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父子の姿にむせび泣く ~ポケモンから教わる親子と社会の在り方~

1998年4月16日

この日が一体何の日かお分かりだろうか。

1998年4月16日、私が生まれて初めて、他人事に感情移入して涙を流した日である(たぶん)。分かるわけがない問いを吹っかけてすみません。

この日、当時5歳の私が何で涙したかというと、ポケットモンスター縮めてポケモン、のアニメ第39話「ピカチュウのもり」で、だ。

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ポケモンマスターを目指す少年サトシとその相棒ピカチュウ。ある日、大勢のピカチュウが手を取り合って暮らすピカチュウの群れと出逢う。そこで仲間達と生き生きと過ごすピカチュウを見て、サトシはピカチュウを野生に返そうとする。だが、ピカチュウはサトシと旅を続ける道を選び、再び1人と1匹は旅に出る、という話。

ピカチュウの群れは、毎年みなとみらいを練り歩く「ピカチュウ大量発生チュウ!」をイメージして貰えれば分りやすいかもしれない。

サトシがピカチュウを群れに放すのは、「俺と一緒に旅をするよりも、ここに残った方がいい。その方が、あいつにとって幸せなんだよ。」という理由から。ピカチュウを置き去りにして何も言わず森を去るサトシ。涙をつーっと横に流しながら、決して後ろを振り返らず、俯きながら駆けるサトシ。

ピカチュウのことが大好きだもんね。でも、だから、ピカチュウを森に置いて来るんだもんね。いやあー、これは、5歳でも泣きますよ。

サトシは弱冠10歳の少年にも関わらず、とっても大人で、決して利己的じゃない。ピカチュウ本位で考えて、ピカチュウの幸せを思ってさよならを決意する。人格者が過ぎるだろう。そもそも、10歳で親元を離れて寝袋を背負ってのノマド生活を続けている訳だから、そりゃあ逞しくなるよなあと。

とは言え、大人になろうが、幾ら歳を重ねようが、相手の真の幸せを願って行動に移せる人間の方がきっと少数派。私だったら絶対に、ピカチュウに依存してしまうわ。どんだけイケメンなんだ、サトシ。

ちなみに、その次に私が泣いたのは同年7月公開の『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』である。またもやポケモン。ポケモン恐るべし。

我々アラサー世代にとっては、子ども時代を振り返ればそこにはいつもポケモンが居る訳で、ポケモンと切り離しての成長など考えられないのである。

「ピカチュウのもり」で泣きに泣いてから早22年。今度もポケモンでむせび泣いた。2020年12月25日公開の『劇場版ポケットモンスター ココ』のせいだ。

人里から遠く離れたジャングルの奥地。厳しい掟で守られたポケモンたちの楽園、オコヤの森があった。そこで仲間たちと暮らしていた頑固者のザルードは、ある日、川辺で人間の赤ん坊を見つける。
「ニンゲン、これが……」
見捨てられないザルードは、森の掟に反して、赤ん坊をココと名付け、群れを離れてふたりで暮らすことを決意する。

ポケモンが人間を育てる生活が始まって10年。ココはオコヤの森にやってきたサトシとピカチュウに出会う。初めてできた「ニンゲンの友達」。自分のことをポケモンだと信じて疑わなかったココの胸の中に、少しずつ疑問が芽生え始める。
「父ちゃん、オレはニンゲンなの?」
自分はポケモンなのか? それとも人間なのか?悩むココだったが、ある日、招かれざる人間の足音が森に近づいてきて、平穏な日々が一変する――。

親としての役割・親子の繋がりを考える。

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あらすじを読んで、ディズニー映画『ターザン』を思い浮かべた人も多いのではないか。ターザンでは、ゴリラが人間の子どもをジャングルで育てるが、『ココ』では、ポケモンが人間の子どもを育てる。

作品の冒頭で、父ちゃんザルードの子育てとココの成長が、音楽に載せてハイライト的に提示される。右も左も分からない状態から手探りで子育てに奮闘するザルードが愛おしく、無邪気に健やかに育つココがいじらしい。

近年しばしば見られる、このMV風の演出。長い時間軸を数分に凝縮して提示してしまう走馬灯の如き手法は、秒速5センチメートルでもトイストーリー3でもラ・ラ・ランドでも見られたが、これはずるいよね。思いっ切り泣かせに来るもん。5歳の私が見ても、きっと泣いたことだろう。

血の繋がりがあろうがなかろうが、そこに流れる全てが本当じゃなかろうが、彼らには十数年分の、確かな歴史がある。2人で紡いで来た時間があり、2人で築き上げて来た絆がある。

その子育ての過程や父と子の関係を見ていると、親とは、「親になる」ものではなく、「子どもが親にさせる」ものではないかと考えさせられる。

そうしてザルードは、この上なく素晴らしい考えを悟る。「親になるってことは、自分より大切なものが出来るってことだったんだ」と。

守りたいという気持ちは、こんなにも強い力を持つ。守るべきものの存在は、こんなにも人(ポケモン)を強くする。だから私も、いつか親になってみたいと願うのだ。

子育てに正解も不正解もないだろうが、自身が親になったら、これだけは忘れずにいたい。子どもが自立したいと願った時、旅に出ようと決めた時、涙を堪えて笑顔で、その背中を押してやりたい。それが真の愛情であり、親の務めであると思うから。

その方が、あいつにとって幸せなんだよ。

…って、これ、「ピカチュウのもり」でピカチュウを群れに放つサトシの台詞じゃん。親心というものを10歳にして心得ているサトシ、やはりさすがです。

共存共栄・多様性・協働を謳う、令和のポケモンの姿

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ポケモンと共に育った私だが、生まれてから四半世紀が経過した頃、一つの考えに至る。「ポケモンって、酷いアニメじゃない?」ということに。

何故なら、ポケモントレーナーである人間は、野生に生きるポケモンを本人の許可なく捕らえ、スパルタでしごき上げ、実戦に於いて自分は一つも傷を負わず、ポケモンに代理として戦闘させるなんて、なんて非人道的な、ポケモン虐待も甚だしいではないか、と気が付いたのだ。

でも、今回の劇場版では、人間とポケモン、それよりもっと広い範囲での、あらゆる生命体の共生・協働がテーマとなっている。

ポケモンと一口に言っても、その生息方法は多岐に亘る。人間に飼われる形のポケモンも居れば、自活しながら人間社会で生きるポケモンも居るし、人間とは離れた場所で生きるポケモンの中でも、同じ種類のポケモン同士で群れを成し縄張り意識や敵対心の強いポケモンも居る。

父ちゃんザルードは、ザルードの群れから抜けて人間の子どもを育てた異端の存在だし、ココは人間でありながらポケモンに育てられた特殊な生い立ち。

自分とは異なる存在は、誰にとっても怖い。だから、違うものを排除する。自分を守るために。

だけれど、この地球は自分だけで成り立っているわけじゃない。誰もが森羅万象の一部であり、自分が思う以上にずっとささやかな存在のはず。星の数ほどの動物達による生態系があって、更に豊かな自然があって、その中で私達が生かされている様に、ポケモンが居る世界では、あらゆるポケモンが居てこそ、人間も生きることが出来るのだろう。

私達は、誰かを負かしたくて傷付けたくて闘うわけじゃない。本来の目的は、その本質を探れば、「より良い社会の実現」に行き着くのではなかろうか。

だから、その実現のために、手を取り合ってみたらどうだろう。異なるものを排除するのではなく、互いを認め合って尊重し合い、共に助け合えば、力を出し合えば、ずっとずっと大きな力を発揮出来るかもしれない。

思春期を迎え、自身のルーツとアイデンティティに悩むココ。ポケモンでもない、普通の人間とも違う。だが、ココはココだ。そして、ココにしか出来ないことがある。そのことをわかるために、私達は旅をする。

ポケモンがこの23年間訴え続けて来たことは、ポケモンを武器にして自己の力を顕示することではなく、バトルという衝突を通して誰もが笑って過ごせる世界の実現を、ということだったのかもしれない。

異なる存在も当たり前に受け容れる大らかさを持ったサトシ。やはりイケメンに違いない。

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ポケモンの主人公はサトシとピカチュウであるはずだが、今作での彼らは控え目。ココとザルードというゲストキャラクターに照準を合わせ、完全に彼らを主役に据えてしまった(パンフレットの表紙はココとザルードのアップのみで、サトシもピカチュウも映らない)。

23年も続くポケットモンスターという長寿アニメで、ここまで振り切った大胆なチャレンジをやってのけてしまう、その攻めの姿勢にも感激。ライオンキング・ターザン・アバター(・ちょっぴりコナン)の要素をそれぞれ取り入れながら良質な作品に仕上げている。

とにもかくにも、多数のポケモン映画の中でトップレベルの傑作なので、ぜひ観て頂きたいのだが、劇場に足を運びにくい昨今。せめて主題歌「ふしぎなふしぎな生きもの」(作詞作曲:岡崎体育/歌:トータス松本)だけでも聴いて欲しい。

そして、「ピカチュウのもり」も「ミュウツーの逆襲」もぜひチェックして頂きたい。

5歳の私よ、28歳になった今でも、君はポケモンで涙を流しているよ。

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