鬱の自分と躁の自分

9/25/2023 真夜中の3時 
カリフォルニア 部屋の中にて

今日は、これからの人生を歩む上で大きな大きな成長を遂げる事ができた1日になった。

数日前に、僕はかなりの鬱状態になった。

学校やイベント行事の運営活動、恋愛、金銭面、そして人間関係など、さまざまなものを通して僕は精神的にキャパオーバーになってしまっていた。

1番の理由としてはおそらく、
「人に期待をし過ぎてしまった」から。

3日間ほど部屋から出れなくなり、人と話すのが大好きで物凄く社交的な僕が誰とも話せない状況に陥った。人と話すのが、関わるのが怖くなった。人に期待をして自然とその見返りを求めてしまったが、もちろん周りは他人だから自分の思い通りに動く訳が無いのに最後まで諦めずに人を信じ続けてしまい、信じても人は期待通りに動かないという事実を受けいれる事、そしてその事実を受け入れないといけない事にも恐れていた。何もかもがネガティブで否定的な感情で溢れていた。もちろんそれは鬱の状態だったからだ。

だけど、それにはもう一つの大きな理由があった。
それは、僕が「感情人間」だったから。

少し説明すると、僕は元々自分を俯瞰するのが得意で、常に日常の生きる自分を客観視していた。例えば、僕はラーメンが大好きだからそれで一つ例を挙げると、まずラーメンが美味しいって思う。したら、その後にラーメンが美味しいと思っているという自分に気づく。そして、また美味しいと思う自分に気づけた自分にさえ気づく。まぁ、あまりここまで考えない人からしたら深く考え過ぎだと思われて仕方がない事を僕は24時間、四六時中行ってしまっていた。ここまでは別に僕の自由な思考法なのだが今回はそれが裏目に出た。欠点になってしまった理由としては、さっきもお伝えした通り僕が「感情人間」だったから。言い換えると、「自分の感情に巻き込まれやすい人間」だった事が分かった。

これが僕を鬱にさせた根本的な原因だった。

悪い例で説明する。
例えば僕が友達を怒らせるような発言をしてしまったとする。するとその後、怒らせた発言をしてしまった自分に気づく。そして、残念ながら僕は、その怒らせた発言をした自分に気づく自分にも気づけてるにも関わらず何もできなかった自分に悲しくなる。そんなことが脳内で起きている。というか考えている。「怒らせた」事、「怒らせる発言をしたという自分がいた」事、さらには「怒らせる発言をした自分にまたがっかりした自分がいる」事まで認知している。その結果、通常の人より3倍頭の中で思考・処理し、そして3倍の数の事柄に対して自分を責めていた。そりゃ疲れる。そしてその分自分に否定的になる。俯瞰するのは、自分の感情をコントロールするのに必要で大事なスキルだけど、残念なことに僕はそのせいで知らない間に自分をさらに傷つけていた。

だから鬱になった時はそれはもう大変だった。
「鬱の自分」に嫌気がさし、「鬱の自分が嫌だということに気づいても何もできない自分」にもっと嫌気がさして、「これらをさらに俯瞰して気づけても結果的には何もできない自分」に対してさらに強い嫌気がさし、その全てにがっかりしていた。そしてその後もそれすら俯瞰していた。まさに「負のスパイラル」を起こしていた。他人から見れば、部屋の中でただボーッとしてるだけのように見えていた僕は、頭の中では自分の感情にどんどん支配されそして飲み込まれドン底にまで落ちていた。

なんて恐ろしい事だ。。

だけど、ルームメイトがいた僕は、優しい周りの友達が諦めずに声をかけてくれた。その友達が教えてくれた事でこの記事を書くキッカケになった一つの事を皆さんに伝えようと思う。

自身の感情に巻き込まれやすい「感情人間」だった僕は、客観視する能力と自分の感情を良くも悪くも掛け合わせてしまったせいで、「鬱状態」になるという結果をもたらした。しかし、同じく客観視する能力がとても高い友達がそばにいたのだがその子は自分のコントロールをすごく上手に出来ていた。理由は、感情のコントロールをできていたから。その子は、同じようなことが起きた時に、僕と同じ様に客観視するのだが、こういう自分がいるんだ、へぇ〜。で終わるらしい。

客観視する=もう1人の自分が存在する、ということだ。A=本当の自分
B=本当の自分を俯瞰するもう1人の自分
だとしよう。

その子がやっていたのは、感情を表した本当の自分Aに、俯瞰する自分Bがまるで機械的に「自分はこういう感情になってるんだ」とただ気づくだけで終わりらしい。それ以上の思考はあまり無いらしい。

僕の場合だと、本当の自分Aが感情を表したら、俯瞰する自分Bの自分に対しても感情を入れたせいで「自分はこういう感情になってるんだ、情けない」とか「自分はこういう感情になってるんだ、悲しいな」と思っていた。そしてそれに対して、「自分はこういう感情になった後に今度は情け無いって思ってるんだ。がっかりだ」とか、「自分はこういう感情になった後に悲しいと思ってるんだ。なんてネガティブなんだ自分。」みたいな思考回路になっていた。要するに「ある感情が出た本当の自分Aを見たBの自分が感情的に反応し、さらにそれを俯瞰する元のAの自分」がいた。そしてそのプロセスの全てに感情を入れてしまったのだ。

さっきの友達を怒らせた例で説明すると、怒らせてしまって反省するAの自分に、まずBの自分が気づく。ここまでなら感情をうまくコントロールしていたさっきの友達の思考。だけど僕は、Bのもう1人の自分がAの自分に気づいたのに、それでも何もできないんだ自分。ってなってAの元の自分に戻ってさらに落ち込んでしまう感じだった。

とにかく勝手に「感情の連鎖」を生んでしまったということ。だから僕は逆に嬉しいことがあった時は、例えば「これを達成できた!」って思った後に、「達成できた自分がいること」に気づき、そしてその「達成できた自分にも気づけたという自分」を認知していた。「達成できた」事、「達成できた自分がいること」事、「達成できた自分に気づけた」事、「それら全てを俯瞰できた」事、「それら全てを俯瞰できた力があることにさえ気づく」事、まぁこんな風にして思考が止まらない。一つの物事を通してそれら全てを肯定していた。やたらとハッピーな野郎だ。逆に言えば超ポジティブ。全てを良い方向に考え、それがさらに連鎖する。負の連鎖ならぬ、「正の連鎖」を起こしていた。本当に忙しいんです脳内が笑。

だから僕は考える量が多過ぎるのに客観的な思考と同時に感情を並行的に上乗せしてしまったせいで、良くも悪くも自分の感情に巻き込まれていた。だから僕は、たった一つの物事を理由に人一倍悲しくなったり、人一倍喜んだりするような人間だ。人一倍ネガティブで人一倍ポジティブ。それは物事によるのだけど。だから凄く自分に自信が無い所もあれば、誰よりも負けない自信がある所があるのも知っている。


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今日は、そんな自分が「最も鬱な時間(超ネガティブ)」と「最も躁な時間(超ポジティブ)」を同時に経験した、要するに最も感情の振り幅のある自分を一日の中で経験した日だった。まるで二重人格みたいな。でも少し違う。二重人格は同時に2種類の人間が1人の中にいる状態を言うけど、僕はただ全くタイプの違う2種類のタイプの自分に1日の間に両方になったって感じだった。嘘だ〜って思うかも知らないけど本当だった。
不思議だった。

それで、ここ数日間、鬱に悩まされて苦しんでいたんだけど一つ分かったことがあった。それは、1日の中で時間の経過と共に「心情のサイクル」があったということだ。朝起きてからお昼までは本当に絶望で何もかもをネガティブに感じてしまう「鬱」の時間で、その後おやつの時間くらいから夕方にかけて少しずつそれが和らぎ、脳が自分を守る為なのか物事を良くも悪くも考えられなくなりボーッとする「無」の時間、そして夜から寝るまでにかけて気分が凄く良くなり完全にいつも通り、またはそれ以上にポジティブになれる「躁」の時間があった。この感情のサイクルが数日前から同じように起きていることに気づき、今日はいつも通りこの世から消えたいと思うほどのかなり重度な「鬱」状態から始まり、世界を救えてしまうんじゃ無いかと思うくらい希望に満ち溢れた「躁」の自分にまで変わるという体感をした。地の自分から天の自分へ、人生で1番性格の振り幅の変化を体感した一日だった。不思議だった。ちなみに今は寝る前なので「躁」だ。だけど振り幅が今日は大きかったせいか脳が多分疲れてるから、今は割と落ち着いた「躁」要するにいつもの自分に近い状態だと信じてる。

この経験を忘れないうちに人にもぜひシェアしておきたいと思って今はベッドの上で走り書きしてる。考えても見て欲しい。僕は今事実上こんなに文を前向きに書けてるんだけど12時間前までは、この世から消えて無くなりたいと思うくらい落ち込んでいた。その瞬間は何にもしたいと思えなければ何もできないと思ってた。だから、少し信憑性が上がったと思うけど、今は皆さんにこの記事を書きたいと思う余裕があるからこんなに書けている。もちろん書きながら半日でこれだけ変わってしまう自分に驚きながら笑

実はさっきルームメイトの友達に、このNoteのアプリで躁と鬱の自分と長年向き合っている坂口恭平さんという方が書いた記事を紹介してもらった。その記事を読ませてもらった後にこれを書いている。気になる人はぜひ読んで欲しい。もしあなたが今鬱なら、僕のこの文と恭平さんの文があなたに寄り添い、あなたの気持ちを少し楽にできるかもしれない。

僕は自分自身を客観視できる人=感情をコントロールできる人だと思っていたがこの公式は必ずしも正解では無いと分かった。客観視ができるから感情をコントロールできるわけでは無い。自分が凄く客観視できるから、主観的な感情に沿って行動する人が高圧的に感じてしまい時に苦手に感じるから、自分はそのタイプにはなれないと思い必死に俯瞰して俯瞰して客観視して自分を観察して自分の発言や行動に最新の注意を払って人と関わっていた。だけど僕が結局やっていたのは、主観だけで行動しない様に必死に自分を俯瞰して、だけどその過程で沢山の感情が溢れ出てそのプロセス内で生まれた自分の気持ちに実は1番囚われた状態だった。自分の主観に結果的には1番巻き込れている人間だった。落とし穴だ。。。そんな事に気づいた。Aの自分が何かに反応し、それを客観視するBの自分に、Aの自分に戻って感情的にさらに反応し、と普通の人より感情のステップを踏み過ぎて、「感情の連鎖」を起こしていたんだ。


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長年の悩みだった。生まれてから22年経った今、ようやく自分が自分を傷つけている事に気づけた。これからは今までより感情を本当の意味でコントロールでき、自分自身をケアできる方法を見つけることができると思う。結局は自分が自分を1番守れるという本質的な人として大切なことにも気付く事もできた。

だがこういう自分の感情に巻き込まれる、偏った思考をしていた自分も、僕という人間のうちの1人。短所も長所も、弱い所も強い所も全てまとめて自分だという事が本当の意味で理解できた。もしあなたに弱い所があっても、弱い=悪いわけでは決して無いことを覚えておいて欲しい。弱い所があるあなたは誰よりも人間らしくて愛らしい。弱さがあるから強さが際立つし、弱さがあるから人としての深みが増す。

そして鬱になる事さえも消して悪い事じゃないって気づいた。社会の一般的な風習はきっとこうだ。「鬱にならないように心のケアをしておこう」とか「こういう治療を通して鬱を治していこう」とか。少なくとも鬱を経験できた僕にとっては、これらの発言は鬱の人や心の悩みを抱えてる人にとってはベストじゃない事に気づいた。鬱になった人がいるなら、「鬱になってしまっても全然良いんだよ。」って今の僕は伝えます。既に鬱の人に、鬱の状態はダメな事とか、鬱から抜け出さないとダメだと言ったらその人にとっては逃げ場が無くなる。死にたいと思ってる人に死んじゃダメ!って言うのは逆効果なのと同じです。そんなことに気づけたんです。鬱になると僕が体験したことなんだけど、体も心も思うように動かなくなる。それは自分の「心身の休息」が必要だという信号を脳が送ってくれているだけなんだと思う。友達がそんな考えを僕にくれた。真実かどうかは分からなくてもその考え方に救われた。救われたのは少なくとも事実。鬱の時は、本当に無理に何もしなくて良いし、自分が1番楽な状態になれば良い。そしてその行動はその時のあなたにとって必要な行動で、実は最善な行動だから。知識ではなくて自分がただ自分に従えば良い。ナチュラルに過ごせば良い。今は分からなくても、必ず分かる様になるってことにも気づけました。そして治す為に時間はある程度かかるから焦らなくても大丈夫。人それぞれだし。あなたのペースがあるなら、それはあなたらしい人生の送り方でそれもとっても素敵な事だと思う。

僕はこの数日間、本当に辛かったけど何かを無理に心配しなくても良いんだって今は思うことができている。僕もまだ鬱の状態が完治していないけど、同じ様に心の病に今悩んでる人がいるなら一緒に乗り越えたいと思ったのでこの記事を書きました。この記事が少しでも多くの人に届いて、また少しでも色んな人たちに様々な気づきや、勇気と希望を与えられたなら僕は嬉しいです。坂口恭平さんの記事も読んでみてください。素晴らしいです。輝いてる時も、悲しんでる時も、全て素敵なあなたです。輝いてても悲しんでても、上手くいっても上手くいかなくても良いんです。

等身大の自分をぜひ愛してあげてください。

22歳のアメリカで過ごす若者からの気づきでした。


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