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拝啓 パリの悪魔たちへ

交換留学でドイツに渡航してから約半年。
マイナス10度が当たり前のドイツの厳しい冬の寒さを耐え、ヨーロッパにも春が訪れようとしている。

テスト期間を終え、大学は春休みに入った。2023年3月某日、私は一人旅に出た。私が住むドイツの都市から長距離バスで約9時間。


旅の目的地は、日本人の誰もが憧れる「華の都・パリ」

長時間移動の疲労を感じないほど気持ちが高鳴る。
テレビや雑誌で見た観光地、美味しい料理、オシャレな街並み。
現地時間19時頃、期待に胸を膨らませた私はパリの地を踏んだ。

天気、雨。気温10度。冷たい風が吹くたびに体がブルッと震える。
私はスマホの地図をたよりに宿へ向かう。ヨーロッパのそれらしい建物が増えてくる。ドイツとは建物の形がどこか違う気がする。専門的な知識がない私にもなんとなくわかる。徐々に人が増えてくる。どうやらレストランや飲み屋が集中しているスポットらしい。

町中にパトカーのサイレンや酔っぱらいたちの怒号が鳴り響く。
酔っ払いに絡まれそうになる。

え、パリ怖くね…?
イメージしていたパリと違う。オシャレなパリジェンヌたちはどこへ。

宿に着いた私は、この旅への大いなる期待とほんの少しの不安を抱え、眠りについた。


まさか、このパリ旅行が“色々な意味”で忘れられないものになるとは、そのときに私には想像もしなかった。




パリ2日目、目的地はオルセー美術館。
パリにおいて、ルーブルの次に人気の美術館といっても過言ではない。

私が到着した時、開館時間前にかかわらず200人以上の来場者がすでに列を成していた。
さすが人気の美術館だ。

しかし、スタッフたちの様子がどこかおかしい。スタッフが10人ほど集まって話し合っている。表情が険しい。何か良くないことでも起きたのだろうか。

“Close!!”

突然スタッフの一人が叫んだ。スタッフたちが片付けを始めた。


私は耳を疑った。
聞き間違いだと思い、近くにいたスタッフに聞いたところ、ストライキで臨時休館らしい。それも今さっき決まったことらしい。

スタッフたちは他の来場者への説明に追われている。

徐々に来場者たちが解散していく。皆の足音からも不満と諦めの感情が伝わってくる。

旅行の序盤から見事につまづいた。
ちなみにこの大規模なストライキは、パリの公共交通機関を2,3日ストップさせる事態を招いた。
日本だったらありえない…。


そのような状況でも、たった一口で私の不満を拭ったフランスのクロワッサンは偉大だ。
日本やドイツで食べていたクロワッサンとはまるでレベルが違う。
口に入れた瞬間、鼻と口がバターの香りで包まれる。外はサクッと軽い食感で、中はふわっと柔らかくも、しっかりと食べ応えがある。


ストライキのせいで大幅に旅の予定が狂ったが、クロワッサンは美味い。
「逆接+クロワッサンは美味い」
これで、精神的不満を取り除かれる。 パリとは不思議な町だ。






パリ4日目、天気は曇り。太陽の気配なし。まだ風が少し冷たい。

この日の目的は、ルーブル美術館。
ルーブル美術館は人気も規模も世界最大級の美術館であり、『モナ・リザ』や『ミロのヴィーナス』といった有名美術品が展示されている。



私は当日チケットを購入した。
入場時間まで時間的に余裕があったため、散策することにした。


セーヌ川からの風を感じながら歩く。
川の向こう側に空に真っ直ぐ伸びて建つ、エッフェル塔。
それを見ると、自分がパリにいることを実感する。

私も立派なパリジェンヌだ。  
こいつはすぐ調子に乗る。


私は歩きながら、リシュリュー翼から回る方がいいことや、『モナ・リザ』まで辿り着くのに割と時間がかかることなど、ネットで見たルーブル美術館に関する情報を頭の中で繰り返す。


ルーブルへの期待が徐々に高まってくるのがわかる。楽しみだ。



雲の隙間からほんの少しだけ空の青が覗いている。






セーヌ川沿いの歩道を歩いていると、背丈が約140cm、年齢70歳くらいの小柄な老婆が話しかけてきた。
茶褐色の肌と黒色の透きとおった瞳。
とても柔らかく可愛らしい印象の老婆だ。

彼女は頭にスカーフを巻き、手には何かのリストのような紙とペンを持っている。


それを見た瞬間、私の中の危険センサーが作動した



――詐欺か、物乞いか。


 
ヨーロッパでは決して珍しくない光景だ。
街を歩けば必ずといっていいほど、ホームレスや物乞いがいる。

ベルリンを訪れた際、観光名所で花を配りそれを受け取った人に金銭を要求する老婆を見たことを思い出した。

このような人たちには反応しないこと、関わらないことが一番である。

この老婆には申し訳ないが、無視だ…








 
その時、事件は起きた。








 
突然、老婆がぶつかってきたのだ。



老婆は自ら体を張って私を止めようとする。

私を先に行かせまいという強い意志を感じる。

老婆の小さな体からずっしりと人の重さを感じた。



突然の出来事に全く状況が飲み込めない。
こんな体を張るタイプの物乞いは初めてだ。


 
留学前の事前説明会で「詐欺やスリにはくれぐれも気をつけてください」と言われたことを思い出した。
私がその注意喚起に対してどこか他人事のように感じていたことも…



 
私の感情は恐怖と焦りに侵食される。
逃げなきゃいけない状況にもかかわらず、体が動かない。

しかし、私は必死に頭を働かせて考える。ひたすら考える。

その間にも老婆は体をぶつけ続ける。ひたすら何かを訴えてくる。
言語なのか、そうでないのかわからない声で訴えてくる。


「あなたの言っていることが理解できない」 私は老婆に訴える。

しかし、老婆は私の言葉に全く聞く耳を持たない。



「誰か助けてくれ…!!」 心の中で叫んだ。






 
すると、私の後方から女性の声が聞こえた。


一人の女性が険しい表情でこちらに近づいてくる。
彼女は、おそらく20歳前後、ブロンドの長髪、澄んだ青い瞳をしていた。


追い詰められている私にとって、彼女は非常に正義感に溢れる女性に見えた。



この人なら助けてくれるかも…







私は期待した。いや、期待してしまった。





 
現実とは残酷である。






 
「そのお婆さん、耳聞こえてないよ!!」 

その若い女性は大声で訴えてくる。



「このお婆さんは耳が聞こえないの。だから、あなたがこの紙に署名をして寄付してくれればこの人は救われるの」



そう訴える彼女は真っ直ぐな目をしていた。気味が悪いほどに。
 



その若い女性は、老婆のグルだったのだ。





あんたそっち側なんかい… 

2対1かい…



私は絶望した。


救いの女神に見えていた若い女性は、悪魔だった。
裏切られた気分だ。 勝手に期待したのはこっちなのだが…。

怒りと悲しみが同時に押し寄せてくる。
その後から2対1の構図になっていることを再認識し、焦りと恐怖が追い抜いてくる。



赤坂マラソンのワイナイナのように…(本稿のパンチライン)

 

動揺する私に、彼女たちは容赦なく追い打ちをかける。

老婆が私の腕を掴む。若い女性が寄付を煽る。
絶妙なコンビネーションを見せつけられる。



「あなたがここに署名して寄付すれば、このお婆さんは助かるのです。あなたが救うのです!」

さっき聞いたよ…それ…

この状況に呆れと諦めの感情も湧いてくる。
こんな短時間に様々な感情が混在するのは初めてだ。


そんな私とは対照的に、ゆっくりと流れるセーヌ川。
 

若い女性は執拗に寄付を煽ってくる。


「ほら、このリストを見て。こんなにも多くの人が署名して寄付してる」

もういいって…それ…


いつの間にか私の周りには敗北の雰囲気が漂っていた。


老婆が私の手を取り、無理矢理ペンを持たせる。

もう抵抗する気も起きない。
ライオンに捕まり、ぐったりするシマウマの映像を思い出した。



気づいたら私は署名していた。
寄付額は20ユーロらしい。日本円で3000円くらい。


 
私が署名を終えた瞬間、彼女たちはさらにヒートアップする。

さぁ金を…!  さぁ早く…!

彼女たちの目は、完全に金を欲する人の目だ。

気味が悪くて仕方がない。もう逃げたい。

寄付を渋る私にしびれを切らしたのか、老婆が私のショルダーバッグを勝手に開けようと手をかける。

さすがにこれはまずい。 私は老婆の手を振り払う。

「自分で開けるから触るな」私はなんとか言葉を絞り出した。

私はショルダーバッグを開け、財布を取り出した。
本来は意地でも財布を出すべきではない。
しかし、私はとにかくこの場を去りたかった。
この悪魔たちから一刻も早く逃れるには金を払うしかない。

老婆はソワソワしている。財布に触りたい気持ちが抑えられない様子だ。
ご飯前に待てと言われている犬か。 いや、そんなかわいいもんじゃない…


ゆっくりと財布のジッパーを開ける。



50ユーロ札が1枚



その瞬間、私は過去の自分の行動をひどく後悔した。


留学中は基本的にカード決済で、現金を持つことはほとんどなかった。
しかし、心配性のためか、念のために現金を下ろしておいたのだ。


備えが裏目に出た。


私の手にある50ユーロ札を見た瞬間、老婆がすぐにそれを取り上げる。


こ、このババア…速い…!?


寄付の話でおつりを考えることは変な話だが、私は自然と差額の30ユーロが返ってくるものだと思っていた。

被害額を少しでも抑えたい気持ちがあったのか、頭の中で「50-20=30」の計算をしただけなのか。わからない。

「差額の30ユーロは?」  私は彼女たちに問いかける。

彼女たちは首を横に振る。
私の問いはあっさりと拒否された。


想定よりも多額の収入を得た彼女たちは満面の笑みを浮かべていた。
嬉しさのあまり、踊りはじめた。

私の体に踊る彼女たちの腕や手がベシベシ当たる。
彼女たちは無邪気な笑顔で私の顔を覗き込んでくる。
煽られているようにしか思えない。


「ふざけやがって…」  私の中のベジータがそう言っている。


「差額の30ユーロは?」 先ほどよりも強い口調で問いかける。

最後の抵抗だ。


すると、老婆が署名の紙に数字を書きはじめた。

「25:25 → 50」

老婆は、小さい子どもに算数を教えるように丁寧にその数字を左から順にペンで指した。
おそらく私の50ユーロの内訳を説明したのだろう。


全くのデタラメである。
私の中で怒りと混乱が渦巻いた。私はそれでもなんとか交渉しようと試みるも、彼女たちは全く聞く耳を持たず踊り続ける。



若い女性が私の手を握り、満面の笑みで言う。

「あなたのおかげでこのお婆さんは救われるのです。本当にありがとう」

老婆と若い女性は感謝の意として投げキッスをしてくる。
これほどときめかない投げキッスは初めてだ。





徐々に遠ざかり小さくなっていく彼女たちの背中を、私はただ見つめることしかできなかった。






いや、あの老婆耳聞こえてないか?







気づいたら私はノートルダム大聖堂まで歩いていた。
工事のフェンスにノートルダム大聖堂の歴史が書かれている。

全く内容が入ってこない。
見慣れたはずの英語もただの記号にしか見えない。

大聖堂の後方から太陽の光が差す。私は無意識にスマホで写真を撮る。
でも、その光景や写真に全く感動しない。


あ、そっか。さっき50ユーロ取られたんだ…
あの悪魔たちの不気味な笑みがフラッシュバックする。


ルーブルの入場時間までまだ時間がある。
憧れのパリの街並みの中を歩いているはずなのに、心が全く落ち着かない。


とりあえずカフェに入ろう。

私はそこでカプチーノとチョコレートクロワッサンを注文した。

私の席に注文したものが届く。
カップの縁すれすれまで注がれたカプチーノ。
チョコレートソースがたっぷりとかけられた、きつね色のクロワッサン。
見た目からも伝わる甘さ。

「どうぞごゆっくり」と店員が私に微笑む。
私もぎこちない笑顔で会釈をする。


よし、食べるか。甘い物を食べれば気分も晴れるだろう。

クロワッサンを一口頬張り、カプチーノで流し込む。


味がしない


あ、そっか。さっき50ユーロ取られたんだ…
パリのクロワッサンも、さすがに先ほどの事件を無かったことにはしてくれないか…

何をしていても常にさっきの事件が私の脳を支配する。

焦った、体が動かなかった、怖かった

しかし、ふと思い返してみると、後悔や反省が襲ってくる。

どうして無理矢理にでも逃げなかったのか。
どうして署名をしてしまったのか。
どうしてこの期に及んで現金を持っていたのか。



窓の外には、“いつも通り”のパリの風景が広がっている。
パリ来て4日目だけど。

向かいのレストランの屋外席で談笑する人々。
どうして自分だけがこんな不幸な目に遭わないといけないのか。

悲劇のヒロインなった気分だ。
自分は男だけど。


もう頭がパンクしそうだ。

カプチーノを一口飲み、心を落ち着かせる。

カプチーノはもう完全に冷めている。




どれだけ考えてももう50ユーロは戻ってこない。
むしろ50ユーロで済んだと考えるべきか。
まだ命があるだけ十分だ。
いい社会勉強になった。
旅が終われば話のネタになる。


ポジティブに捉えようと、自分に言い聞かせる。


あの事件で味わった恐怖や後悔をクロワッサンと共に噛みしめる。



口の中にクロワッサンの甘みとバターの香りが広がる。
思っていた以上にチョコレートが甘かった。



そろそろ時間だ。

ルーブルに向かおう。


『モナ・リザ』が私を待っている。














あの時のパリの悪魔たちよ   聞いてくれ








当時7500円だった50ユーロが、今では8500円になっているぞ…



円安がすごいぞ…


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