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舞台 「テラヤマキャバレー」 観劇レビュー 2024/02/23


写真引用元:テラヤマキャバレー 公式X(旧Twitter)


公演タイトル:「テラヤマキャバレー」
劇場:日生劇場
企画・制作・主催:梅田芸術劇場
脚本:池田亮
演出:デヴィッド・ルヴォー
出演:香取慎吾、成河、伊礼彼方、村川絵梨、平間壮一、木村風太、福田えり、横山賀三、凪七瑠海、浅野彰一、小田龍哉、川原田樹、葛たか喜代、日下七海、小林風花、近藤彩香、水口早香、的場祐太
公演期間:2/9〜2/29(東京)、3/5〜3/10(大阪)
上演時間:約2時間40分(途中休憩25分を含む)
作品キーワード:アングラ演劇、音楽劇、昭和レトロ、親子
個人満足度:★★★★★★☆☆☆☆


梅田芸術劇場が企画・制作・主催する、戦後の日本のアングラ演劇を代表する劇作家である寺山修司の最期を物語にした新作音楽劇を観劇。
脚本は、舞台・美術・映像をつくる団体「ゆうめい」を主宰し、今年(2024年)の第68回岸田國士戯曲賞の最終候補にも名を馳せている新進気鋭の劇作家・池田亮さんの書き下ろしで、演出はイギリスの演出家であるデヴィッド・ルヴォーさんが担当する。
デヴィッド・ルヴォーさんの演出は初観劇だが、池田亮さんの作品は「ゆうめい」の公演で『姿』(2021年5月)、『娘』(2021年12月)、『ハートランド』(2023年4月)と観劇している。
また、今作の主人公の寺山修司役には「新しい地図」に所属する香取慎吾さんを迎え、演劇ファンだけでなく多くの香取慎吾さんファンにも向けられた商業公演として上演されていた。

物語は、1983年5月3日に寺山修司(香取慎吾)が肝硬変で死を迎えようとしているシーンから始まる。
寺山修司は、アングラ演劇を上演する劇団「天井桟敷」の劇団員たちをイマジネーションで夢の中に出現させる。
そして、暴言(平間壮一)、アパート(村川絵梨)、白粥(成河)と劇団員たちに名前を付けていく。
そこへ、死(凪七瑠海)が寺山の前に現れる。
死は寺山に対して、明日の夜明けには寺山は死を迎えるからそれまでに、この3本のマッチを使って過去や未来に行き、面白い芝居を上演してくれと言う。
寺山は、3本のマッチを使って過去や未来に行って夢の中に出現する劇団員たちと演劇を上演するが...というもの。

私自身、実は寺山修司の作品には一度も触れたことがなく、彼の代表作である『田園に死す』や『毛皮のマリー』なども観たことも読んだこともなかった。
寺山修司は、アングラ演劇を代表する劇作家としてただ名前を知っている程度の知識で観劇したのだが、それが逆に良かったのか、とても面白く感じられた。
まず、ステージ上に広がる舞台美術の世界観が、まさに寺山修司のアングラ演劇っぽさを存分に詰め込んでいた。役者たちは皆白塗りをして悪魔のような格好をして、コンテンポラリーダンスのように体をくねらせながら演じる。
そして、舞台全体が海の中にいるかのようなダークな照明に終始包まれている。
そして、舞台セットが3階建てのようになっていて、そこに奏者たちが構えている。
奏者たちが奏でられる音楽も、1970年代のフォークソングを想起させるような昭和のロックミュージックらしさを存分に感じられて心が満たされる思いだった。

音楽劇だけあって、物語の大部分が歌パートによって構成されていた。
もちろん、音楽のかからないストレートプレイのシーンもあるのだが、約6割くらいが音楽がかかっていたと言って良い。
だからこそ、どちらかというと物語を楽しむというよりは音楽やパフォーマンスを楽しむというスタイルが特に第一幕は近かった。劇中歌もほとんどが寺山修司によって作詞された曲で、彼はこんなに沢山の歌謡曲を残していたのかと驚かされ感動した。
どの楽曲も素晴らしく、特に『Come Down Moses』は頭から離れなかった。

今作では、寺山修司が死によって与えられたマッチを使って、とある過去の時代と未来の時代にまるでタイムスリップしたかのように描写される。
上演終盤までは、なぜ寺山はその時代にタイムスリップしたのか分からずモヤモヤしていたのだが、終盤になってその理由が明確にはされなかったけれど、自分の中でこれではないかと思い当たる意図を把握することが出来て、より作品に没入することが出来て楽しかった。
時間は無常にも流れ続け、その時代に生きたものの言葉というのはその人の死と時間の経過によって失われてしまうかもしれない。
しかし、歌や演劇の力によってその言葉たちは蘇り、創作者が死しても尚残り続ける。
そんな演劇への賞美にも感じられてラストに涙を唆られた。

香取慎吾さん、成河さん、伊礼彼方さん、平間壮一さん、宝塚歌劇団所属の凪七瑠海さんを始め、ミュージカルなど歌を基軸に活躍してきた役者ばかりだったので、彼らの歌声を聞いているだけでも見応えのある音楽劇だと思う。
劇団「天井桟敷」を昔からよく知っている方、寺山修司の作品が好きな方にとって、今回のような上演がどう映るかは分からないが、私のような寺山作品に触れたことがないような方にとっては、昭和時代のアングラ演劇入門としても非常に楽しめる作品だと思う。
他の寺山修司の作品にも触れたくなったし、「演劇実験室◉万有引力」の芝居も観たくなった。
多くの方におすすめしたい音楽劇である。

写真引用元:ステージナタリー 「テラヤマ・キャバレー」公開ゲネプロより。




【鑑賞動機】

実は、ずっと寺山修司関係のアングラ演劇を観劇するのは避けていた。別に嫌いであった訳ではないのだが、あまり知識を持っていないので、一度勉強をしてから観劇しようと思っていたから。しかし、今作は脚本が私の好きな劇作家である「ゆうめい」の池田亮さんであったし、池田さんがおそらく初めて商業公演の脚本の執筆を担当した公演なので観劇してみたいと思った。
また、今作は主演に香取慎吾さんをキャスティングしていて、アングラ演劇に詳しくなくても楽しめる、むしろこの作品をきっかけにアングラ演劇を学べるのではと思ったことも観劇の決め手である。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

赤いカーテンがかかるステージの前に、寺山修司(香取慎吾)が現れる。寺山の劇団「天井桟敷」の掛け声のもと、カーテンが開いて音楽が鳴り響く。
寺山は、自分のベッドの周囲で踊っている人々を劇団「天井桟敷」の劇団員として名前を付けていく。暴言(平間壮一)、アパート(村川絵梨)、ミッキー(福田えり)、青肺(横田賀三)、犬尻(浅野彰一)、鶏(的場祐太)と。そしてシンバルを持った劇団員には白粥(成河)と名付けた。白粥はことあるごとにシンバルを床に落として「ガッシャーン」とうるさくしてしまい、寺山に怒られる。
1983年5月、寺山は肝硬変でまもなく死を迎えようとしていた。しかし死を迎えることは非常に怖く、この夢の中のキャバレーでイマジネーションで劇団員たちを作り上げて演劇を上演しようとしていた。

そこへ、赤子を抱いた女性である寺山ハツ(村川絵梨)が現れる。抱いている赤子は寺山修司であり、寺山ハツというのは寺山修司の母親だった。そこへ、軍人姿の男性が現れる。寺山八郎(木村風太)で、寺山修司の父親である。八郎はハツと一緒に赤子の寺山修司の面倒を見る。寺山修司は、父の八郎は自分が生まれてすぐに戦争に行ってしまい、そのまま戦死したはずだと思っていた。しかし八郎は戦争から帰ってきて寺山修司の元へやってくる。寺山修司は驚く。

寺山修司の母と父との妄想が消え、自分がイマジネーションで作り上げた劇団員たちと共に戯曲『手紙』を執筆して、その上演のリハーサルをしようとしていた。そこへ、死(凪七瑠海)が寺山修司の前に現れる。寺山修司はまもなく肝硬変によって死ぬ。しかし寺山は死ぬ間際まで、夢で自分の書いた戯曲で演劇を上演したいと切望する。
死は、寺山修司と取引をする。死は、寺山に3つのマッチを渡す。このマッチを擦ることによって、寺山は過去にも未来にも行くことが出来るのだと言う。その代わり、時間を移動することによって死に対して素晴らしい演劇を上演して欲しいと言われる。タイムリミットは、明日の夜明けまでだと。寺山はマッチを喜んで受け取り、マッチを擦って時間移動するのだった。

場所が変わって、ここは江戸時代中期。近松門左衛門の人形浄瑠璃である『曽根崎心中』の稽古場であった。近松門左衛門(木村風太)が現れる。寺山修司は近松門左衛門に、名前も職業も「寺山修司」だと名乗り出る。
そこでは、人形である初(村川絵梨)と徳兵衛(平間壮一)によって、『曽根崎心中』が人形浄瑠璃として上演されていた。初と徳兵衛は、人形を操る黒子に操られながら、一緒に心中して命を絶つ。しかし寺山は、そこには全く愛が感じられないと言う。『曽根崎心中』で語られる言葉には、私たちの心に響くものがないと。
寺山は時間を1983年に戻す。そこへ、現代の寺山(伊礼彼方)が現れて『花がたみ』を歌い上げる。寺山はもう一度マッチを擦って時間移動する。

寺山は、今度は2024年の歌舞伎町にやってくる。辺りはネオンに染まっていた。そこへ、家出女(横田賀三)や黒蝶服(的場祐太)たちがキャリーバッグを持って歩いている。彼らはスマートフォンを片手に、笑いながら、けれど何か満たされていない感情に対して欲求不満であるような様子で狂ったようになっていた。
寺山は、家出女たちに「寺山修司」を知っているかと尋ねる。しかし、家出女たちは笑いながら「テラヤマシュウジ」を知らないとバカにしたように言っている。そしてそのまま、現代の寺山が出てきて家出女たちと乱闘になってしまう。
寺山は気が付く。2024年の未来には言葉がないと。自分が死んでも尚残り続けるであろう言葉たちがここにはないことを悟る。

寺山は、1983年に戻ってくる。寺山のキャバレーに、唐十郎と野田秀樹がアングラ演劇について学びたいと訪ねてきていると知る。寺山は、唐十郎、野田秀樹の順番で通すように指示する。
唐十郎(成河)がやってくる。どうやら、寺山の死後にもテントを張ってアングラ演劇をやる文化は残っているようで寺山は安心する。そこへ、乳母車が寺山の元を通り過ぎ、そして一人の劇団員がまるで野田秀樹を想起させるが如くしわがれ声で叫んでいる。
三島由紀夫(平間壮一)が舞台セットの上部から、曜日の書かれた色紙を落とす。劇団員たちはそれらを拾い上げる。
ステージに幕が降りて、現代の寺山は『あしたのジョー』を熱唱する。寺山も幕の前で話して暗転する。

幕間に入る。

1983年の寺山修司の死の直前。死は、『ひとりぼっちがたまらなかったら』を歌う。
寺山修司は、2024年の未来で言葉を失くした家なき子を見てしまって、自分が今書いている戯曲で死を感動させられる自信が無くなってしまう。そして戯曲を執筆していた紙の束をぶちまける。寺山は『質問』をソロで歌い上げる。
ノックノック(川原田樹)が扉の横から姿を現す。ノックノックは、扉に大きな白紙の紙を2枚貼り付ける。
「競技」という言葉から、ステージは運動会のような様相になる。劇団員たちが大小様々で且つ色々な色の大玉を持ってくる。音楽は、オッフェンバックの『天国と地獄』が流れている。また劇団員たちは、先ほど三島由紀夫が地面に落とした曜日の書かれた色紙を取り出し、曜日は永遠に続いていることを語る。そして寺山は、夢曜日を提案し、自分は夢曜日で演劇を上演したいと言う。
運動会の大玉は、曜日の話と共にやがて太陽系の惑星のような意味合いを持ち始める。中央に黄色い大きな大玉が置かれ、それがまるで太陽であるかのように周囲のもう少し小さいカラフルな大玉が周回し始める。

寺山ハツ(村川絵梨)が現れる。腕の中には赤子がいる。ハツは娼婦だった。寺山の夢の中で、ハツと会っている。ハツは寺山が小さい時に亡くなってしまった。だから寺山は、もう一度夢の中で自分を産んでくれと叫ぶ。小さなアパートで、自分を育ててくれた母親のハツに対して、もう出会うことが出来ないけれど、夢の中であればこうして出会うことが出来る。
そこにこそ本当の愛があると寺山は叫ぶ。
蚊(伊礼彼方)は、人の血を吸う生き物。そんな蚊は、ハツと寺山修司が血で繋がった存在だと認識して血を想起する。

夜明けになる。劇団員たちと歌って踊り、舞台セットが隅に捌けて中央には奥へと続く通路が出来る。そちらに向かって劇団員たちは歩いていく。
ステージの幕が閉じる。最後に寺山は、最後のマッチのあかりをフッと息を拭いて消す。ここで上演は終了する。

音楽がメインの演劇で、正直物語は混沌としていて途中まで全然頭に入ってこなかった。しかし、物語終盤で寺山と母のハツとの会話のやり取りを目にした時、第一幕で行われていた近松門左衛門の『曽根崎心中』のくだりや、2024年の歌舞伎町の東横キッズたちの描写の意味が分かってきて涙した。これは言葉と愛と輪廻転生の物語だと。
自分が生きている最中、どんなに熱い思いで愛を伝えたとしても、自分が死んでしまったら言葉としてしか残らない。しかし、そんな言葉も実は意外と脆いもので、2024年の現在では1983年というたった40年前の言葉でさえ薄らいでしまうものである。しかし、歌と演劇というのはそういった過去の人々が残してきた言葉に力を与えて、後世の人々に影響を及ぼしうる力を秘めている。それこそが演劇の魅力であり、歌の魅力であると。
第二幕の寺山修司と母の寺山ハツとの親子の愛の言葉は、演劇と歌の力で寺山が亡くなった40年後の今でもこうやって私を含め観客を感動の渦に巻き込んだ。これこそが、演劇と歌の可能性であり希望なんじゃないかと思った。だからこそ、私は寺山と母との親子愛に感動しただけでなく、演劇と歌という時代を超越しうる可能性についても感動し涙した。
詳しくは考察パートに書こうと思うが、この脚本は、第二幕になってこの上演全体の意味がわかってきて感動する、そんな素晴らしい構成を持つ脚本だと感じ、さすが池田亮さんだとつくづく感じた。

写真引用元:ステージナタリー 「テラヤマ・キャバレー」公開ゲネプロより。



【世界観・演出】(※ネタバレあり)

まさに寺山修司のアングラ演劇の世界観が日生劇場に広がっているといった感覚で、度々寺山修司の作品が劇場で上演されて舞台写真で拝見していたものを、ついに劇場で生で観ることが出来たのだと感動した。
舞台装置、衣装、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。

まずは舞台装置から。
上演の開始と終演、そして幕間に入る直前のみ、ステージ手前側に巨大な赤い幕がかかっている。その手前に役者がマイクを使って演じていて、その幕が開くことによって寺山修司のアングラ演劇の世界観が一気に展開される。
ステージ奥に、3階建てほどの背の高い舞台装置がセットされていて、それらが格子状になっていて、その格子に奏者が構えていて演奏していた。そしてその舞台セットは、中央に対して観音開きになるように左右に扉のように大きく開ける構造になっていて、ステージ中央に奥から手前に向かって役者が大人数で登場出来るような仕掛けになっていた。この舞台セットは、寺山修司のアングラ演劇らしさを備えていて、1980年代のSFといったら良いのだろうか、アングラなファンタジーらしさを持ったやや毒々しい舞台美術が施されていた。上手上部の格子に該当するエリアには、基本的に平間壮一さん演じる暴言のエリアになっていて、そこから彼は曜日が書かれた色紙を落としたりしていた。
ステージ手前側は、何も装置が仕込まれていないだだっ広いステージがあって、そこに寺山修司が愛用している机やソファーが置かれていた。ソファーも燕脂色の年季の入ったアンティークものだった。
寺山修司がタイムスリップした、近松門左衛門の時代の江戸時代中期や、2024年の歌舞伎町のシーンでは、格子状になっている同じ舞台セットを使い回すのだが、映像と照明でだいぶ印象を変えて演出していた印象である。同じ舞台セットでも、こんなに演出によって印象が違ってしまうものかと思った。
それ以外に目立った舞台装置は、「TAXI」と書かれた回転する車輪のような舞台装置。劇中盤から所々登場し、それが回転することでまるで輪廻転生を表しているように感じた。
また、「競技」の件で運動会の大玉転がしのようなシーンになった時の大小様々なカラフルな大玉が登場する演出も印象的だった。最初は運動会にしか見えなかったが、中央に黄色い巨大な大玉が固定されたことによって、ステージは太陽系の惑星に見えてきて面白い演出だった。昨年シス・カンパニーで上演された『いつぞやは』を思い出した。『いつぞやは』も舞台上に惑星が沢山登場したので。
アングラでファンタジックに装飾された舞台美術と、広々としていて役者たちが自由にコンテンポラリーダンスしやすい構造になっている舞台美術、寺山アングラの世界観を存分に詰め込んだ美術になっていて素晴らしかった。

次に衣装について。
衣装も寺山アングラ演劇の世界観を存分に反映させた衣装になっていた。
まず、寺山修司が妄想した劇団「天井桟敷」の劇団員たちの衣装だが、寺山アングラにいかにも登場しそうな、白塗りをしてボロボロの黒い衣装を着てコンテンポラリーダンスする様がとても印象的だった。ちょっと違うけど映画『クルエラ』の主人公のような、お化け屋敷に住んでいるお化けのような、そんな黒くて死人のような幽霊のような格好をした衣装がとても記憶に残った。
また、香取慎吾さんの衣装はいかにも寺山修司といった感じの衣装で、黒コートがとても似合っていた。寺山修司の顔写真と言ったら黒コートのイメージが強いので。一方で、凪七瑠海さんが演じる死が白い衣装という寺山修司と対照的な色の衣装であったのも興味深かった。普通「死」を想起させる色は黒であるはずなのだが、この作品では白であるというのが面白い。寺山修司と死の衣装の色を対照的にさせた理由はなんだろうか。寺山修司は死と対照的ということは、寺山修司を永遠の存在と演出したかったのだろうか。寺山修司の言葉というのは、どんなに時間が経とうとも後世の人々に響くものとなるという意味での永遠を表したかったのかもしれない。
さらに、2024年の新宿歌舞伎町のシーンに登場する家なき子たち、つまり東横キッズたちの衣装も素晴らしかった。たしかに、あんなメイド姿だったり派手なコスプレをしていそうな東横キッズはいそうである。渋谷とか新宿に沢山いそうな若者という感じがあった。そしてそれが寺山アングラの世界観とシンクロしていた点も興味深かった。

次に舞台照明について。
全体的に、役者に対して白いスポットが当たる照明演出が多かったように思えた。照明の吊り込み方も、ステージの天井に横一列にスポットが吊り込まれていて、そこから列をなして照明が当たっていた印象である。
また、とあるシーンでは客席にも白いスポットが当たる演出があって、まるで観客参加型の演劇であるようにも感じた。特にそれは歌のシーンが多くて、ちょっとコンサートのようにも感じられて良かった。ただ、若干客席への光量が強めに感じたのが気になった。眩しいと感じた観客もいたのではないだろうか。短時間しか当たらないので大問題には発生しないと思うが眩しかったのは事実だった。
あとは、舞台セットの中央上部に存在する電光掲示板のような豆電球で出来たセットの効果も素晴らしかった。あの電光掲示板のような照明を使って、映像の代わりにシーンの説明として演出しているのが印象的だった。たとえば、寺山修司が死を迎える時間を1983年5月3日と電光掲示板的照明で明示したり、江戸時代中期の人形浄瑠璃のシーンで月を表したり、2024年の歌舞伎町で「2024年」と表示させたりしていた。
また、2024年の歌舞伎町のシーンのネオンの照明も物凄く好きだった。たしかに、あのネオンによって私も新宿歌舞伎町を想起してしまう。ピンク色やブルー、黄色などカラフルに煌々と光る照明が良い味を出していた。

次に舞台音響について。舞台音響というよりは、音楽劇なので舞台音楽という方が良いのかもしれない。
劇中、15曲の歌謡曲が流れ役者たちが歌う。そのうちのほとんどが寺山修司が作詞をてがけた音楽である。いかにも1970年代のフォークソングとった感じがあって哀愁漂う音楽が多かった。私自身、あまり1970〜1980年代の音楽について詳しくないので、知っている曲はなかったのだが、いくつか印象に残った楽曲を取り上げる。
まず一番印象に残ったのが、この作品のテーマ曲といっても良いかもしれない『Come Down Moses』である。もうこの音楽が哀愁漂う感じで好きだった。サブカルを愛した昭和時代の若者が歌ってそうな、そんな曲を音楽劇として堪能出来て良かった。非常に耳に残る音楽だった。
あとは、現代の寺山がソロで熱唱していた『花がたみ』も好きだった。とても威勢のある楽曲で郷ひろみさんとか歌ってそうだなと思ったが、郷ひろみさんが歌っていたのはこの曲ではなく『君にお月さまをあげたい』だった。
そして、なんといっても香取慎吾さんのソロパートの見せ所だった『質問』も非常にグッとくる曲だった。香取慎吾さんの歌声はよく知っていたが、どこか良い意味で幼さみたいなのがあってそれが愛嬌にも繋がってきて魅力的である。そんな歌声に『質問』の歌詞が物凄くハマっていて、『質問』という楽曲を今まで知らなかった私にとっては、この曲の歌手は香取慎吾さんしか考えられないくらいだった。
『ひとりぼっちがたまらなかったら』で、宝塚歌劇団の凪七瑠海さんの力強い歌声によるソロを聞けてグッときた。この楽曲は、第二幕の最初の楽曲なので、この凪七さんの歌声で後半一気に没入出来た感じがあった。
また、第一幕の最後の楽曲が『あしたのジョー』なのだが、世代ではない私は『あしたのジョー』というアニメの存在だけ知っていて、曲も聞いたことなくて歌詞を寺山修司が作詞していることも知らなかった。
また生演奏も素晴らしかった。アンサンブルの方が様々な楽器を持ち寄って演奏する様も良かった。日下七海さんがまた琵琶を持っていて、そういった和楽器も似合う音楽劇に仕上がっていた。さらに、床を叩いたりと楽器でないものを使って生音を出す演出も沢山見受けられて印象に残った。
効果音に関しては、赤子の泣き声が印象に残った。しかもこれは、寺山修司が死ぬ直前に顕著だった。寺山ハツが赤子を抱いているので、赤子の頃の寺山修司の泣き声とも捉えられるが、寺山修司自身が死んで赤子の泣き声ということは死から生の流れにも捉えられて輪廻転生とも感じられた。

最後にその他演出について。
やはり輪廻転生を想起させる演出が多かったように感じた。先ほどの寺山修司の死に際に赤子の泣き声が聞こえるのも、「TAXI」と書かれた車輪が回転するのもそうだが、それ以外にも輪廻転生を想起させる演出があった。たとえば、平間壮一さん演じる三島由紀夫は、曜日が書かれた七つの色紙を床にばら撒く。曜日というのは日、月、火、水、木、金、土を繰り返すものである。そういう意味で輪廻転生の意味合いがある。また、寺山修司は夢曜日なるものを作って、その曜日に演劇を上演しようとする。これは、そんな循環する曜日と逸脱する曜日で、これはもはや時間という概念を超越したもののように感じる。また、曜日から派生して太陽系の惑星の話にもなる。宇宙だって、永遠に続く存在ということで輪廻転生でもあるような気がする。
また、唐十郎や野田秀樹といった寺山修司のアングラ演劇の後継者が劇中に登場するのも面白かった。唐十郎について、寺山の死んだ後も紅テントを貼って芝居をしているというのは普通にウケたし、年功序列的に唐十郎を通してから野田秀樹を通すという順序にも共感した。誰が演じていたのかよく分からなかったが、野田秀樹さんみたいな芝居をする方が一人アンサンブルにいた。ギャーギャーとしわがれ声を出しながら、ステージ上を駆け回るのはまさに野田秀樹さんにしか見えなかった。
また、寺山アングラ演劇は身体表現も重要な演劇要素の一つだけあって、身体表現能力の高いアンサンブルキャストの方ばかりで素晴らしかった。川原田樹さんや的場祐太さん、近藤彩香さん、水口早香さんなど、NODA・MAPのアンサンブルキャストとして出演されている、東京演劇道場の方も多数出演されていて、NODA・MAPの身体表現も取り入れられている点が興味深かった。そうか、野田さんも寺山修司のアングラ劇に影響を受けている劇作家かと思った。

写真引用元:ステージナタリー 「テラヤマ・キャバレー」公開ゲネプロより。


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

豪華キャストであることに加え、どのキャストも歌もうまいし身体表現能力も高いし、かなりハイレベルな役者陣を揃えてきたキャスティングで大満足だった。
特に印象に残ったキャストについて見ていく。

まずは、寺山修司役を演じた「新しい地図」所属の香取慎吾さん。香取さんの演技を劇場で拝見するのは初めて。
私自身が寺山修司という人物をよく知らないからこそ、香取さんのチャーミングな寺山修司役にも割と好感触を抱くことが出来た。逆に、寺山修司のことをよく知っている人たちからしたら、今回の香取さんの配役はいかがなものか感想を聞いてみたい所である。
香取さん演じる寺山修司は、アングラ演劇を手がける劇作家という側面よりは、正義感の強い主人公のような寺山修司だった。江戸時代中期の近松門左衛門による人形浄瑠璃『曾根崎心中』を観劇して、全然愛が伝わってこないことに違和感を感じ、2024年の新宿歌舞伎町にやってくると、その未来では自分が生前に残した言葉たちが失われて危機感を募らせた。このままではマズイという思いから、3本目のマッチで自分の母親への思いを演じる上演を披露する。自分が生きてきて感じた言葉を感情に思いっきりのせて演じようとする姿勢は、どこか正義感みなぎる感じがあって香取慎吾さんがまさに適任だったと痛感させられた。
また、母親に対する感情が少し子供っぽく甘えている感じになるのも、チャーミングな香取慎吾さんだからこその演技というのもあって良い効果だった。物語終盤で、夢の中で母のハツと寺山修司の上演は、香取さんの演技に備わる母性本能をくすぐる演技だったからこそ、観客の涙を誘うことが出来たのだと思うし、上手く寺山修司という人物像を香取さんに当てはめて演出されているなと感じた。
そして、先述した通り『質問』を歌う香取慎吾さんがとても魅力的で好きだった。香取さんが歌う『質問』は、サブスクで解禁されていたので早速ダウンロードした。

次に、蚊と現代の寺山役を演じた伊礼彼方さん。伊礼さんの演技は、2021年7月に帝国劇場でミュージカル『レ・ミゼラブル』でジャベール役を演じた以来の観劇となる。
朝の連続テレビ小説『らんまん』でも話題になった伊礼さんだが、非常にはっちゃけた伊礼さんの芝居がみられて大満足だった。特に、現代の寺山としての登場シーンで『花がたみ』をソロで歌い上げるシーンは最高だった。個人的には郷ひろみさんっぽさを感じた。
あとは、蚊という役が非常に興味深かった。寺山修司の死因は肝硬変とされているが、肝硬変という病気自体が輸血を最終的には必要とする病気らしく出血も多かったようである。蚊は血を吸う生き物、その蚊がメタファーとして寺山修司を蝕む肝硬変とも重なるあたりが興味深かった。死という存在もそうだが、蚊自身も寺山修司を死に追いやった存在であったので。あとは、蚊の登場シーンからして、寺山修司と母のハツとのシーンの後でもあったことから、血の繋がりという点でもリンクすると感じた。ハツと寺山修司は血で繋がっている。そんな脈々と受け継がれた血を蚊は吸ってしまう。それは、寺山修司が母との体験を通じて残そうとした言葉たちを蚊が吸ってしまう、つまり無きものにしようとする存在にも見えた。蚊という設定を描いた池田亮さんの腕に震えた。

次に今作で最も印象的だったのが、現役の宝塚歌劇団に所属する凪七瑠海さんが演じる「死」。凪七さんの演技を拝見したのは初めてだった上、私が今作を観劇した回の直前まで出演休止されていたので無事観られて良かった。
死という性別も年齢もない超越した存在を物凄く力強く演じていて素晴らしかった。まるで男性のように力強く演じるその姿は、まさしくタカラジェンヌといった感じで重みがあった。
寺山修司の周囲にいるのは、彼が夢の中で作り出した劇団「天井桟敷」の劇団員なので、どこか個性というよりは群がって存在しているように感じたが、死というのは寺山修司に対して単独で影響を及ぼす役。その存在感を存分に発揮していて素晴らしかった。
また流石はタカラジェンヌというのもあって、『ひとりぼっちがたまらなかったら』をソロで歌い上げる迫力がすごかった。もはやミュージカルを観にきている感覚で、贅沢な観劇体験だった。

暴言、三島由紀夫、徳兵衛を演じた平間壮一さんも素晴らしかった。平間さんは、2023年3月に東宝ミュージカル『RENT』で拝見している。
平間さんは特有の声色を持っていて、どこかはハスキーな所が凄く好きである。今作でも、すぐに平間さんだと分かるあたりがすごく印象に残って好きだった。また、今作のコミカルなシーンを色々担当されていてエンタメとして楽しめた部分もあった。
暴言の格好も好きだった。両肩を露出して、胸に包帯のようなものを巻いて、どこか学生運動の頃の学生を彷彿させる力強い若者に感じた。

アパートや寺山修司の母である寺山ハツなどの役を演じた村川絵梨さんも素晴らしかった。村川さんの演技は初めて拝見する。
お金がなく女手一つで寺山修司を育ててきたという感じの、か弱くもたくましい印象を受ける寺山ハツが素晴らしかった。特に終盤の寺山修司とハツとのやり取りには涙なしでは観られなかった。お金がなくて娼婦をやりながら、アパートでひっそりと寺山修司を育ててきた生活が、あの描写から色々とイメージされて、凄く普遍性を感じる物語に思えて涙した。それと同時に、その寺山修司と母との愛情が観客に伝わっていくこと自体にも意味があって、それが伝わるからこそ寺山修司が残した言葉も失われずに済むし、寺山修司が死んだとしても永遠に残るのだなと感じてさらに涙した。演劇って良いなとつくづく思えた。

写真引用元:ステージナタリー 「テラヤマ・キャバレー」公開ゲネプロより。


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

ここでは、今作の脚本とメッセージ性について考察する。

寺山修司は、1935年に父親・寺山八郎、母親・寺山ハツの子供として生まれている。父親の寺山八郎は戦争へ行ってしまって1941年にそのまま戦死してしまう。そして母親のハツは、1941年に6歳の寺山修司を青森市の親戚に預けて九州に働きに出てしまう。それから終戦後もしばらく寺山修司は母親のハツと一緒に暮らすことなく、ずっと親戚の元に育てられることになる。
そして寺山修司が25歳になるまで、母親のハツと一緒に暮らすことはなかったのだが、その頃には寺山修司自身が「家出のすすめ」で封建的な血縁関係から逃れて、個人として自立することを説いていたので、どこか母のことを恨んでいたことも窺える。寺山修司がハツと同居することになって、母親との接し方に戸惑ったそうである。
だからこそ、寺山修司の作品群には、そんな母親に対する愛憎がひしめき合う作品が沢山並んでいる。今作の劇中歌にも使用されている『時には母のない子のように』の歌詞には、もちろんこの歌詞も寺山修司が作詞しているのだが、どこかで母親を求めていることが窺える歌詞になっている。
つまり、寺山修司本人は、ずっと母親ハツの愛情が注がれずに育ってしまったが故に、ずっと母親との愛情を求めて作品作りをしてきた劇作家であることが窺えるのである。そして、このことを踏まえると今作への解釈や考察もだいぶ変わってくることかと思うので、そちらについて解説・考察していく。

寺山修司は、1983年5月3日の死に際でも、母親からの愛情が注がれなかったこと、親子愛を知らなかったことに対するコンプレックスは抱えていたことであろう。そこへ肝硬変という病による死が訪れる。自分が生前に紡いできた言葉を信じていたが、寺山は自分の命が僅かであり死への恐怖を感じることになる。
死への恐怖というのはさまざまにあるとは思うが、おそらく今作を通じて寺山が死に対して一番恐れたことは、自分が生前残してきた作品や思想による言葉が自分の死によっていつかは失われてしまうのではないかということに感じた。寺山修司にとって、彼が残してきた言葉こそが彼の生き様そのものだから。その言葉が失われるということは、彼が生きた痕跡そのものが無くなってしまうことに思えたからなのではないかと思う。

寺山修司は、死から授かった3本のマッチの1本目によって、江戸時代中期の近松門左衛門による人形浄瑠璃『曾根崎心中』の稽古場に行く。
なぜ池田さんは、寺山修司が最初に飛んだ過去を『曾根崎心中』の稽古シーンにしたのかはよく分からなかった。『曾根崎心中』で最後心中するお初と、寺山修司の母親のハツが重なるというのは関連しそうなのだが、その相手役である徳兵衛は、寺山修司が誰のことと置き換えてイメジネーションしたのか分からなかった。
しかし、確実に言えることは、江戸時代中期に創作された脚本は、時間が経ってしまった1983年では全く愛を感じられない言葉になってしまったと、寺山自身は捉えたということである。ここで面白い演出だと感じたのが、私たち観客も寺山と同じ立場で、人形浄瑠璃として上演された徳兵衛とお初の心中物語に、何も心を動かされなかったことである。
逆にそれによって寺山は恐怖した。いつか自分が残した言葉たちも、時間が経ってしまうと近松門左衛門の『曾根崎心中』のように、誰にも響かない愛を感じない作品になってしまうのではないかと。

次に寺山は、2024年の新宿歌舞伎町にやってくる。寺山が死んでから40年の月日が過ぎた未来である。新宿歌舞伎町には家なき子と劇中で言われていた、いわゆる東横キッズたちが屯していた。
東横キッズたちは、SNSを使ってコミュニケーションを取っていた。そこで使われる若者言葉に、寺山は自分の言葉がそこには残っていないことに気がつき呆然とするのである。家出女たちが寺山修司という人物について知らないと答えただけではなく、彼が残してきた数々の言葉の魅力すらも知らないで育ってしまっていたのである。
ここで重要なのは、東横キッズたちと寺山修司に関しては、親に見捨てられた者という共通項がある。東横キッズの多くは、家に居場所がなくなって歌舞伎町に集まって暮らすようになっている。家庭環境が荒れていたりすると子供はそんな家庭にいたいとは思わない。家庭に居場所がないからこそ歌舞伎町に集まらざるを得なくなっているのである。そしてそんな境遇は、母親のハツに愛されてこなかった寺山修司と通じる所があるのである。

そんな未来の事実を知った寺山修司は、何をしようとしたのか。寺山修司が死ぬ直前、自分の肉体が存在している間に出来ることはなんだろうか。それは、寺山修司自身の体験を踏まえて、親子の愛の大切さを言葉にして演劇と歌にのせて観せるということにたどり着いたと私は今作を観ていて捉えた。
寺山修司をただのアングラ演劇を上演する劇作家だと捉えて、「家出のすすめ」を説いて家族を否定する人物だと思っていた方がいたのなら、この着地点はおそらく予想外のものに写っただろう。
2024年を生きる現代人に届けられる言葉、それは寺山自身が経験した、ずっと切望し続けた親子愛を語ることだったのだろう。

そして、そのハツと寺山修司との親子愛の夢は、現代の観客に届いて心動かされることによって初めて成功したと言える。寺山自身は、自分の言葉が未来の人々に届くのだろうかとずっと恐れていた。だから死を怖がっていた。しかし、その寺山の言葉が演劇と歌の力によって2024年の観客に伝わることによって、その言葉が寺山が死んでも失われることなく永遠になったということなのである。
それを感じて、私は改めて演劇と歌の素晴らしさを痛感した。時間とともに死にゆく言葉に命を吹き込むのは演劇と歌であることを。
寺山が擦った3本目のマッチ、それが最後に燃え尽きて上演は終了する。きっとこの3本目のマッチによって上演され、死に観せた演劇というのは、『テラヤマキャバレー』という作品そのものだったのかもしれない。私たちは、むしろ死という存在と同じ立場に立って、寺山修司の死に際の夢の中の上演を見せられていたのかもしれない。

この作品は、東横キッズたちにも観て欲しいなと思った。彼らがこの作品を目にした時、何を感じ、何を思うのだろうか。寺山修司が残してきた言葉が伝わるのだろうか。
そんな素晴らしい作品を書けてしまうゆうめいの池田亮さんは、岸田國士戯曲賞にノミネートされるだけある腕のある劇作家だと思ったし、それを演出してしまうデヴィッド・ルヴォーさんも凄い演出家だなと感じた。

写真引用元:ステージナタリー 「テラヤマ・キャバレー」公開ゲネプロより。


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