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短編小説【アカエイのたたり】

《あらすじ》

北の太平洋に面した川瀬という街を訪れた男は、アカエイを祭る神社に興味を持った。川瀬では、アカエイを神の使いとしていたが、空梅雨になると多く発生してしまい、川瀬の人々を困らせていた。男は、神の使いであるアカエイの尾を切ってしまうが…

     
       『アカエイのたたり』

 あの年は空梅雨で始まった。と言っても、晴れることはなかった。
 雨が降らずとも、曇天の日が多く、時おり吹く冷涼な湿った北東の風にさらされると、雨が降ったかのように湿度が高くなる。その風は、やませと呼ばれ、冷害をもたらす風であった。降水量が少なくても、体感的には梅雨のような天候が続いた。
 それでも川瀬に住む人、川瀬は北の太平洋に面した漁師町であり、川瀬の人は雨が降らなかったことを恐れた。空梅雨になるとアカエイがやってくると。

 アカエイは尾に毒針がある。漁の網にかかれば、注意深く対処せねばならず、余計に手間がかかった。網を破ったり、特産品のアサリを食い荒らす被害もあり、本音を言えば、邪魔者だった。
 しかし、無下にはできなかった。川瀬では、アカエイを神の使いとして祭っていたからだ。どうして神の使いになったか、詳しいことは誰一人わからなかった。

 アカエイを食していた時代に、アカエイを断つ、すなわち断食すれば願いが叶うと言われていた。それだけ豊富に取ることができたのだろう。川瀬がやませに見舞われ農作物に被害があっても、食料に困ったという記録は残っていない。おそらくアカエイを食べてやり過ごしたのだ。
 川瀬の人を生かしたのがアカエイだから、やがて神の使いとして祭られたのかもしれない。それが空梅雨になると大量にやってくるから、頭の痛いことであった。
 神の使いをぞんざいにはできない。信仰を簡単に捨てることなど、到底できないはずだった。

 夏至を過ぎたころ、日の入りまでの時間はまだあったが、厚い雲に覆われた山背浜は、昼間の装いではなかった。
 山背浜は、川瀬にある白砂青松の浜で、山の背と書くが、山はどこにも見当たらなかった。小さな砂丘、と言ってもすぐに超えられるような小高い丘を背にしているだけで、遠望でも山はなかった。

 山背浜に一つの人影があった。立ち止まって海を眺めている男がいる。男は旅行者だった。男は、アカエイを断てば願いが叶うという山背神社に興味を持ち、それを目指して浜を歩いていた。
 さらさらと流れるような白い砂があるはずなのに、湿気を含んで、空の灰色をそのまま映したかのような砂が男の足にまとわりついた。海岸線が数キロにわたって続き、先は太陽光が少ないせいか、かすんで男の目には見えなかった。
 歩いても歩いても、どこまでも砂浜が続いていそうな浜だった。

 沖に浮かぶイカ釣り漁船とおぼしき数隻の船が、明かりを灯して作業をしている。ゆらゆらと光が揺れるのを見て、昼イカ漁を知らなかった男は、本当はもう夜なのではないかと考えた。
 やませが吹く浜では、半袖シャツ一枚では肌寒く、夏が到来する気配など一切なく、ただ陰湿な空気が漂い、男の身体を重たくさせた。冬の日本海を訪れたときも、似たような心持ちだったなと男は思っていた。

 沖合をウミネコが旋回している。男の視線が空に移ったわずかな間、砂浜に目を戻すと、男はアカエイを認めた。波が絶えず打ち寄せる砂浜にあらがうように、男と並行していた。
 砂地に隠れていたのだろうか。男は、アカエイの尾に毒針があることは知っていたが、砂浜で遭遇するのは案外だったから、一瞬、たじろいだ。それでも、アカエイを祭る山背神社に行く途中に遭遇するとは、自分は幸運なのかもしれないと男を勇気づけた。なにしろ、川瀬ではアカエイは神の使いなのだから。

 海は幾分青かった。だが、周りの暗い影を落として、海までもが灰色に染まっていくようだった。男は旅館の女将に「浜さ行けば近いべ」と言われたので、地図を見ることなく浜を歩いていることに、だんだんと恐れを抱いてきた。こんな場所でアカエイを見たのも、幸運なんかではない。一歩間違えたら刺されていたかもしれないのだから、恐ろしいものだ。そう思うようになってしまった。

 海に突き出たごく小さな半島のいただきにある社殿が男の視界に飛びこんできた。ほったて小屋のような粗末な造りであったが、人工物を目にできたから、男は胸をなでおろした。同時に、神様のいる場所を粗末だと思ったことも失礼だと思い、悔いた。
 波間では、浮きのような物体が見えたり、消えたりを繰り返しているのを、男は横目に見た。アカエイだ。泳いでいるのか、流されているのか見当はつかないが、数匹はいるだろう、それが男に狙いを定めているかのごとく、アカエイの尾がつりあがっている。「アカエイはおとなしい魚だべ」という旅館の女将の言葉はもはや頭になく、男は背筋が寒くなるのを覚えて、足早に神社へ急いだ。

 砂浜から陸に上がったせいか、男の足取りは軽かった。心持ちは波のように揺れていたが。神社のある半島はやませを遮るのだろう、男が鳥居をくぐるとぴたりと風はやんだ。
 男の目先にある数十段の階段の上には社殿が鎮座し、両脇に従えているのは、狛犬や狐ではなく、アカエイである。アカエイの尾はこんなにも反りあがっていたのかと思うほどに、男を威嚇するように突き出ていた。まるでサソリのようだと、男は思った。上空を旋回していたウミネコがぎゃあという鳴き声を吐き出した。

 階段を上りきると、男はようやく身体が温まるのを感じた。やはり半袖でよかったのだと、男は思い直した。頂上には社殿が一つあるだけで、天気のせいもあるのだろうか、うらさびしい空気だけが男の全身を覆った。崩れかけた屋根などを見ると、人から忘れさられているようだと思い、男はさびしさがこみあげてきた。
 朽ちかけた木の賽銭箱の奥には、巨大なアカエイが祭られていた。その大きさといったら、もはやエイではなくてマンタである。いささか誇張が過ぎるのではないかと男は思案していた。しばらくアカエイと相対していた男の背後に、忍びよる人影があった。
「あんた、何しに来たべさ」
 初老の男性であった。川瀬の人であろう。軽装の男とは違い、彼は防寒着をはおっていた。ここは神社なのだから、参拝以外の理由があるだろうかと、男は顔をしかめそうになったが、ぐっとこらえて、丁寧に答えた。彼の警戒心を解こうと、できるだけ穏やかに。
「旅行なんですけどね。アカエイが祭られているのが珍しいなと思って、参拝しに来たんです」
 まっとうな答えである。しかし、彼は顔をしかめた。男を毛嫌いするかのように。
「アカエイはいらね。漁で困るべ」
 男は虚をつかれた。アカエイを神の使いとして祭っている神社で、それを困っていると聞くのは意外だった。

 彼は見慣れない男を取り調べるかのように、男の全身をじろじろと見た。男はたまらなくなり、言葉を出した。
「浜にアカエイがたくさんいましたね」
 しばらくの沈黙があったのち、彼はわざとらしく息をついた。
「からっつゆになるど、わんさか出るんだ」
 止まっていたやませが、男の体をなでるように上がっていく。ひんやりとした空気が男の全身を包みこむと、曇天の空は、一層濃い灰色へと変わっていった。     

 こんな天気でも、雨が降らなければ空梅雨なのかと、空を仰ぎ見ながら男は思った。そんな男を彼は一瞥すると、話を続けた。
「アカエイを断づ。やませを断づ。アカエイを断てば、やませも断てるんだべ。しっかし、今はアカエイなんか食べね。断てねえから、やませも吹くわ、漁も困るわで大変だべ」
 一部が黒色に変わりつつある雲は、今にも雨が降りだしそうだが、一粒も雨は落ちてこない。やませが境内に侵入してきたようで、風のぶつかり合う音まで聞こえるようになった。
 アカエイを断てば、この重苦しい天気を断つことができるのだろうか。男は考えを巡らせた。
「どうして、アカエイを祭っているのでしょうか」
「そんなの知らん。よそ者にはわからんべ」
 彼はぶっきらぼうに言うと、すたすたと歩いて階段を下りていった。理不尽だなと思った男の口から乾いた笑いが漏れた。笑うしかなかった。
「アカエイを断てば願いが叶うとか、わいも分がらねのに」
 彼はぶつぶつと独り言を言いながら、消えていった。

 旅館に帰る道のりを、男はまた山背浜を歩くことにした。帰りは、砂浜を歩くことは避けようと男は思っていたが、アカエイのことが気になっていた。アカエイを断てば願いが叶う。この言葉が男の頭から離れなかった。
 頭の中の言葉に気を取られてしまい、男は砂浜のぬかるみに足がはまり、波ぎわまでよろけてしまった。運悪く、男の足先にアカエイがいた。打ち上げられたアカエイもまた、方向を失い、水を失った砂地で息も絶えだえになっていた。ぶにゅっと鈍い音が聞こえた瞬間、男は目の前が暗くなり、刺されるだろうと覚悟をした。
 もう避けようがなかった。アカエイの尾が男の体を目がけて、鞭のようにしなった。運は味方をした。踏みつけたであろうあとに、滑ったせいで、男が勢いよく倒れたおかげなのか、アカエイが案外に砂地にはまっていたのか、アカエイの尾は男まで届かなかった。

 男は砂にまみれて、浜を転がった。足をひねった痛みが、針を刺したような感覚だったからアカエイの毒針だと勘違いしたのか、男は痛さと恐怖で取り乱した。男が呼吸をすると、口から砂が入り、体は重く湿った砂に縛られているようで、もう毒が全身を回っているのだとおののいた。
 男は手をばたつかせていると、砂浜に落ちていた光る物を手にしていた。浜に流れ着いたのか、鋭利なガラス片だった。
 浜をはいつくばる男の視界にアカエイの尾が入った。アカエイの尾が旋回するように、男の右側から向かってきた。男は祈るようにガラス片を握って、もうだめだと思い、目をつぶった。またも運は味方をした。
 男は、足の痛み以外に何も変化が生じないのを不審がると、目を開いた。色を失った浜の景色でさえまぶしく感じると、アカエイの尾は切れていた。足をひねった痛みも一瞬で消し飛んだようで、男は立ち上がると、しばし浜に立ちつくしていた。

 男の人影に、息を切らした人影が重なった。山背神社にいた初老の男性、彼はすべてを見ていた。
 男もアカエイも砂地をはうようにしていたので、はっきりとは見えなかったが、男がアカエイの尾を切ったことを彼は確信した。それを見るやいなや、彼は浜を駆けた。砂地に足を取られながら。顔を真っ赤にしているが、日ごろの運動不足なのか、怒りによるものか、わからない。ただ、必死に呼吸を整えていた。
「あんた、なにしてんだべ。アカエイは神の使いなんだべ」
 荒くなった呼吸とともに言葉が吐きだされた。我に返った男は冷静だった。
「ちょっと待ってください。アカエイが私の身体を刺そうとしたんですよ」
「なに言ってんだ。アカエイはおとなしいべ。お前が悪さしたんだべ」
 男の反論する機会は与えられず、彼は
「たたりさ、おこるべ」
 と言って、立ち去ってしまった。なおも顔を真っ赤にして、砂浜をどすどす音を立てて丘の向こうに消えていった。

 男は、アカエイをあやめてしまったことは申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、どのみち砂浜に打ち上げられてしまったアカエイは、もう息絶える運命なのだと、自分を納得させていた。
 そういえば、男の地元では漁師がアカエイの尾を切ることを、アカエイを断つと言っていたことを思い出して、なんだアカエイを断ったから願いが叶うんじゃないかと、男はひどく興奮して、わきたつ高揚感に全身が包まれていた。
 男は、酒にでも酔ったかのような気分と足取りで、旅館に戻った。空は、もう一面真っ黒で、夜なのか昼なのか、見当がつかなかった。

 男は開き直っていた。神の使いが善良な市民を襲ったりするだろうか。男は自分が善良かどうか、もっと善良だと思われる人物はたくさんいると考えたが、少なくとも悪人では決してないと思った。もしたたりが起こるならば、あまりにも不条理ではないか。男は何度も悪くない、悪くないと念仏のように唱えて、自分を落ち着かせた。

 それでも、その夜は眠れなかった。窓を叩く風の音がこんこんと響くのは、自分を呼んでいるような気がして、男は震えあがった。壁のすきまから吹きこむやませが、ひんやりと足先をなでるように伝わると、悪寒がしてきたようで、押入れの中にあった毛布を引っ張りだしてきた。
 頭からアカエイのことが離れなくなってしまった男は、予定を切りあげ、明日帰ることにした。

 山背浜から、歩いて三十分ほどだろうか、川瀬の中心部に駅があった。
 男は一人で、ホームに立っていた。大きな荷物を手に持って、列車を待っている。駅舎に待合室はあったのだが、そそくさと出てきてしまった。天井に黒ずんだひし形のしみを見つけたからである。それがアカエイに見えたから、男の気を悪くした。
 なんのことはない、普通のしみである。たたりとか、そういう現象は信じていないと考えていたが、人に指摘されると思いのほか不安になり、たかだかしみ一つで、男は動揺するようになった。
 とんだ旅行になったなと、男は肩を落とした。男の感情を映したように、空は灰色で重たい雲を背負っていた。今にも落ちてきそうな雲である。何度も腕時計に目をやるが、時刻は一向に早く進まない。列車が遅れているのかと男は思ったが、定刻通りである。

 男は昨日のことを、少し前に起きたことのように錯覚していた。刺されそうになった瞬間は、自分の身を守るのに精一杯で、アカエイが神の使いなど忘れたわけではないが、思い至らなかった。考えれば考えるほど、悩みは深く、なっていくばかりである。

 ホームに列車がゆっくりと滑りこんだ。車内に人影は見当たらない。窓の外には、地上が押しつぶされそうなほどに、低い雲が垂れこめていた。男は座席に座ったが、車窓を見る余裕はなかった。暗色の空に列車が吸いこまれたあと、川瀬に雨が降りだした。男が川瀬を去ってからのことだった。

 山背浜で男がアカエイの尾を切ったという話は、すぐに広まった。目撃した初老の男性、彼が妻や旅館の女将に、はたまた町内会で話をしたら、狭い集落である。一日たてば、話を知らない人を探すほうが難しかった。
 川瀬に住む人は、はじめのうちは、男と同様にたたりを恐れた。自宅の神棚に祈る者、雨の中、傘も差さずに、どうか雨が続くようにと祈る者、男は外部の人間だから、よそ者がしたことは関係ないと強がる者、彼は山背神社に、久しく通っていなかったが、アカエイに許しをこいた。
 アカエイを断てば願いが叶うと書かれたお札を、彼はまじまじと眺めていたら、「なんだべ」と思わず声が出てしまった。許しに参ったのに、アカエイを断てと言われても、現にアカエイを断っているのにどうすればいいのかと彼は困惑した。

 それでも雨は、空から落ちた。黒雲から雨粒が落ちることは、何ら不思議なことではない。しかし川瀬の人は驚いた。空梅雨ではなくなったことに。あの男が不始末をしでかしたのに、雨が降ったことに。梅雨前線が北上し、オホーツク海高気圧を押し上げたことで、やませがやんだことに。邪魔者だった、いや神の使いのアカエイがいなくなったことに。それらはすべて、すぐにそう思ったわけではない。
 川瀬の人も、雨などすぐにやんで、また空梅雨になり、やませも吹いて、アカエイがわいてくると考えていた。しかし、そうにはならなかった。

 川瀬の漁港には魚とともに、何匹かのアカエイも水揚げされた。網を破り、アサリを食い散らかした犯人である。いつもならば、神の使いだから丁重に、と言ってもそのまま隅に置かれた専用の箱に入れられ、時間が来れば業者が回収するだけだったが、今日は少しだけ違ったことが起きた。

 初老の男性、彼が漁港に入ると、脇目もふらずに、アカエイがいるところに向かった。右手に持っていたのは、ナイフである。よくといだのだろう。つややかに光っている。水揚げされたアカエイと彼が向きあうと、アカエイの尾を迷うことなく切った。
「タケさん、何してるべ。血迷ったべが」
 年長の漁師が青ざめた顔をして声をあげたが、彼は耳を貸すことなく、ナイフを固く握り、拳を勢いよく振りかざした。
「アカエイを断てばいいんだべ。わいがアカエイを断つべ」
 漁師たちは、皆棒立ちしていた。黙って、彼がアカエイの尾を切っているところを、見守るしかなかった。彼は手際よくアカエイの尾を切ると、専用の箱に投げいれた。

 しとしと降る雨が漁港の屋根に落ちていたが、音もしないので、降っているのかやんでいるのか誰にもわからなかった。彼以外、皆、こうべを垂れていたから、外の様子はわからなかった。
 川瀬には日常が戻っていた。梅雨が来て、やませは吹かず、アカエイも来なかった。だから、網を破られることも、アサリを食われる被害もなかった。たたりは、起こらなかった。

 真夏の太陽がじりじりと路面を焦がすほど照りつけ、男の歩く先には逃げ水が見えた。暑さに耐えかねた男は、喫茶店にいた。涼しい店内で冷たい珈琲を飲んでいると、あの旅行は遠い昔、もしかしたら逃げ水のように、なかったのかもしれないと男は思っていた。男にも日常が戻っていた。

 店内には複数の新聞が置かれ、珍しく地方紙もあった。男がたまたま目にした地方紙に、山背神社が老朽化で廃社したと書かれていた。冷房の効きすぎだろうか。男の全身に鳥肌が立った。一瞬にしてまざまざと記憶が男の頭の中によみがえった。
 確かに古かったが、本当にそうなのだろうか。私のせいだったのかと、男はコップを持つ手が震えた。珈琲がテーブルにこぼれても、男はそれを拭く余裕などなかった。
 
 夜になると、男は行きつけの居酒屋にいた。店員に今日のおすすめを尋ねていた。
「酒のさかなに、エイヒレなんてどうです」
 男は目を見開いて、立ち上がった。
「ばか言ってんじゃない」
 店内の喧騒を男の声が切りさいた。しんと静まりかえった店内で注目を一身に集めた男は、顔から耳の先まで真っ赤になっていた。
 男に日常が戻るのは、まだ先の話だったかもしれない。

(おわり)

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