見出し画像

アラサーになった今こそ、ノスタルジーを活力に:映画『劇場版 美少女戦士セーラームーン Eternal〈前編〉』

わたしの夢は?わたしの本当にやりたいことって?

そんなことで未だに悩みに悩み抜いている、28歳どっぷりアラサーの唯です。

たかがそんなこと、されどそんなこと。私の周りを見回してみても、自身のキャリアやら今後の人生設計やらの方向性が見出せず、ぶれぶれの人生を送って来てしまった、という人間は実に多い。

かつて、男尊女卑も甚だしい社会で、女性の権利を手にすべく立ち上がった女性達は、高い志と勇敢さを持って、この社会を十歩も百歩も前進させる、すんばらしいことをして下さった。私がこうして言論の自由の下に自身の心の内を公表出来るのも、先達の功績の賜物である。ありがたや。

だけれど、自由になったことの見返りとして、私達は、自由であるが故の不自由を手渡されてしまった気もする。

人々の生き方が画一的で枠にはめられていた時代、自身の生き方なるものに思い悩む人間は、ごく少数だったのではないだろうか(無論、選択の余地が無かったというだけなのだが)。それはそれで、幸せな時代だったのかもしれない。

たとえば、30年前の1990年代初頭といえば、平成という時代が幕を開けたばかりの頃。

2020年代・令和の現代に比べたら、女性はもっと不自由であったはずだし、生き方も働き方も、ここまで多様化が進んではいなかったはずだ。

でも、きっと、今の大人よりずうっと大人びていた。

女性の就業率は格段に上昇し、経済力を身に付けた女性が増えたからこそ、晩婚化が進んでいる。平均結婚年齢を見てみると、女性の結婚平均年齢は、この30年間で25.5歳(1990年)から29.4歳(2019年)へ、男性の結婚平均年齢は28.4歳(1990年)から31.1歳へ、それぞれ推移している。

結婚や出産へのプレッシャーは薄くなり、趣味嗜好を追求する人間に対して寛容になり、いわゆる「大人」としてのロールモデルは、脆弱性を帯びる様になったと言えるかもしれない。

と、ここまで現代日本社会の抱える病理の様に綴ってしまったけれど、うん、これ、私の個人的な問題である様な気もする。だって、結婚していようがしてなかろうが、ちゃんと自立している20代も多数いらっしゃるものね。

そんな取り留めもないことを考えているのは、先日『劇場版 美少女戦士セーラームーンEternal〈前編〉』を鑑賞して来たからだ。

あの、セーラームーンである。

1991年から1997年に少女漫画雑誌「なかよし」で連載され、92年から97年までアニメ放映された、皆さんご存知セーラームーン。惑星の名前とその英語名をセーラームーンで覚えた人間は、もれなく20代後半から30代のセーラムーン世代だろう。

鳥肌ものの懐かしさがDNAに訴えかけて来る

画像1

アニメ版が放映され始めた年の12月、私は生まれた。だから、アニメの放映を最初から見ていたわけではないけれど、4歳離れた兄と2歳上の姉がいるため、録画(VHS!)と併せて、リアルタイムでセーラームーンを見ていた。

幼少期のアルバムには、上半身裸の祖父がセーラームーンの頭飾り(うさぎのお団子ヘアを黄色のすずらんテープで模したもの)を着装し、そんな祖父に抱かれる私、という謎の構図(普通は逆でしょ)の写真があるし、セーラー戦士が使う武器のおもちゃで、姉妹でセーラームーンごっこをして遊んでいた記憶は今も残っている。

あれから四半世紀。

我が家にあったおもちゃは何という武器だったか調べてみようと思って検索したら、わんさか出て来る、セーラームーングッズの数々。

原作の連載及びアニメの放映が終了してから24年が経過するというのに、そのブランクを感じさせない程のグッズ展開。しかも、当時はそれこそ子供向けのおもちゃの類しかなかっただろうが、現在に至っては、Samantha Thavasaとコラボした財布やバッグやら、PEACH JOHNとコラボしたランジェリーやら、セーラームーンはすっかり大人向けのコンテンツと化していた(バファリンルナの広告にもセーラームーンが起用されている)。

大人向け、というよりかは、セーラームーンで育った世代向け、ということである。

そうだ。私達は、セーラームーンに育てられたのだ。

当時は、平成という時代が始まったばかりで、それまでの、つまり昭和のアニメと言えば、もれなく男子が戦っていた。スーパー戦隊然り、仮面ライダー然り。

そこへ突如舞い降りたセーラームーン。

男性キャラのまもちゃん(地場衛/タキシード仮面)はしょっちゅう敵に標的にされて病んでしまうヒロインポジションであり、月に代わってお仕置きするのはセーラー戦士の女子達だ。

愛と正義のもとに戦う女子達を、憧れと羨望の眼差しで見ていた視聴者が、あの時どれだけ日本に溢れていただろう。私は、まこちゃん(木野まこと/セーラージュピター)やみなちゃん(愛野美奈子/セーラーヴィーナス)になりたくて仕方がなかった。強く逞しく自立した女性像の先駆けが、私達のセーラームーンだった。

昔やっていたアニメやドラマを復刻させる時、その後日譚をストーリーとする手法は多く見られるし、そういう二次創作も決して嫌いではない。だが、今回の劇場版は、原作の一部を再びアニメ化したものであって、キャラクターの年齢を引き上げたり、現代の設定に置き換えたり、といった変更は見られない。

現代に合わせてアップデートをしていないからこそ、当時を思い出し、その懐かしさに身を浸すことが叶うわけで。セーラームーンは、平成を象徴するアイテムであると同時に、今やすっかりノスタルジーなアニメでもある。

未だに「ムーンライト伝説」(初代OPテーマ曲)はカラオケの鉄板ソングだし、あのイントロを聴くだけでゾクッと粟立つ。こうした、鳥肌を立たせるまでに私を刺激する奇跡的な傑作を「DNAに訴えかけて来る」作品、と勝手に形容している。セーラームーンのあれこれもまた、私のDNAに訴えかけて来るのだ。

音楽にしてもそうだし、今回久々に本編の内容を観てみたら、変身シーンでいちいち鳥肌が立っていた。「Eternal」では、セーラー戦士一人一人が順番に変身するので、計5回、私の肌をチキンにしてくれた、というわけ。

セーラームーンの遺伝子は、恐らく私の中に組み込まれてしまっていて、だから25年の時が経過した今でも、自身の身体と呼応しているのだろうなあ(PEACH JOHNのコラボ下着は買いたい)。

「自分の幸せとは?自らの夢とは?」と問いかけるのは、何歳まで許されるのか

画像2

愛と正義のセーラー戦士は、地球の(というか宇宙の)未来を背負って命懸けで闘っているわけだけれど、変身を解いた本当の姿は、まだあどけない高校1年生の16歳。

この16歳がね、「このまま戦士として戦い続けることが自分の幸せなのか、戦士としての使命は本当に自らの夢なのか」と悩むわけですよ。そりゃあ悩むよね、16歳だもん。

他にもやりたいことがある。まだまだ挑戦したいことや叶えたい目標もある。たくさん恋もしたいし、友達といっぱい遊んでいたい。いつまでも子供でいたいし、早く大人にもなりたい。

夢を一つに絞るのではなく、あらゆる選択肢の中から「あれも良いな。これも良いな」と、まだまだ彷徨って良い年頃のはずの彼女達。

それでも、我々凡人は、世界平和のために戦ってくれるヒーロー達に、至極勝手に地球の未来を背負わせている。あまりにも身勝手な期待をしている。

彼らは、人々に求められること、その期待に応えるために自らの命を危険に晒して戦いに臨むことを、無条件に、且つ、ごく自然に受け容れてしまっている。

ヒーローとは、自己犠牲の上にしか成り立ち得ないもの、なのだ。

そんなことにまで想像を働かせない人間が大半であると思うし、いや、もしかしたら、その自己犠牲の精神に美しさを覚えてしまっている、という節もあるかもしれない。

でも、彼女達は、まだ女子高生。たった16歳。皆の憧れのセーラー戦士だけれど、よくよく考えれば苛酷な運命だよなあ、と。

当時はそんなことに1mmも想いを馳せることなく呑気に見ていた幼稚園児達も、今やアラサーのお年頃。

もし、セーラー戦士達が今の私と同じ歳だったら。28歳になっても、果たして、悠長にセーラー戦士を続けられるだろうか。

今、巷にはアラサーこじらせ女子の等身大ドラマが溢れている。30歳を一つの節目として人生を見つめ直す傾向は、やはり多くの人間に見られる様なので、私もそれですっかり安心しきっている一人。

でも、私達にはリミットがある。言うまでもなく、子供を産む年齢には限界がある。女なら逃れられない宿命だ。

だけれど、私達は30を迎えても、まだ自分の道程を見極められないでいる。30年前、セーラー戦士は16歳にして自身の夢について、現実的に頭を抱えていたわけだけれど、結婚の高年齢化と共に、やりたいことを見定める年齢も上がりつつあるのかもしれない(やっぱり、セーラー戦士達の方がずうっと大人だ)。

だからこそ、かつてセーラー戦士に夢中になったアラサーこじらせ女子達にこそ、見て欲しいと考えて作られている様な、そんな気がした。なかなかにぐさぐさ突き刺して来るんだよ、うむ。

当時から大人向けだったセーラームーン

画像3

そもそも、このセーラームーンって、今改めて見返すと、突っ込みどころ満載のアダルティーアニメなのです。

中学生のうさぎが大学生の衛と付き合っている点からして、現在の放送倫理に引っ掛かりそうだし、その衛を未来の娘・ちびうさと取り合うという深夜アニメ的萌え展開だし、まこちゃんは両親がいなくて高1にして一人暮らし歴が長いし、亜美ちゃんのママは男と浮気してるし(これは敵が作り出した幻覚なのだけれど)と、今だと放映が実現出来なさそうな、なかなかに攻めたストーリー展開。

数年前にアニメ版を一部見返した時に印象強かったのは、男好きの美奈子が複数の男とデートをするという話。同じ日に3人の男性とデートの約束を入れてしまい(トリプルブッキング)、どれか断れば良いものの、全て遂行しようと画策するみなちゃん。一人の男とお茶をしては「ちょっとトイレ!」と次の男の元へダッシュし、その男と映画を見ては「電話掛かって来た!」と第三の男の元へ、という無限ループを繰り返す。そんな、体力と度胸とが強いられるデートプランを強行突破するという鬼畜なストーリー。おいおい、と突っ込みながら、それでも楽しく眺めたものです。

劇場版を観たら昔のアニメ版も見返したくなってしまった。Amazonプライムに全篇アップされているという事実を把握したので、当時の何でもアリな大らかな展開に茶々を入れながら、一人ノスタルジーに浸ろうかしら(沼にハマりそうで怖くもある)。

敵とは、自らが作り出したもの

画像4

セーラームーンの敵キャラって、人間の夢やそれに対する迷いを食い物にしてエネルギーに換えている、という設定だった気がするのだけれど。

要するに、敵=自分自身が作り出したもの、というロジックがあるのだ。

幼稚園児の当時は、そんなことにまで気が付かずに楽しんでいたけれど、「一番の敵は自分の弱さだ」ということを懸命に私達に投げ掛け続けてくれていたみたい。

それは同時に、夢を持つことの尊さを叫ぶ営みでもあったはず。

大人になるにつれ、人は夢を手放してしまう。それは、現実の厳しさを知るからでもあるけれど、同時に、優しさを手にして行くからでもあると思う。

若い時は、自分本位に突っ走ることが出来る。周りを見ず、向こう見ずで突き進める。でも、大切なものを手にすると、守るべき存在が出来ると、人は簡単には攻められなくなる。他者と共存して生きている、生かされていることを知るからこそ、周囲に優しくせねばと心に律する。

まあ、大切な人を守るために戦う、というのも、夢の本質であるとも思うけどね。

今のままの、揺らぎっぱなしのひ弱な夢想だと、敵にやられてしまいそうなので、私もセーラー戦士の如く、夢を使命に換えてタフになりたいものです。

そうだ。私達は、いつだって、いつまでだって、セーラー戦士に変身できる。アラサーだろうが、こじらせていようが、関係ない。

さあ、本当の夢を思い出して。夢はきっと、Eternal(永久不滅)なのだから。

ちなみに、28歳になった私は、セーラーマーキュリーの水野亜美ちゃんに惹かれたので(これも新たな発見!)、彼女と同じく知の戦士としての使命を見出すべく尽力しようと思います(六星占術的には土星人のわたし)。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?