが、どうにか生き延びることができたと思っている。

P.125
*全文引用は長いので、概要と私の見解を以下に記す。

 絶望的な状況の中で、フランクルは(実は既に収容所で死んでいたのだが、それを知らなかったため)妻のことを思い浮かべ、そうした瞬間にまるで目の前に実際にそこにいるかのように妻の姿が見えたという。そして、(幻影の)妻に話しかけることで日々の苦悩が和らいだという。

<私の見解>
 これは、宗教における聖人や殉教者が見たビジョン(顕現:エピファニー)と同じものではないか。それが、フランクルにとっては最愛の妻という形象になったのであり、例えばカソリックの聖人にとっては、復活したイエスの姿であったのだと思う。また、このフランクルの体験から鑑みれば、聖人伝説に多く残されている奇蹟の真実味が増してくる。「それ」は実際にあったのだ。

P.127
*全文引用は長いので、概要と私の見解を以下に記す。

 収容所の中で囚人たちに数少ない喜びを与えたものがあった。それは自然の美しさである。鉄条網の向こうに見える、自然の創り出す美は、特に夕方の美しさは囚人たちの命をつなぐ食事よりも、彼らの命を助けることがあったという。

<私の見解>
 この人が極限状態にある中での経験からは、人にとって芸術と自然という二つのものは、とても偉大であることを証明している。芸術も自然も、人にとってなくてはならない重要なものなのだ。この二つが、金にならないとか、安価とかいう金銭的価値等で判断して、不要なものであるかのように述べることが如何に不当なことであるか。自然と芸術は価値判断の枠外に存在している。

P.151-158
 *「テヘランの死」という、「人間万事塞翁が馬」に似たエピソードに関係した箇所である。全文を抜粋するのではなく、概要を以下に記す。

 「テヘランの死」というのは、ある召使が「死」に会った(つまり、死の宣告を受けた)ので、主人の許可を得て、「死」に会った場所からテヘランへ急いで逃げた。その後、偶然に主人が「死」に会ったところ、「死」は、自分は召使にテヘランで会う予定であることを告げた、という話だ。つまり、「死」から逃げたつもりが、自ら「死」のいる場所に急いで向かってしまったという皮肉になっている。

 フランクルは、戦争末期に収容所から脱走する計画を立てるが、次々と想定外のことが起きて挫折してしまう。その後、証拠隠滅のため収容者もろとも焼かれることが想定された自分のいる収容所から、別の収容所に行く最後の貨物自動車に乗る予定でいたが(つまり、「死」から逃れる)、収容所係員によるリストの手違いで乗り損なってしまう。これで自分は焼き殺されるのかと落ち込んでいたところ、その直後に赤十字の車が来て、一時的に助かる。そして、意外にも貨物自動車の向かった先の収容所こそが収容者とともに焼かれる収容所であったことを知る。ほっとしたのも束の間、赤十字はまだ戦闘継続中のナチスに追われてしまい、元の収容所に戻った。度重なる不幸に落ち込んでいたところ、その夜に連合軍が収容所を攻撃し、翌朝フランクルたちは完全に開放された。脱走をできなかったこと、貨物自動車に乗らなかったという二つの不幸が、最終的には幸福につながったということで、フランクルは、自らの運命を天に委ねるしかないことを自覚したという。

<私の感想>
 私も「天命」ということで「運命」には逆らわないことにしている。既に神によって予め決められていることであれば、人がどうあがいても何も変わらないし、変えられない。「天命」・「運命」・「自然」に委ねるしかないのである。また、そうした「天命」を受け入れられる心境になることが、「大悟」の一部だとも考える。

P.180
 *全文引用は長いので、概要を以下に記す。
 
 フランクルは、精神科医であったため、ある収容所の同僚から夢の話を聞かされる。それは、1945年2月に見た夢で、5月30日には戦争が終結する(収容所から解放される)というものだったという。しかし、それまで健康だったその囚人は、4月29日に高熱を出して発病し、5月30日には譫妄状態に陥り、31日に死んだ。これに対してフランクルは次のように記している。「彼の未来への信仰と意志は弛緩し、彼の肉体は疾患に仆れたのであった。・・・かくして結局彼の夢は正しかったのである。」

<私の感想>
 人は身体の傷より、心の傷で死ぬ割合が多いことの証明だと思う。身体の傷は癒えるが、心の傷が癒えるのには多大な時間と努力を必要とする。そして、心が傷つくと、人は身体が傷つく以上に簡単に死んでしまうのだ。それほど心とは大切なものなのだ。

P.183
 すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。そのことをわれわれは学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。哲学的に誇張して言えば、ここではコペルニクス的転回が問題なのであると云えよう。すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時間問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。

<私の見解>
 この箇所にある、「日々の務めを行うことに対する責任を担う」という表現は、禅の修行に通じるものがあると思う。禅寺では、坐禅の他、掃除・炊事などの日々の務めを真面目に果たすことが、そのまま悟りに至る修行であり、むしろ坐禅よりも有効かつ重要だと言われている。なお、この禅の修行について『仏教説話 パンタカ―聖なる寓者―』として、短編にまとめnoteに掲載しているので、ご関心あれば一読願いたい。

P.204
*収容所から解放された後に、必ずしも「幸福」だけであったとは限らないというエピソードが以下の引用文である。

 彼は市電に乗り、それから彼が数年来心の中で、しかも心の中でのみ見たあの家の所で降り・・・彼が多くの夢の中で憧れたのと全く同じように・・・呼び鈴を押し・・・だが、ドアを開けるべき人間はドアを開けないのである・・・その人はもはや決して彼のためにドアを開けてくれないであろう・・・。
 収容所におけるすべての人間は、われわれが悩んだことを償ってくれるいかなる幸福も地上にはないことを知っていたし、またお互いに云い合ったものだった。われわれは「幸福」を問題とはしないのである。われわれを支えてくれるもの、われわれの苦悩や犠牲や死に意味を与えることができるものは「幸福」ではなかった。それにも拘わらず、不幸ということも殆ど理解されていないのである。解放された囚人のうち少なからざる人々が新しい自由において運命から受け取った失望は、人間としてそれをこえるのが極めて困難な体験であり、臨床心理学的にみてもそう容易に克服できないものなのである。

<私の見解>
 この最後の「解放された後に幸福はなかった」という記述は、現在ではPTSDと診断されるものだと思う。あまりにも悲惨かつ苛酷な体験をしたことは、リセットすることはできない。いつでもその体験が生々しく蘇ってくる。そして、「生き残ったものは、最後まで希望を棄てなかった。解放された後のことを夢見て生き延びた」とされているが、そうした人々が解放された後に見たのは、夢の実現ではなく、実は夢は夢でしかなかったというのが、哀しく厳しい現実なのだ。現実の生活は、もちろん収容所の生活よりは良いのは確かだが、それ自体で収容所体験が解消される(してくれる)ものではない。そんな力はそもそも現実の生活にはないのだ。また、当然に囚人が収容所で長く待ちわびていた「幸福」というゴールにもなれないのだ。

 私はこのエピソードは、「青い鳥を求めて、艱難辛苦を乗り越えたが、最後に見つけたのは自分がいまそこにいることだけだった」という、メーテルリンクの人生観を、フランクルが収容所体験から実証したものだと理解している。

 卑近な例ながら、私の海外勤務でもっとも辛く、収容所のような体験をしたのは、バングラデシュで生活していたときだった。この時は、事務所の仲間たちと、次に日本へ帰ったらあれをしたい、これを食べたいなどと希望を語り合うことで、息詰るような苦しい日々を乗り越えていた。しかし、実際に日本へ一時帰国して、バングラデシュで希望していたことを次々に実現してしまうと、もうあれだけ切望していた目的や目標がなくなるのと同時に、期待していた幸福感も瞬時で消えてしまったことを思い出す。つまり、非日常の中にいて日常に戻りたいと希望し、実際に日常に戻った直後は良いが、それが文字通りの日常になってしまうと、そこに喜びを見出すことができなくなってしまうのだ。

 一方、私のPTSDは、今でも完全に消えていないことを正直に告白する。バングラデシュで経験した非日常的な出来事は、そのわずか三年後に再びインドへ赴任したことも重なって、今でもちょっと油断するとフラッシュバックとして、当時の苦しい体験が蘇ってくる(記憶の底に封じ込めていた体験が、何らかの契機によって表面に浮上してくる)のだ。それは絶対に消えないまた消せない記憶なのであり、また別のものに置き換えることも不可能な、いうなれば「記憶の傷跡」とも言うべきものなのだ。

 強制収容所から生還した人々が、「この体験は特殊過ぎるから、経験した者にしか理解できない」という理由で語ることを拒絶する気持ちが、少しながらわかる気がする。私のバングラデシュ体験は、いろいろな形で文章に残しているが、私の受けた衝撃や傷が理解されるとは到底思っていない。それでも、私はフランクルのように記録する意味を肯定的に捉え、また文章の形にすることでPTSDが緩和することを願って、記録している。

 ところで、私はこのナチスの強制収容所のイメージを元に一つの短編小説を書いた。題名は『貨物列車の車掌』である。アマゾンで販売している『九つの物語』の中にある。本稿に関心を持たれた方は、購入の上お読みいただきたれば幸いである。

 
 最後に、本書を読み終え、そしてこの<書評>を書き終えたときに気づいたことがある。それを箇条書きにして、本稿を閉じることにしたい。

1.人間は極限状態になると、「人」であることを平然と自発的に放棄する。

2.強制収容所の罪業により、戦後処刑された人たちは、(中には、悪質な犯罪者や精神異常者もいたが)皆平時であれば普通の良き市民であった者が大半だった。つまり、普通の良き市民は、瞬時に凶悪な犯罪者(加害者)になってしまうのだ。

3.私は、本書を読める状況になるまでに40余年かかった。しかし、その間に強制収容所に比するような苦しい体験をした。またそうした経験をすることが前提条件となって、本書を読む準備がようやくできたのだと思う。

4.上記3.の苦しい経験は、簡単に忘れられるようなものではなく、またPTSDとして刻印された心の傷跡であった。しかし、本書を読み進めることによって、自らの体験を振り返ることを促され、また再考(反省)することが自然にできていた。これらのことが一種の精神的治療になり、読了後の私は、PTSDのくびきからいくらかでも離れることができた気持ちになっている。これは、フランクルの行っているロゴセラピーの効果かも知れない。

 フランクルは、強制収容所を実体験した貴重な記録として本書を書いたのだが、元囚人という視点だけでなく、精神分析医としての視点から書いていることもあり、どこか「読むだけの治療器具」の効果を持っているのではないだろうか(もっとも、万人に治療効果があるわけでは決してないが)。


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