「初めての人生の歩き方――毎晩彼女にラブレターを」(有原ときみとぼくの日記)　第236話：忘却のデシリットル。

「科学とは、色あせたもろもろの思想の集まった墓場である」ウナムノ

　子供の宿題を手伝っているうちに、ふと聞きなれない言葉を耳にした。

「ねえ、1デシリットルはなにミリリットル？」

　デシリットル？
　ぼくはなんだか頭の中を消しゴムで消されたかのようにその単語の意味が分からなかった。デシリットル……どこかで聞いたことがあるような気もするのだが、そんな単語はまったく聞いたこともない気もする。ようするに習ったのかを覚えてもいないし、ここ何年も使った記憶もないし、それでももしかしたら習ったかもしれないし、つまり分からないということだ。

「デシリットルってなんだっけ？」

　恥をかくつもりで聞いてみた。

「10デシリットルで1リットルだよ」

　ということは、100ミリリットルか。

　え、そんな単位習ったっけ？
　そもそもそんな単位本当に使った記憶まったくないんだけど……。

　ペットボトルだって500ミリリットル表記じゃないか。5デシリットル表記の飲料水なんて見た頃がない。牛乳も、醤油も、ココナッツオイルだって、いったいこのデシリットルというやつは何者なんだ。

「えー本当に知らないの？　大人なのに」

「大人だって知らないものはたくさんあるんだよ」

　と、ふにゃふにゃと答えて置いたけど、ぼくは本当に知らなかった。……デシリットル。さっきググって本当にあるんだと確認までしたもん。
　娘は小二だ。もしかしたら、今の世代の子しか知らないのかもしれない。一応彼女にも聞いてみる。

「ねえ、デシリットルって知ってる？」

「うん、普通に習ったけど……」

　ちなみに彼女はぼくより年上だ。これで年代別の疑いは消えた。残るはただ一つ。地域性だ。

「きっとあれじゃないかな？　それは大阪だから習ったんだよ。ほら、大阪は商人の町で計算にはうるさいから、細かい単位まで覚えるような教育を昔からの習わしでしていたんだよ」

　ちなみにぼくは島根県なので、商人は関係ない。だからデシリットルとは無縁なのだ。

　と、そんな言い訳をしながら過去を思いだそうと脳みそをブーンと動かしてみると、確かにどこかで聞いたことがある気がする。
　いやでもここにきて習ったことがあるけど忘れちゃいましたテヘペロだと恰好がつかない。

　そうか、だからぼくは忘れたのか。

　人は知識を覚えて、そして忘れる。
　その過程には取捨選択があり、そして忘れた方が幸せになるから忘れていくのだと思うのだが、きっと人類を進化させてきた感情の上に熟成する科学も同じようなものなのだろう。

　デシリットルという単位を作ったのはいいものの、きちんと義務教育を終えた人間の記憶からは完全に消え失せている。

　はさみとなんたらは使いよう。

　知識も科学も、きっと同じなのだ。
　使い方。
　ぼくは明日からデシリットルを使ってみようと思っている。

　ペットボトルは5デシリットル。
　醤油は9デシリットル。
　ココナッツオイルは3.45デシリットル。

　いわば科学は忘却の学問なのだ。

☆

今日はきみと市役所を回って一緒に引っ越しの手続きをした。
これでぼくもついに奈良県民だ。
バイバイ、大阪。

ぼくは今ものすごく幸せだ。

きっとどこに行こうが、どんなことろに住もうが、きみと一緒ならきっと楽しい。
きみに出会えて本当によかったよ。
これからもよろしくね。
心から愛してるよ。

PS,
今日は手続きがうまくできなくて少しイライラしてごめんね！でもきみが気を遣ってくれたおかげですぐにまた楽しい気分になれたよ！本当にありがとう！！
またラーメン食べに行こうね！

☆

初めての人生でいったい今までにどれほどの知識を習って、そして忘れてきたのだろうか。

もしも何一つ忘れずにいるとしたら、それは果たして天才なのだろうか、幸せなのだろうか。

案外、忘れるというのも、一つの才能かもしれない。

そんなことを思いながら、

眠りにつくときに、

今日起きた嫌なことを全部忘れてしまえるのは、

ぼくのささやかな自慢です。

今日もありがとう。

今年も、残り115日。

またね。

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