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女心とカランコロン、カラリ

 以前、最寄駅の駅ビルに入っているメガネ屋さんで働いていたことがある。アパレルとはまた違う専門的な知識が必要で、たくさん勉強しなければいけなかったのは刺激的でもあり大変でもあった。
 出勤日数や研修日程の兼ね合いで、全ての行程をひとりで受け持てるようになるまでには少し時間がかかってしまったけれど、知識ゼロで入社した私もなんとか一人前になれた。春に入社して、そうなれたのは秋が見えていた頃だったと思う。嬉しさ半分、誰かの"目"をサポートする仕事なんだという不安も半分だった。
 私が勤務していた店舗はわりと年配のお客さんが多くて、近用メガネ(老眼鏡)を求める人とお話をする機会は多かった。受付とフレーム選びのお手伝いしかできない期間が長かったせいもあって、いろんな人の"見えない不便ストーリー"をたくさん聞いた。特におばちゃんのお話は面白い。ずっと笑って聞ける。

「最近、老眼が入ってきてる気がするんです」
 平日の暇な午前中。しばらく店内をウロウロしていた男の人に声をかけてみると、その人はふわっとこちらを向いてそう答えた。老眼鏡にはまだ早いような見た目をした人から返ってきたその言葉はネガティブなものであったけれど、なぜかそれを感じさせず、むしろフワフワとしていて綿菓子みたいだと思った。だからといってそれが私の心の何かになったということはなく、一瞬でスッと溶けて無くなって、甘さのようなものだけがほんのりと頭の中に残る感覚だった。そんな不思議なものを感じながらも、自分の仕事を全うすべく近用メガネの解説をひと通りして、まずは(視力の)測定をしてみるよう誘導した。受付をとタブレット端末でお客様情報を入力してもらった時、見た目とは違ってその人が50歳手前のおじさんということを知った。
 こちらへおかけくださいと両眼視簡易計測器を挟んで向かい合わせになったタイミングで改めておじさんの様子を確認してみても、やっぱり50歳手前にしては若い見た目だと思った。ただ、決しておしゃれではない洋服とあまり気の使われていない髪型に、それ以上の興味はわかず、私の心は凪のままだった。
「この度数だと、手元の見え方どうですか?」
「すごい。よく見える」
 検眼用フレームにレンズをセットして確認用の文庫本を手渡すと、おじさんは嬉しそうによく見えると繰り返した。可愛らしいその様子を見ても、私の心はまるで波打たなかった。
「この度数だと、どうです?」
「うぅーん。よく見えるけど、ちょっと気持ち悪くなりそうだなあ」
 度数をひとつ強くしてみると、嬉しそうな顔が少し不安そうに崩れた。その表情を見た時、なぜか私の心のどこかが微妙に波打った。気のせいだと言われると気のせいとも思えるほどの小さな波だった。
 最終的に、既製品ではなく度数をちゃんと合わせたメガネを作ることになり、フレーム選びも手伝うことになった。当たり障りのないスマートなメタルフレームを手に取っては顔に当てはめ、代わり映えのないまた別のスマートなメタルフレームを手にとっては顔に当てはめる。そんなおじさんの姿に私の心は凪のままだった。つまらなかった。少しイライラするくらいつまらなかった。しばらくして、どれが良いかなぁと訊ねるおじさんに、私は安物の野暮ったいプラスチックフレームを勧めてみた。野暮ったいおじさんがより一層野暮ったくなった姿を見て、私の心のどこかがまた微妙に波打った気がした。これも気のせいと思える程度だった。
「これ、良いと思いますよ」
 全然良くはなかった。それで良いと思ったのは世界で私だけかもしれなかった。おじさんはそうかなあと言いながら野暮ったい自分の姿を鏡で見たり、私の方を見たり、疑うようにキョロキョロした。その様子はいつか何かのテレビで見た、どこかの国の何かの小動物に似ていた。
「じゃあ、これにしようかな」
 おじさんの言葉がまた綿菓子のようだった。その時の私の満足感は働き始めて一番大きかった気がする。
「従業員割引ってあるのかな?」
 おじさんが差し出してきた従業員証は私が持っているものと同じで、店舗名欄には4階の本屋さんの名前が書いてあった。
「あ、本屋さんの方だったんですね。お疲れ様です。5%オフになります」
 そう言いながらレジで5%値引きをした時、また私の心のどこかが微妙に波打った気がした。

「ユカさん。知ってますか?」
 その日は昼を過ぎても暇なままで、私よりも少しだけ後に入社した後輩ちゃんが汚れてもいないサンプルフレームを拭きながらニヤニヤと声をかけてきた。
「なにを?なんでニヤニヤしてんの」
「店長って、ジェットコースター乗れないらしいですよ」
「あぁ、聞いたことあるかも。それでニヤニヤしてんの?」
「え。ユカさんそれ聞いても何も感じなかったですか?」
「感じるって、何を」
「なんかそれ聞くと、急に愛おしく感じません?あんなにしっかりしてる店長がですよ?昨日、店長に『俺、絶叫系ダメなんだよね』って言われた時、きゅんっていうか、もっとこう、子宮が熱くなる感じっていうんですかね。男の人の弱い部分とか頼りない部分とかを見ちゃうと、本能が体を疼かせるんですよ。女ってきっとみんなそうなんです。ユカさんなら理解してくれると思ったんですけどねぇ」
 男性陣が居ないのを良い事に下品な話題を持ち出した後輩ちゃんは、ずっとニヤニヤしながらも私のリアクションに納得がいかないと言うように首を傾げた。何それという私の言葉は、ちょうど来店したお客様へのいらっしゃいませにかき消されて、暇を持て余した女達の下品な話はそこで打ち切られた。
 それを聞いてから、その日の私はどうにも落ち着かなかった。なにがどうなって落ち着かなかったのかはよく分からない。後輩ちゃんの下品な話題を頭の中で反芻しては、なぜか老眼鏡のおじさんを思い出し、ムズムズと落ち着かなかった。

 休憩時間、よく利用していた古い喫茶店に行った。カランコロンと、今となっては珍しいドアベルがお気に入りだった。微かに流れていたBGMはジャズだったかクラシックだったかはよく覚えていない。いつ行っても割と席は埋まっていて、それでも微かなBGMは聞こえる程度に皆が静かに過ごしていた。
「あれ、メガネ屋のお姉さん」
 空席を探す私の耳に、綿菓子に似た声がスルスルと入ってきた。それが自分のすぐ横から聞こえたことにも、その声の主が誰かということにも気付いていた。それなのに私はその声の主を探すふりをした。声の主をすぐ横で見付けて驚いたふりをした。その人が一瞬誰だか分からないふりをした。
「あぁっ!今朝の…えぇっと…本屋さんの…」
「山田です」
「そうだ、山田さん。すみません」
 ふりをすることで私は自分を優位に立たせようとした。どういう点で優位に立てるのか、何故そうすることで優位に立てると思ったかは分からない。優位に立ったと思いながら、おじさんが向かい側の席へ『よかったらどうぞ』と誘導すると、すんなりと従ってしまった。それでもなんとか『ここ、よく来るんですか?』という、頭の中に浮かんできた質問を飲み込むことで自分の優位な立ち位置を守った。何故そうすることで優位な立ち位置を守れると思ったかは分からない。
 ちなみにおじさんの名前は山田ではなかったけれど、同じくらいよくある名前だった。口に入れると溶けてなくなってしまう綿菓子と同じように、耳に入れるた瞬間に消えてなくなってしまうくらい印象に残らない名前だった。だからここでは山田とする。
 手渡されたメニューを見るふりをしながらもう一度おじさんを確認してみても、感想は朝と同じだった。心のどこも波打たず、凪のままだった。
「クリームソーダお願いします」
 運ばれてきた水がテーブルに置かれると同時にいつものメニューを注文して、見るふりをするために適当に開いていたメニュー表を閉じると、おじさんが目の前でクククと笑っていた。
「一応お昼休憩でしょ?何も食べないの?」
「あぁ、いつもなんです。クリームソーダかコーラフロートのどっちか。お腹の満足度よりも、心の満足度を重視してます」
 訳の分からない、それでも嘘ではない持論を淡々と答えると、おじさんは一拍置いてまたクククと笑った。笑った時の可愛らしい顔を見ても、やっぱり私の心は凪のままだった。
「ここ、よく来るの?」
「休憩時間はいつもここですね。なんか落ち着くので」
 微妙に嘘をついた。いつもではなかった。月に何度かだけだった。嘘をついて、この嘘を本当にしようとうっすら心に決めた。おじさんはそうなんだねとゆっくり言いながら、殆ど無くなっていたコーヒーをほんの少し飲んだ。おじさんの話すペースはとてもゆっくりで、そうなんだねと言い始めてから言い終わるまでに、私のそうなんだねが2つ入りそうだった。
 クリームソーダがテーブルに運ばれると、おじさんは傍に置いていた文庫本を手に取って開いた。カバーがかけられていて何の本かは分からなかった。私がクリームソーダと向き合う間、おじさんはずっと本を読んでいた。小さなジャズかクラシックと、私のスプーンがグラスにあたる音、おじさんが本をめくる音と、たまに水の中の氷が傾く音だけが私とおじさんの間に流れていた。不思議なことに初対面にもかかわらず沈黙の気まずさは無かった。いや、私に無かっただけでおじさんにはあったかもしれない。それは分からない。
「そうそう。今日お願いしたメガネ、受け取りに行くの明日でも良い?仕事の前に行こうかなって」
「あ、全然大丈夫ですよ」
 思わずその後、自分が明日は休みだということを言いそうになった。それもなんとか飲み込んで自分の立ち位置を守った。崩れそうな立ち位置を守るため、私は早めに退散することにした。お邪魔しましたと600円をテーブルに置いて、席を立った。おじさんはその600円を断らなかった。いいよいいよ、ここは出すよ。そんな事を言われるかもしれないと構えていた私の心は、断らなかったおじさんにまた少しだけ波打った。

 次の日は休みで、その次の日に出勤すると、来店待ちの棚の中からおじさんの野暮ったい老眼鏡は無くなっていた。私が声をかけて、私が測定をして、私が勧めたフレームで、私がレンズを加工した眼鏡。それを私じゃない人が渡したんだと考えると、なんとなく悔しい気持ちになった。
 その日の休憩時間、また喫茶店に行った。カランコロンというドアベルの音といらっしゃいませの声を聞きながら店内を見回すと、窓際の席におじさんが居た。私はまた気付いてないふりをして、気にしてないふりをして、席を探すふりをした。
「あ。おつかれ」
 まんまと声をかけてきた。そしてまたどうぞどうぞと向かい側の椅子へ誘導した。私はまた驚いたふりをして、また会いましたねと愛想笑いするふりをして、またその誘導に従った。
「これ、昨日受け取ったよ」
 おじさんは野暮ったいフレームの老眼鏡を私に見せてきた。私はまたそれを忘れていたふりをして、ああそういえばというリアクションをした。嬉しそうに老眼鏡をかけたり外したりする可愛らしい姿にも、やっぱり私の心は凪だった。
 それから何度か喫茶店でおじさんと遭遇した。おじさんがそこに居るタイミングやどのくらい滞在しているのかというのは何も分からなかったし、約束しているわけでもなかったけれど、遭遇すれば同じテーブルに座って時間を過ごした。私がクリームソーダやコーラフロートと向き合ったり、おじさんが文庫本と向き合ったり。私がスマホと向き合ったり、おじさんが新聞と向き合ったり。もちろん話もした。天気の話や季節の話。こんなお客さんが来たという話や、不思議な夢を見た話。ずっと何でもない時間の過ごし方をしていたせいで、いつまで経ってもお互いの事は何も知らないままだった。4階の本屋さんで働く50歳手前の老眼のおじさんと、3階のメガネ屋で働くクリームソーダとコーラフロートが好きな私。ずっとそれだけだった。

 1か月くらい経った頃、おじさんが店に来た。私が間もなく退勤という時間帯だった。老眼鏡のフレームが少し緩い気がするとの事で、確認してみるとほんの少しだけテンプルの幅が広がっているようだった。一度預かって調整をした後、再度おじさんにかけてもらった。
「お。フィットする。すごいなあ。さすがだ」
 喜ぶおじさんの姿は相変わらずどうでもよかった。褒められても何とも思わなかった。
「耳のかかり具合チェックしますね」
 マニュアル通り、失礼しますと初めておじさんの耳に触れた。当たり前に体温があって、ほんのり加齢臭もあって、それまでどう思っていたのかはよく分からないけれど、私は急におじさんを"人間"と認識した。そう認識すると急激に体が緊張して、心臓がバクバクして、喉が渇いてきて、手に汗をかいた。狭くなる視界の中で耳のかかり具合を確認した。もう少し調整が必要な気はしたものの、その時間に耐えられなかった私はそれを許容範囲内と判断した。
「ありがとう。これで心置きなくコーヒー飲みに行けるよ」
 そう言っておじさんは喫茶店に近い出口へ向かった。それを聞いた私は退勤後、無心で喫茶店へ向かった。
「あ、お疲れ。さっきはありがとね」
 その日、私は初めて"遭遇感"を出さなかった。カランコロンとドアを開けた後、真っ直ぐにおじさんへ向かって歩き、自分からお疲れ様ですと向かい側の椅子に座った。おじさんの耳に触れた後だったからなのか、テーブルを挟んだ距離がいつもより遠く感じた。
「実はさあ、本社に異動になっちゃって、明日から本社勤務なんだよ」
 私がコーラフロートと向き合い終わったタイミングを見計らって、おじさんはそう言ってきた。おじさんについて知っている事がひとつ増えると同時に、おじさんとの時間が終わることが分かった。その知らせに心のどこかが波打ったりはしなかった。でも、心のどこかがシュウっと吸収されていくような感覚だった。
「そうなんですか。出世?」
 詰まったような喉からなんとか絞り出した私の返答に、そんな大袈裟なもんじゃないよとおじさんは笑った。もちろんそれには何も感じないままだった。その話はそれ以上続かず、しばらく沈黙が続いた。窓の外は風が強くて、街路樹の銀杏の葉っぱが風に乗って散らばっていた。
「昔さあ、本当にすごく昔ね。20年以上前。銀杏の葉っぱが好きって言ってた子と付き合ってた時期があってさ。まあ、その時点でその子も凄く変わってるなって思うけど。その時全然お金がなくて、誕生日プレゼントに大量の銀杏の葉っぱをプレゼントした事があるんだよね。今考えると意味わかんないよね。逆に迷惑だよね」
 おじさんはいつものようにゆっくり話して、窓の外にある銀杏の木を見ていた。懐かしむように少し笑っていて、いつものクククと笑った時の顔とは違った。見たことのないおじさんの顔と、知らない時代のおじさんの話と、おじさんに昔好きだった人がいるという事実。なんてことないおじさんのなんてことないそんな事達が、その時の私にはズンと重くのしかかってくるようだった。ドンと突きつけられているようでもあった。ニヤニヤと嘲笑われているようでもあった。だから私は腹が立った。手のひらが痺れてきて、それがどんどん上がってきて、腕も肩も顔も痺れて震えてきた。"わなわな"というのはこのことを言うのかもしれない。
「嫌いなんですよね。他人の昔話聞くの」
 強い言葉を言いながら、唇は震えたままだった。
「昔の話をして楽しそうなのも嫌だし、私の前で私以外の人を思い出されるのも嫌だし、思い出して笑ってしまうほど私の知らないところに楽しい出来事があるのも嫌なんです。私の見えない所の話は聞きたくないんですよね。だから、山田さんなんて私に見える時だけ存在してれば良いんですよ」
 なんとも自己中心的な発言だったと思う。どうせ最後だしという投げやりで幼稚な感情が私の制御を不能にしていたのかもしれない。でもその言葉は、いつからか感じるようになった私の中にある正直な感覚だった。おじさんに対してだけではなく、私のあらゆる好きな人に対して抱く感覚だった。独占欲が強いのかもしれない。わがままなのかもしれない。それをハッキリと言葉にしたのはその時が初めてだった。そんな私の発言に、おじさんは驚きも怒りも笑いもしなかった。頬杖をついて窓の外を見てしばらく黙った後で、たぶんだけどさぁと私の方に顔を向けた。
「末っ子、でしょ」
 いつものクククとも違う、懐かしむ柔らかい笑顔とも違う、ニヒヒというような笑顔だった。だったら何ですかという私の言葉と表情は、それまでで一番幼稚だったと思う。
 その日、いつものように割り勘でお会計をして、初めて一緒にカランコロンと喫茶店を出た。初めて一緒に夜の駅前を歩いた。私は一瞬でいろんな事を考えた。
 これは、このままさよならする流れなのか、はたまた最後の夜を共にするのか。おじさんがその気だったらどうしよう。いや、そんなわけないか。でも、なんで私の退勤時間を見計らって来たのか。なんで喫茶店へ行くことをにおわせて去っていったのか。私を誘うためだったのかもしれない。いや、そんなわけないか。そんな事をぐるぐる考えながら歩いて、すぐに改札前に着いた。
「じゃあ、元気でね」
 清々しい程おじさんにその気は無かった。
「山田さんも。頑張ってください」
 もちろん私にもその気は無かった。
「ありがとう」
 私のありがとうが2つ入りそうだった。
「最後だから見送りますよ」
 そんな、いいのに。と、改札へ歩いて行くおじさんの後ろ姿を目で追った。ICカードを自動改札機にタッチすると、大きな音と共におじさんがバンッと弾かれた。チャージしてなかったという仕草をしながら券売機に小走りするおじさんを見て、私の心のどこかが大きく波打った。その時、ふと少し前の後輩ちゃんの話を思い出した。いそいそとチャージするおじさんの頼りない背中を眺めながら、今度後輩ちゃんに会ったら、あの話分かるよと言っておこうと思った。

 無事に改札を通ったおじさんを見送った後、私は静かに帰路に着いた。見上げた空は完全な夜で、思ったよりも黒かった。夜ってこんなに黒かったっけなと思った時、そんな話をする相手ももう居ないんだなと気付いた。


今日はこの曲を聴きながらそんなことを考えた。

本物の記憶と作り物の記憶。

段々と境目が曖昧になっていくのは面白い。


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