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2つ目の自分(6)>生まれて二度目の道しるべ

2つ目の自分(4)>意識の回復の中で から、 続きます。



突然の、娘に降りかかった事故だ。

あれからどれほど、両親は淀んだ色のないの日々を過ごしただろう。


ICUの短い面会時間で彼らが会えたのは、

長い眠りから少しずつ、意識を覚醒させる、幼児のようなわたし。


主治医に宣告されたのは、高次脳機能障害という後遺症。

意識の低い娘と、聞いたこともない障害に、どれほど戸惑っただろう。


すぐに書籍を取り寄せたと聞く。

そしてリハビリの先生の真似をしながら、見よう見まねで、母と訓練した。


メモを持って、リハビリの先生に質問する母の姿。ぼやけた景色、ほどんど当時のことを覚えていない中で、やけにそれだけは記憶に残っている。



父はたくさんの人の話やインターネットをツテに、高次脳機能障害などの交通事故の後遺症に強い弁護士を探し、

また権威のある主治医のいる、転院先を見つけた。



地元に連れて帰るか、大学に戻すのがいいのか。

まだ医師でも知らないことの多かった、高次脳機能障害という後遺症。


唯一地元で扱っていた、広島県の先駆けとなるモデル事業の病院だって、実家の田舎から通うには難しい距離だ。




それなら、設備が整った病院のある、大阪で。

そして実家で親が常にフォローしてくれる生活よりも、脳にたくさんの刺激を与える一人暮らしを。

「大学に戻る」という選択をした。


心配する両親を思うと、すぐ連れて帰りたかっただろうに。

最後の日は看護婦さんから、「生活の全てがリハビリだから」とエールを受け取る。




少しずつ、少しずつ。





母は大阪に残り、まずは二人での生活が始まった。

駅までの道、電車の乗り方だって、もう一度確認し、初めは一駅先の友達の家を訪れることからだった。

初めて駅までの道を、一人歩くとき、心配で後ろをつけていたこと、実は知ってたよ。



大学はそこから、バスに乗り換えて向かう。

数日の間は、母とランチを食べること、

その後は1時間だけ授業に出ること、

教授の理解も得て、少しずつ慣らしながら、大学へ戻った。


幼い赤ちゃんからリハビリしてきたわたしは、それから急激な成長を見せた。

両親から、生まれて二度目の道しるべを得て、わたしはわたしを、もう一度生きている。



15年後の今は、海外で生活している、わたしの姿がある。この成長が、その惜しみない愛を、十分証明できるだろう。




ここまで読んでくださり、ありがとうございました☺︎

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二十歳意識不明、高次脳機能障害。

赤ちゃんから成長し直し。大学を卒業して、デンマーク留学、日本巡回写真展、アートセラピスト、6年間の遠距離恋愛の後渡米、国際結婚、100/8000人でサンフランシスコ一等地アパートご褒美の当選

泥臭くクリエイティブに生きるストーリー

続きます。



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