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瑠璃空に愛を。 ⑤

【癒空、21歳冬】

入院した頃から、半年以上が経った。季節は冬に入りかけていて、私はと言うと隔離部屋から個室に移った。
4人部屋には戻りたくない、それなら退院すると駄々をこねてみた私に主治医が、大人しく入院継続してくれるならという交換条件で、完全個室がある特別病棟に入れてくれた。

特別病棟には最大でも14人ほどしか入らない。病院というより最早ホテルと言った方が近いだろう、と4人部屋とは比べものにならない、与えられた広々とした部屋の窓から外を眺める。

双極性障害Ⅱ型。通称、躁鬱。これに加えて、幼少期からの虐待による複雑性PTSDと愛着障害。

それらが、「叶癒空」についた病名だった。

先生曰く私の気分の波は激しく、それ故に病院という閉鎖空間において分かりやすかったらしい。
静かに告げられた病名に、私はそうですか、と返しただけだった。
本当にそれだけだった。

「これから私は、どうすれば」

「まずは、今飲んでいる薬を最大量にまでします。それで抑えきれなかったら、他の薬を増やす、かな」

「私、は何をすれば..…いいの」

「叶さんは治療、よく頑張ってると思いますよ」

「そうじゃなくて、」

言い募る私に先生は困ったような顔で諭してくる。

「叶さん、あなたは聡明な人だと僕は思っています。だから物事の理解が早く、自分が今何をすべきか考えて行動できる、しようとする」

けれども、と彼は言う。

「それが今のあなたには、負担になるんです。あなたの聡明さがあなたを焦らせて、結果弱っているあなたを苦しめている」

「そんなこと、」

「では、あなたのやりたい事をやってください」

否定する私に、先生が言葉を被せた。

「やりたい事、ですか」

「はい。出来る時に、無理せずにですが」

それが無いから、私は親の敷いたレールだけをただひたすら走ってきたのに。いや違う、幼い頃は確かにあったのかもしれない自我を、私が、親の圧力に負けて自ら捨てたから。

20年それを続けてきた私に、やりたい事など今更思いつかない。
けれど私はとりあえず頷いた。

「分かった」

先生も頷いた。

「ではまた来週ですね」

「はい」


診察後、私は部屋のベッドに寝転んでスマホを眺めた。
やりたい事。なんでも良いのだろうか。

やらなければいけない事ならいくらでもあったから、いつでもやる事に困らなかった。頑張れ、頑張れと自分を追い立てる理由にもなった。

けれども、ここでは誰もそうしろとは強要しないし、どちらかと言うとそれをやんわり止めてくれる。
やりたい事をやりたい時に、なんてとても贅沢でそしてとても難しい。

入院中、普通の人は何をするんだろう。とりあえずと音楽を聴きながら検索をかけると、いつもながら色々出てきた。

「音楽を聴く、はやってるし.…動画も観るけど、あんまり生産的ではないと言うか...…いやでも、やりたい事だから別に生産的でなくてもいいのかな..…」

目に入ってくるのはどれもこれも意味のない、将来に繋がらない娯楽でしかないもので、私は余計に頭を悩ませた。

「折り紙か......…、わ、今こんな綺麗な折り紙とか売ってるんだ.…」

一面、大きな薔薇に金箔が施されたものや、星空や夕焼けが美しく描かれたもの。
薔薇は私の好きな花だ。中でも青薔薇が。

青薔薇は自然界には存在しない。バイオテクノロジーで、研究は進んでいるらしいが完全な青薔薇にまでは至っていない。
存在しないものに憧れ、手を伸ばすのは人間の性だ。研究途中の青薔薇の写真は、青薔薇というより薄紫寄りの青で、尊くブルーローズとは到底呼べなかった。
自然界の他の鮮やかで大胆な赤や紫、ピンクの薔薇を見れば青薔薇もきっと、深い瑠璃色のような色合いのものになるはずだ。

青色はいつも清々しく、母親への愛情が入り混じったが故の複雑な憎しみで燃え上がる私の心臓を、少しだけ浄化した。
それで、私はいつもなんとか堪えた。堪えてきた。

ふ、と先生の顔が浮かんだ。あの人は青がとても似合う人だ。理性的で、頭が良く、常に冷静沈着。

あげようか、青薔薇。あなたらしい、と意味を込めて。そして、たまに診察ではない時も私を思い出して欲しい。

そんな邪な願望が、私を折り紙へと足を踏み出させた。


ーーーーーーー

私は多分、先生の事が好きだ。

折り紙で薔薇を作る動画を観ながら手を動かす。

どんなに許せない、と思う事があっても嫌いにはなれないし、彼の控えめな笑顔を見ると心があたたかくなる。幸せでいて欲しいと思うし、一緒にいると心が安らぐ。

互いに一緒にいる時間は愛する家族とリビングに居るような雰囲気がある事を、彼も感じ取ってくれているだろうか。
対人関係が不器用で鈍感で、だけれど真っ直ぐに誰とも向き合うその姿勢は、人の信用を勝ち取る。

気づいたら、診察室で彼を目で追うようになった。カルテを淀みなく打つ指先が意外に丸いのも、男性にしては小柄で足のサイズも小さめなのも。でもケーシーから覗く腕には、男性らしい筋が綺麗に浮かんでいるのも。

全部飽きるほど見てきて、けれど何度目にしても飽きない。

何かの話の拍子に、彼は未婚だと知った。他人と一線を置く癖があるように見える彼にとって、他人と暮らすというのは苦痛なのかもしれない。例えそれが、愛する人であっても。

哀しい、とは思わない。それは彼の自由だから。でも寂しいとは思う。だって私が彼に愛していると言っても、きっとその先はない。嫌われてはいないと思うけれど、彼の不可侵の領域に入れてもらえるほどの人に私はなれているのだろうか。

「あ、間違えた...…」

折り目をつける順番を間違えて、はぁとため息をついた。彼の事で気もそぞろだからいけないのだ。
彼は主治医で私は患者だ。そもそもあるとして、そのスタートラインが他のカップルとは異なる。患者と結婚する事がタブーではないらしいが、それでも少数派だろうとは想像が容易につく。
精神科であれば尚更、後ろ指を刺される事も。

そんなリスクを冒してまで、彼が私を選ぶ人ではないのは百も承知だ。その上で、愛している。誰より、家族より、泉さんより。時折、自分よりも。

好き、は簡単だ。自由に身勝手に好意をぶつければいい。愛はそうはいかない。
相手の事をより想うからこそ、時には想いを秘めたまま静かに愛し続ける事が必要な時だってある。事実先生の為にならないと思うから、私は自分の気持ちを黙っている。
愛する事を知った人は綺麗なままではいられない。他人同士、分かり合えない部分で反発して、時に相手を見失って愛するのが辛くて捨てたくて、でもどうしても振り切れない。
楽しいだけで終わる、恋とは異質だ。どちらが良いとかではなく、向いている向いていないがある気がする。

私は恋には向かない、と思う。好き、は簡単に終わりを迎えるから寂しい。好き、では私の想いは留まってくれない。要はいちいち相手に抱く気持ちが重いのだ。
愛、と言う言葉にならその重みを託せる。

最も、私は誰も好きになった事はないが、と新しい折り紙を袋から引っ張り出しつつ昔を思い出した。

覚えている限り、告白されたのは小中高合わせてたったの3回かそこらだ。
小学生の頃は、たかがお子様の言う事だからと本気にもしなかった。笑顔でありがとう、と返してそれからもいつも通り仲良くし続けた。

中学生にもなると、好き、の本気度が多少上がるのは分かる。けれどそれでも、所詮中学生だ。相手が自分に好意を抱いている事に私はなんとなく気づいていた。その上で知らないふりをして、仲良くしていた。好き、と言われても私には応えられないし、彼と同じように相手に好きだと応える術を持たない。好きだとメールで伝えられた時、私はかねてから決めていた返信を送った。いつかは来ると思っていたから、動揺はしなかった。罪悪感だけが、その後数ヶ月付き纏ったけれど、それも見て見ぬふりをした。

高校の時は、驚いた記憶がある。同年代ならまだしも、付き合って欲しいと言ったのは2個上の先輩だった。しかも卒業間近の1月。何も答えられずにいる私に、先輩はこれ、と何かを渡してきた。

「誕生日、元旦って聞いたから...…本当はもっと早く告白したかったんだけど、何かにかこつけないと俺、臆病だから....…」

「ど、うして私なんかを」

「丁寧だから」

「え?」

思わず聞き返した私に、先輩がふわ、と笑う。優しい、同年代の男の子達より少しだけ大人びた、けれどまだまだ無邪気な笑顔。

「本を本棚に返す時、きちんと元あった場所に綺麗に戻してた。プリントとかノートは、必ず相手の方向に揃えて渡してる」

「それ、だけでですか」

「それが出来る子ってなかなか見ないよ。少なくとも俺の目にはそう映ってる。それに....…、ありきたりだけど叶さんの控えめな笑顔が好きなんだ、俺」

笑顔が好き、は確かに定番だ。けれど、控えめな、と口にした彼には好感を持った。

だから頷いた。

「よろしくお願い、します」

「よ、かった...…俺の方こそ、よろしく。癒空さん、って呼んでもいい?」

「癒空、で良いですよ」

じゃあ癒空、と差し出された手を迷いなく取れたのは、何故だったろう。今となっては思い出せない。
ただ、彼には安心感があった。きっと離れていかない、私を捨てない。

私はまた、私自身の心の安寧の為に誰かを利用する。その罪悪感だけが、またチリ、と胸を刺した。

彼、優樹先輩とは私が大学進学してからも続いていた。私が無事医学部に進学したと告げると、彼は自分の事のように喜んで、まだ少ないだろう大学生のバイト料金で、夜景の綺麗なレストランに連れて行ってくれた。ドレスコードがいまいち分からなくて、2人で前々日から四苦八苦していた。

「頑張ったね、癒空」

お疲れ様、と乾杯する。2人ともノンアルコールだった。その日はそのホテルに泊まって、そして私は彼に抱かれた。
当たり前のようにツインだったベッドの壁側を私に明け渡してくれる彼に、途方もない愛しさを感じて、初めて私からキスをした。

目を丸くしていいの、と囁いた彼に頷いた。ゴム、買ってくると言った彼が電光石火のスピードで帰ってきたのには笑ってしまった。

「私、逃げないよ」

「そりゃ分かってるけど、気が変わってたらちょっとショックだから..…」

しょぼん、とする彼の手を引いてベッドに傾れ込んだ。何度もキスを交わしながら、彼の手が私の服を脱がせる。

「愛してる、癒空..…」

私も、と答えた。愛してる。愛してるよ、優樹。異性としては必ずしも好きではないけれど、それを超えて人間として愛している。
だからこそ、愛されてみたかった。

そうして抱き合って、お互い裸のまま明け方を迎えた。

だから、やはり私は誰も好きになった事は、ない。


ーーーーーーーーー

優樹の事は確かに愛していた。今、先生に抱いているほどの激情はなかったけれど、寄せては返す波のような穏やかな彼と過ごした日々は今でも宝物だ。

だから願う。彼がどうか私の事を忘れていますように、と。
大学を中退すると決めた時から、急に連絡を絶った私をきっと彼は心配して、そして傷ついただろう。それを分かりつつ、それでも堕ちていく姿を見られたくなくて、自分のプライドを傷つけられたくなくて。自己保身の為に、私は人生で最初に私を愛してくれた人を自分の手で失った。


ーーーーーーーー

青薔薇を渡すと、先生は案の定、僕に?と不思議そうな顔をした。頷くと、ありがとう、と少し嬉しそうに見えたのは私の都合のいい願望だろう。

今日も先生のカルテを打つ手は真っ直ぐに、キーボードで文字を打ち込んでいく。私はそれを眺めるのが好きだ。

何故、こんな変な人を好きになったのだろう。優樹の方が確かに私を愛してくれていたのに、それなのに私の気持ちはどうしても先生を求めてしょうがない。

運命の人、というのはタイプでもないはずなのに好きになるらしい。どうしようもなく惹かれてしょうがなく、離れようとしても離れられない。

それなら、と思う。私の運命の相手は先生かもしれない、けれど逆は違う。先生にとって私は、ただの一患者で、多少人間として好ましく思っているぐらいのレベルだ。

私ばかりが好きで、私が勝手に愛しているだけだけれど、人間は我儘で欲深くて、だから愛してと叫びたくなる。
診察室で目を細めてこちらを見て笑う彼に触れられたい、と思うのは罪だろうか。思うだけなら許して欲しい。
先生を想うたび、私は自分の女性の性を突きつけられた。先生に抱かれたくて、その先で先生との子どもが欲しくて。ずっと望んでいた、あたたかな家族を作って。そうして陽だまりの下を、手を繋いで歩く。あなたと、我が子と歩きたい。

私を選んで。

いつまでも声にならない想いだけが、幾日とまた積もっていく。




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