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舞台 「ハートランド」 観劇レビュー 2023/04/29


写真引用元:ゆうめい 公式Twitter


写真引用元:ゆうめい 公式Twitter


公演タイトル:「ハートランド」
劇場:東京芸術劇場 シアターイースト
劇団・企画:ゆうめい
作・演出:池田亮
出演:相島一之、sara、高野ゆらこ、児玉磨利、鈴鹿通儀、田中祐希
公演期間:4/20〜4/30(東京)
上演時間:約2時間(途中休憩なし)
作品キーワード:コロナ禍、メタバース、フィクション、家族、ヒューマンドラマ、映画
個人満足度:★★★★★★★☆☆☆


脚本家・演出家の池田亮さんが主宰する劇団「ゆうめい」の新作公演を観劇。
「ゆうめい」の舞台作品は、2021年5月に東京芸術劇場で上演された『姿』、2021年12月に下北沢ザ・スズナリで上演された『娘』に続き、1年4ヶ月ぶり3度目の観劇となる。
東京芸術劇場が劇団に上演の機会を提供する提携公演「eyes plus」に、今年は「ゆうめい」が選出されたので観劇することにした。
「ゆうめい」は、過去作では池田さん自身や家族の実体験から物語を立ち上げてきたが、今作ではフィクションを描く。

物語は「ハートランド」という名前の、山奥にあるプレハブ小屋のような駆け込み寺を中心に進んでいく2023年春の話である。
この「ハートランド」はかつて、腕のある有名監督の映画『ハートランド』のロケ地としても知られている。
久しぶりに、その有名映画監督の息子であり、同じく映画監督の岡正樹(鈴鹿通儀)と映画『ハートランド』に出演していた女優の相葉三映(児玉磨利)がこのプレハブにやってくる。
さらに、「ハートランド」のことをよく知っている常連客の江原幸子(高野ゆらこ)や、画家の羽瀬川仁(田中祐希)もやってきて鍋パーティを始める。
しかしコロナ禍に入って静まり返っていたプレハブ「ハートランド」には、海外から移住してきた元教師の須田学(相島一之)や、台湾生まれのユアン(sara)が密かに住み始めていて、彼らはAR機器を使ってメタバース空間で生活を送っているというもの。

ネタバレにもなり得るのでぼかして記載するが、今作で一番主張したいことは、どんなエンタメ・芸術作品にしろ、何か作品のベースとなる実体験があって、その作品が公に発表されることで美化され、世間に広まっていくことでそういった事実は多くの人に伝わっていくが、実体験として苦しむ当事者たちにはなんの見返りもないのに、クリエイターたちだけが名声や資金を受け取って得をしていく、いわば他人の経験を奪って自分の肥やしにしているという批判なのかなと思う。
この批判は、今作の脚本・演出を手掛けた池田さんの過去作の創作に対する自己批判でもあって、過去の「ゆうめい」の作品を知っている私からすれば非常に興味深い落とし所に思えた。
この主張によって、そういった実体験ベースの作品を創作するクリエイターだけでなく、作品をエンタメや娯楽として楽しむ観客に対しても罪悪感を抱かせるテーマになっているので、観劇したあとの後味の悪さがあった。

そういった意味で、今作は非常に賛否両論の分かれる作品なのかなと思う。
ただ、私個人の感想としては今作は素晴らしかったというポジティブな感想が全体として強い。
私たちがまさに今体験しているコロナ禍によるマスクするしないの二項対立や、AR・VRといったメタバース空間をシナリオとして演劇作品に落とし込むやり方、NFTの登場など、昨今の流行やトレンドを適切に劇中に落とし込んでいて、かなりの挑戦作に感じられて、良い意味で誰もやったことがない攻めた演出手法で好きだった。
その分情報量が多すぎて、観客の集中力と理解力が試される部分もあるので好き嫌いはあると思うが、そこを思考を巡らせて解釈していく余地が沢山あって私は観劇していて楽しかった。私も観劇後に戯曲を買って読んで、観劇で捉えきれなかった箇所を取りに行こうとして、結局全部理解出来た訳ではないが、それでも考えさせられる箇所は沢山あったし、十分に楽しむことが出来た。

今作で一番画期的だと思ったのが、演劇作品でAR・VRといったメタバース空間を是とする思想が描かれている点。
演劇業界全体を見ると、やはりLIVE感やリアルの良さを主張する意見が圧倒的に多く、オンラインやメタバースのような擬似空間を揶揄する風潮が少なからずある。
しかし今作では、リアルの現実世界も肯定的に描きながら、メタバース空間に対してもまた違った良さがあることを認めている点に素晴らしさを見いだせた。
なかなか革新的な描写なのではないかと思う。

情報量が多くて、容赦なく置いてきぼりを食らうと思うので、内容を理解するのは至難の業かもしれない。
しかし、間違いなく今までにない演劇作品にトライしてきた池田さんの挑戦は素晴らしいものだと思うし、そんな作品を観劇できて良かったと思う。多くの人にオススメしたい。


写真引用元:ゆうめい 公式Twitter


【鑑賞動機】

もちろん、「eyes plus」参加作品だからという理由もあるが、「ゆうめい」の前回の新作公演が2021年の12月なので、そこから1年4ヶ月あまり時間をかけて新作公演に臨んだということで興味があったので観劇した。
さらに口コミでは、今までの「ゆうめい」と全く違うという意見も多かったので、非常に気になっていた。期待値は高めだった。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇して得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

客入れ中、ステージにある巨大スクリーンに、今映画館で上映されている映画の予告編が流れる。映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』など数本の映画の予告編が流れる。
そのままスクリーンには、百万回生きたねこに似せた絵による映画館での注意事項映像が流れる。そして、「NO MORE 映画泥棒」の映像(おそらく本物)が流れている最中に、客席から「映画泥棒!」と叫ぶ声がする。一人の男性を取り押さえながら男性が客席からステージに駆け上がる。そのまま、映画『ハートランド』の上映がスクリーンでは開始されている。
途中で映像は消えて、上から吊り下げられていたスクリーンが落ちる。スクリーンがなくなったステージには、カフェのような喫茶店のようなバーのような空間がセットされている。舞台監督とスタッフの羽瀬川仁(田中祐希)がやってくる。羽瀬川は舞台監督に叱られながらスクリーンを撤去する。

2023年春、相葉三映(児玉磨利)と岡正樹(鈴鹿通儀)がプレハブ小屋「ハートランド」にやってくる。二人はマスクをしている。「ハートランド」の入り口の扉が重く、開けるのに二人とも苦戦する。岡正樹は映画監督らしく、スマホでずっと相葉を撮影し続けておりスマホを片手に会話している。
二人は久しぶりに「ハートランド」を訪れたようで、ここが岡正樹の父親である映画監督の岡敦司が手掛けた映画『ハートランド』のロケ地だったことを話している。相葉は、かつてこの「ハートランド」の常連客のはっさんという人が、とあるフィギュアを大事にしていて、そこに精液をかけ続けて持ってきたことがあるというエピソードを話す。その後相葉は少し席を外す。
一人になった岡のところに、ヘッドホンを付けた一人の女性(名前はこのときは明かされていないがユアン・フイミン(sara))がやってくる。そして、岡の元へ猫のフィギュアを置いていく。その代わり、本棚から「いないいないばあ」の絵本を持っていく。

相葉が戻ってくると共に、「ハートランド」の玄関から江原幸子(高野ゆらこ)がやってくる。江原はマスクをしていない。江原は、自分の自己紹介にCMの「江原焼き肉のタレ」を使って紹介する。
相葉と江原は、岡の手元に猫のフィギュアが置いてあることに気が付き驚く。このフィギュアどうしたのかと。岡は見知らぬ女性がやってきて持ってきたと説明し、素手でその猫のフィギュアを触る。相葉と江原は慌てて、そのフィギュアこそ相葉が先程話した精液のついたフィギュアであると言う。岡は慌てて箸でそのフィギュアを掴む。
さらに「ハートランド」には、羽瀬川仁がやってくる。羽瀬川もマスクをしていない。羽瀬川は画家をやっているようで、以前もこのプレハブに世話になっていたらしい。羽瀬川と江原はカセットコンロを準備して鍋パーティーの準備をする。ハートランドなどのビールの準備もする。そして4人で乾杯する。
羽瀬川は相葉と岡にとっととマスクを外すように言う。そして羽瀬川は、二人にワクチンを何回打ったか聞いて、相葉は2回、岡は5回というと、もう打たなくて良い、自分は打ってないと言う。
相葉は映画女優であり、岡親子の映画に出演していることを言う。もちろん、映画『ハートランド』にも出演している。岡正樹は、自分が映画監督を志そうと思ったきっかけを話す。父が映画『ハートランド』を製作してその試写会に行ったとき、たまたまその回に映画を無断で盗撮して海外に海賊版として公開する男を発見して取り押さえたのだそう。人の作品を無断で無料で海外に公開するなんて許さないと思い、そこから映画監督に目覚めたのだと言う。そして、そこから岡は父親の映画撮影現場に顔を出すようになり、相葉と出会う。しかし、相葉は父親の不倫相手であることを知り、相葉と父親のその不倫関係のドキュメンタリー映画を撮影していると言う。
その岡の映画撮影に、江原も羽瀬川も難色を示す。なんか気色悪いと言って、気まずい雰囲気になる。

そこへ、まるで幽霊のようにふらっとユアンが部屋へ入ってくる。江原と羽瀬川は現れた!と思わんばかりに彼女を凝視する。そして何事も発さずにユアンはいなくなる。岡は、その女性が先ほど猫のフィギュアを持ってきた女性だと言う。
江原はユアンのことについて話す。ユアンは台湾生まれの女性で、妹の方が歌が上手くて母親に好かれ、自分は母親に嫌われて家庭内に居場所がなくてこの駆け込み寺に逃げてきたのだと言う。台湾にいたとき、自殺する寸前だったという。
さらに江原は、ユアンのあとにスーさんという男性もこの「ハートランド」に駆け込んできて居候していることを話す。ユアンとスーさんは、二人でARを使ってメタバース空間で何かしているのだと言う。ユアンはどうやらポケモンGOのようなゲームをしているようで、突然「光るメッセージを発見しました」のような音声が聞こえてくるのだと言う。

その間、岡はどんどん酒を飲むペースが早くなっていて、ベロンベロンになっている。カセットコンロのガスが無くなったといって江原は席を立つ。その間に岡は「ハートランド」を抜け出してしまい、それを羽瀬川は追いかける。羽瀬川は、先程の岡への無礼を侘びて、自分はどうしても集団でいると意地悪なキャラになってしまうのだと言う。そして羽瀬川は、パスワードのような数字では絶対開くことが出来ない秘密基地があるのだと、岡を案内する。

「ハートランド」に残った相葉の元に、ユアンがやってくる。ユアンは無言で相葉にVRゴーグルを渡す。相葉はVRゴーグルを通じて、そこにはモッタイさんというかつての「ハートランド」に憩うメンバーだった画家の遺書を見つける。それを見て驚く。
江原が戻ってくる。今近所で映画『ハートランド』が上映中らしいとのことで気になっている。相葉はユアンがVRゴーグルを渡してモッタイさんの遺書を差し出してきたことを江原に告げる。そしてユアンはモニターに、モッタイさんの創作した映像を流す。江原はすぐに消すように支指示するが、ユアンは明日の朝6時には見られなくなってしまうからと止めない。
そこへスーさんこと須田学(相島一之)がやってくる。須田は、先ほどいた岡という映画監督が須田のカメラを蹴飛ばしていたと聞き、岡はどこにいると尋ねる。岡は羽瀬川と秘密基地にいったと悟り、須田は外へ出て岡と羽瀬川を追いかける。
江原は相葉に須田のことについて話す。須田は妻子がいたのだが、いかんせん須田が日本と海外を行き来する危ない仕事をしていて警察に捕まったことがあった。そこから釈放されてから、妻は病気で亡くなってしまい、息子が行方不明になった。その息子がこの駆け込み寺に来ていたという噂があって、ここに須田は居候しているとのこと。
そして相葉はその話を聞いて、その須田親子の事実は映画『ハートランド』のストーリーに似ていると気がつく。それを江原に話して、江原はなら映画は観なくていいかと言う。

岡と羽瀬川は、秘密基地で語り合っている。そしてそこでマリファナを吸っていた。ここならバレないだろうと。しかし、そこには須田も追いかけてきていて、その二人がマリファナを吸っている光景を密かにスマホで撮影していた。
岡と羽瀬川が秘密基地から出ると、今度は羽瀬川はガムのようなものを取り出す。羽瀬川は、このガムを噛めば自分が臨んだものになることができると言う。何になりたいかと岡に尋ねると、岡はマキマさんになってユアンに近づきたいと言う。どうやら岡は、最初ユアンと出会ったときに、ユアンが自分に手を振ったように見えたらしくそれで好きになってしまった。また羽瀬川はマキマさんというのは誰なのか分からなかった。
二人はガムを噛んで自分のなりたいものになりきり、暴れる。

羽瀬川は人足先に「ハートランド」に戻ってくる。江原は、先ほどのモッタイさんの遺書のことでよく分からなくなっていて羽瀬川に色々尋ねる。羽瀬川は説明する。先ほどの精液をかけた猫のフィギュアが、実はNFTで高額で売れたことを伝える。江原はNFTのような最近の流行りにはついていけてないよう。そしてそれが高額で売れたのはユアンの進言による所が大きかったのだそう、だからはっさんを結果的にユアンが救ったのだと言う。
羽瀬川は、はっさんからの手紙を読み上げる。はっさんは、子供時代のとき江原を含め同級生から「汚物顔のはせがわ」と、CM「お仏壇のはせがわ」の替え歌でいじられ非常に傷ついていた。だから江原のことが嫌いだったが、それは昔の江原のことで今の江原のことはそうは思っていないと。そのいじめから、はっさんはずっと江原が大好きだった「百万回生きたねこ」の猫のフィギュアにずっと精液を掛け続けていた。しかし、NFTでその精液のかけた「百万回生きたねこ」のフィギュアが高額で売れた。それによって、大金を掴んだはっさんはここから脱出出来た。
江原は激怒する。はっさんをいじめていたのは私だけでなく進学組の方がひどかったと。自分だって、早く結婚しろと親から言われて、苦しかったのだと言う。江原は「ハートランド」を出ていく。

岡も「ハートランド」に戻ってくる。岡はチェンソーマンのマキマさんになって上半身裸となる。
ユアンがやってくる。岡はユアンに、先ほどはどうして自分に手を振ったのかと尋ねる。ユアンは反応しない。そこに須田もやってくる。そして岡が映画監督岡敦司の息子だと知って、襲いかかる。
岡はその前に、ラジカセからGIPSY KINGSの『Volare』を流していた。音楽がかかりながら、岡は須田にズボンも脱がされてパンツ一丁にさせられていた。

須田は、岡に犬の首輪のようなものを付けて、海岸近くの小さな丘にやってくる。モッタイさんの遺書があるとされている場所である。須田は岡と取っ組み合う。須田は、自分は岡敦司に自分の家族のことについて無断で『ハートランド』という映画にされて、岡敦司自身は金と名声を得た。しかし、自分にはなんの見返りもなかった。それは映画に登場する人物は、自分なんかよりも皆輝いていて綺麗な顔立ちかもしれない。しかし、そうやって勝手に自分の人生を盗んで作品化するのは、人生泥棒じゃないのかと叫ぶ。
須田は岡に殴りかかり、岡はマキマさんになって斬りかかる。その様子を相葉が発見して、スマホで撮影を始める。

その時、ユアンは「ハートランド」でメタバース空間においてQueenの『Somebady to love』を歌っていた。そしてそれを歌い上げると、メタバース空間で拍手喝采を受けていた。
羽瀬川は、スマホでユアンがVtuberとして歌を歌っている姿に感激して推し活をしている。ユアンは、リスナーに向けて何かリクエストがあるかと質問する。そこで、ユアンは「いないいないばあ」の絵本をリスナーに読み聞かせることになる。
一方で、須田は海岸近くの小さな丘からメタバース空間を通して何か光ったものを見つけたらしく、そちらに向かって歩き出す。この丘は、モッタイさんの遺書とともに、自分の息子の遺書も埋められているかもしれない場所、その遺書を探そうと須田は必死だった。ここで上演は終了する。

改めてストーリーを書き出してみると、色んな要素がてんこ盛りで一度に観劇して全てを理解するのは不可能だろうなと感じる。私は戯曲をその後読んでみたが、それでもいまいち全てのストーリーが繋がって解決している自信はない。
細かいストーリーの考察に関しては考察パートで触れることにする。がしかし、それにしても劇中に登場しない人物が沢山いて、はっさんだったり、モッタイさんだったり、岡敦司だったりと沢山いて非常に混乱した。一応事前に当パンの人物相関図に目を通してはいたものの、情報量が多いので、把握しきれなかった。結果、観劇中はだいぶ置いていかれた。
しかし、登場人物を逐一理解していなくても、今作のテーマというのは伝わってくるし、楽しめない訳ではない上、非常に挑戦的なことをしていて面白い要素が沢山あったから良いが、脚本に関してはもう少し情報量を削った方が良かったかなと個人的には感じた。ここまで多くの人物を使って伏線回収的にミステリーを描く必要があったのかは疑問である。
もう少しシンプルにして、今作で伝えたい一番のメッセージにフォーカスさせた方が作品としてスッキリして良かった気がした。描きたいテーマとしては岸田國士戯曲賞射程圏内だと思うが、脚本の難解さ、複雑さが少し悪い方向に働いている、結構無駄な設定や伏線もある気がするので、そこをどう有識者たちが判断するかかなと思う。
扱うテーマとしては素晴らしかった。

写真引用元:ゆうめい 公式Twitter


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

おとぎ話に登場しそうなメルヘンな舞台美術でとても好みだった。その上、今までお目にかかったことがないような演出ばかりで斬新な部分も沢山あって、一生忘れない観劇体験が出来たと思う。
映像、舞台装置、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。

まずは映像について。このスクリーンを使った演出がなんとも斬新で、この観劇体験は決して忘れることはないだろう。
客入れ中は、まず映画館に来てしまったのかと思わせる感じの、巨大なスクリーンがステージ上に吊り下がっていて、舞台美術は全く見えない感じになっていた。そこに今上映中の映画の予告編が流れる。今作の出演者が出演しているものだかでなく、日本のインディーズ映画なら対象になっているみたいでまるでインディーズ映画館のよう。シンプルに映画の宣伝にもなるのでマーケティング的にも素晴らしい。
そこから、まるでこれから映画でも始まるのかといった始まり方。映画館での注意喚起的なアニメーション映像が流れる。百万回生きた猫のアニメーションを使いながら、スマホ禁止、椅子を蹴る禁止が喚起される。が、これは観客への劇中での注意喚起でもあると同時にもう既に上演が開始されて、この映像自体も作品中の伏線になっているというカラクリ。
そこから、実際の映画館で流れる「NO MORE 映画泥棒」の映像と全く同じものがスクリーンを通して流れる。しかも、それと同時に客席側から「映画泥棒!」という叫び声とともにスマホによる光が客席からちらつき、二人の男が客席からステージ上に上がって、一人の男がもうひとりの男を取り押さえる演技。そのままスクリーンでは、映画『ハートランド』が上映開始している。そしてそのまま、映像が途中で消えて、スクリーンが落ちてきて、一連の映像による演出が終わる。
何から何まで見たことがない演出だったので度肝を抜いた。それと同時にこれから何が始まるんだというワクワクと興奮が最高値まで高まって大満足だった。これを考えついた池田さんは天才としか言いようがない。
また今作が映画のように始まったかと思えば、スクリーンはないにしろラストも映像によってエンドロールが流れることで終わっている。まさに演劇と映画が融合したかのような演出で斬新だった。そしてそれは、池田さん自身が、演劇は演劇、映像は映像と棲み分けをするのではなく、両方の側面の良さを上手く作品に消化している姿勢という意味でも一貫してて良かった。それが、現実空間とVR空間の二つを並列に描いて物語を進行させる大枠とも繋がってくる。
こんな映像の使い方をする演劇は初めてお目にかかった。とても挑戦的で何かの先駆者的な作品になること間違いなしだろう。

次に、舞台装置について。
スクリーンが床に落とされると、まるで幕が一気に降ろされて舞台美術が一気に客席にお披露目されるかのように登場する。全体的におとぎ話に登場するお家のような感じでメルヘンである。
下手から上手に向かって大きく分けて3つのエリアが横一列に存在する。一番下手側のエリアが最も高さがあって、一番下手にはなかなか開けるのに苦戦する重い扉、その上手には絵本が沢山並べられた本棚があり、その上手にはバーカウンターのようなものがあって、ラジカセなどが置かれている。そして上手に行くと一段下がって鍋パーティーが出来るちゃぶ台のあるエリアがある。そしてそのさらに上手には一段下がってモニターが置かれたエリアがある。この一番上手のエリアは、ユアンや須田が居候してVR空間に熱中できるエリアとなっていて、他の2つのエリアとは異質な空間となっている。そのため、この2つ目のエリアと3つ目のエリアの境界には、実際には何もないのだけれど見えない分厚い壁があるように感じた。このVRに熱中出来る空間の天井からは、メルヘンなデザインの吊り下げ照明が設置されていた。
また、一番下手側のエリアは高台になっているので、その下に巨大な空間があって、そこもステージとして使用されていた。まるで巨大な引き出しのようなローラーのついた扉があって、そこが羽瀬川の秘密基地になっていた。そこから秘密基地として使われる引き出し部分を除いてしまえば、そこにはぽっかりとしたトンネルのような空洞が出来上がる。そこは、ラストのシーンでモッタイさんの遺書があるとされる海岸近くの小さな丘に通じる通路として描写される。
今までの「ゆうめい」の過去作品も観てきて思ったが、本当に「ゆうめい」の舞台美術は趣向が凝らされていて、これは一体どういった発想によるものなのだろうと驚かされる。単純にステージを用意して芝居をするのではなく、ギミックが沢山用意されていてそれらを上手く使って創作するのでセンスが光っている。

次に舞台照明について。
特に今作では目立った照明はあまりなくて、終始メルヘンな世界観を醸し出す黄色く不気味な照明が多かったように思える。羽瀬川と岡の二人で秘密基地に向かう夜のシーンは、月夜を想起させる照明だった気がするがそのくらいである。
一番照明演出で目立ったのは、GIPSY KINGSの『Volare』が流れるシーンで天井のミラーボールが光ってカラオケっぽくゴージャスになった演出くらい。

次に舞台音響について。
「ゆうめい」の舞台作品は、いつも観客に馴染みのある歌謡曲や音楽が登場する。『姿』(2021年5月)だったらモーニング娘の『ハッピーサマーウェディング』が流れ、『娘』(2021年12月)だったら小田和正の『愛を止めないで』だったり。今作では、GIPSY KINGSの『Volare』とQueenの『Somebady to Love』が流れていた。
GIPSY KINGSの『Volare』は、おそらく「ハートランド」で失踪したマスターがよく流していた音楽だったのだろう。ラジカセに入っていたということはそうだろう。よくビールのCMでも使われていた馴染みのある誰もが一度は聞いたことがある音楽だったので、多くの人に懐かしさを感じさせたことだろう。
それと、Queenの『Somebady to Love』も良かった。あの曲を声高らかに歌い上げるsaraさんの歌声が素晴らしかった。そのことに関しては、キャスト・キャラクターの項目で記載する。この選曲も、多くの人に馴染みのあるQueenの曲なので色んな感情がこみ上げてきて好きだった。

↓GIPSY KINGSの『Volare』


↓Queenの『Somebady to Love』



最後にその他演出について。
今作では、ファスト映画や海賊版など作品を著作権を無視して違法でコピーして利益を得ようとしている人々がいる映画泥棒の存在を描いているが、実際には犯罪ではないけれど、一般の人だって無意識的に人の創作物を転用していることを強調して描いているように思える。例えば、はっさんが「お仏壇のはせがわ」のCMの替え歌で「汚物顔のはせがわ」といじられる回想があるが、あれだって立派な著作物の盗用である。さらに、江原が言っていた「江原焼肉のたれ」も同じである。このように、人々は無意識的に海賊版を作成するまではいかなくても人が作った創作物をアレンジしたり転用したりしていることを風刺しているようにも思えた。
あとは考察パートでも触れるが、メタバース空間をVRというギミックとして登場させるのではなく、しっかりとシナリオとして組み込んで現実世界との対比として描きながら肯定していく描写に素晴らしさを感じた。ユアンや須田がVRゴーグルをして何がメタバース空間で起こっているかわからないけれど、彼らのリアクションから観客はそこで起こっている出来事を想像するしかない。その想像するという解釈の余地を残す描き方は非常に演劇的で映像作品ではなかなか実現しにくい部分かなと思った。
伊藤亜紗さんとのアフタートークでも話されていたが、今作では劇中に台詞だけ登場する人物が沢山存在する。はっさん、モッタイさん、マスター、岡敦司、ノーン、ユアンの母、妹など。演劇にはそういった登場しない人物を描く良さがあるとアフタートークでおっしゃっていた。たしかにごもっともだと思うが、今作の場合はそれにしてはその登場しない人物が多すぎて、そこまで思考が巡らせられなかったなと感じた。そういった意味では、2022年4月に上演されたロロの『ロマンティックコメディ』の方が成功しているなと感じた。また、そこに関しては映画でも不在の人物を描くことは可能だと思っているし、演劇の方が映像で示せない分会話から連想するしかないので、想像力をより掻き立てられる程度かなと思っている。

写真引用元:ゆうめい 公式Twitter


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

「ゆうめい」の作品ではお馴染みの俳優さんたちに加え、相島一之さんやsaraさんといった豪華なキャストたちも出演されていて、「ゆうめい」も益々飛躍していっているように感じられる顔ぶれだった。
6人しか俳優がいないので、全員についてここでは記載する。

まずは、須田学役を演じた相島一之さん。相島さんを舞台で演技拝見するのは初めて。
前回の「ゆうめい」の新作公演であった『娘』(2021年12月)では、大人計画所属の宮崎吐夢さんを客演に迎えて上演していたが、このようにベテラン俳優を客演する流れは「ゆうめい」の新作公演では定着したのだろうか。
三谷幸喜さんとも仲が良いベテラン俳優の相島さんだったが、今作では自分の家族のことについて映画『ハートランド』で無断で映画化されてしまって、それに憤りを感じて無断撮影して海賊版を海外に公開する男の役だったが、凄く演技が狂気じみていて好きだった。あの威圧感と、岡親子に対する復讐心というか、その怒りというものに恐怖を凄く感じられる演技で非常に迫力があって好きだった。
凄く失礼な言い方だが、今作の相島さんは映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンにも見えた。あの、何かを探し求めている感じの獰猛な顔つきから連想されて怖かった。

次に、台湾生まれのユアン・フイミン役を演じたsaraさん。saraさんは、文学座の準座員でミュージカルを中心に舞台女優として活躍されている。saraさんの演技を拝見するのは初めて。
もちろん褒めている感想だが、saraさんはVRゴーグルを付けている姿がとても似合っていた。そこに近未来的な可愛さがあって非常にはまり役だと感じた。
そしてなんと言っても、一番グッと来たシーンはQueenの『Somebody to Love』をVR空間上で歌い上げるシーン。まず歌がめちゃくちゃ上手い(これはsaraさん自身の歌声がという意味で)というのもあるが、ユアンという役柄として、ずっと台湾での妹の歌の上手さには及ばず母親からも酷い仕打ちを受けてきた。決して自分の歌声を家族の前で披露するものではなかったと思う。しかし、こうやってVR空間という居場所を見つけて、自分が本当は叶えたかった夢、つまり歌を歌うことを叶えていて、こんなに清々しいことはユアンにとってないだろうなと気持ちよく感じられたし、こうやって居場所を与えてくれるのもVR空間の一つの良さだったりするよなと感じた。そういった意味で、メタバース空間を肯定する作品にもなっていて私は凄く好きだった。
またラストシーンで、絵本の「いないいないばあ」を読み聞かせるシーンもハートフルだった。ユアンは母親から小さいときに何か絵本を読んでもらったことがあったのだろうか。ユアンとしては、きっと世界のどこかには親から絵本を読み聞かせしてもらえなかった子供たちも沢山いるだろうと思い、そうであるならとユアンはVR空間で母親の代わりとなってそんな読み聞かせしてもらえなかった誰かのために絵本「いないいないばあ」を読み聞かせしているのではと感じた。そう考えると、なんて泣けるラストなんだろうと思う。

次は、江原幸子役を演じた、「ゆうめい」の作品ではお馴染みの高野ゆらこさん。高野ゆらこさんの演技は、『姿』『娘』と2度拝見している。
『姿』や『娘』では、高野さんの役はどちらかというと真面目な女性役といった印象だったが、今作では地元に暮らす女性役という感じで、非常に奇策で人当たりの良さそうな女性の役であったのが新鮮だった。そういった意味で、高野さんの演技のまた違った一面を今作では楽しめた気がする。
江原は、須田やユアンのようなメタバース空間に入り浸る人たちとは対照的で、現実の友達付き合いも多くNFTやメタバースといった最新のIT技術には疎くてあまり興味がない感じ。だけれど、この「ハートランド」というプレハブで絵本「百万回生きたねこ」に出会ってから、ずっと好きで訪れており、そういったお気に入りの居場所に通い続けるという意味では、オンライン/オフラインの違いはあれど、ユアンの本読みに集まってくるメタバース空間上のファンと変わらないという点も非常に考えさせられた。

相葉三映役を演じた児玉磨利さんも素晴らしかった。児玉さんの演技も『姿』で一度拝見している。
相葉の今作での立ち位置は、6人の登場人物の中では一番まともで、最初はマスクを付けているし、映画女優ということで一番接しやすいキャラクター像に感じた。しかし、その色っぽさは岡監督を虜にした。岡敦司は相葉と不倫することになるという描写が登場するが、まさにこれは昨今問題になっている映画監督のハラスメントにも近いかもしれない。これは相葉の視点からみて、岡監督が自分に好意を抱いているように見えたが、マスクをしていたから実際はどうか分からなかったという描写が面白かった。コロナ禍があったからこそミスリードする心理を上手く作品に組み込んでいて素晴らしかった。
相葉は「ハートランド」で深夜になると結んでいた髪をほどいたり、どこか色っぽい仕草があるなと感じた。きっとこうやって近くにいる男性を虜にしてきたのかと考えると恐ろしかった。
児玉さんの演技は素晴らしかった。ナチュラルな演技が今作の雰囲気を良いものにしていた。

今作で一番衝撃を受けたのが、ドキュメンタリー映画監督岡正樹役を演じた鈴鹿通儀さん。演技拝見は初めて。
最初登場したときは、真面目そうな映画監督の青年だと思っていた。しかし、酒が入るにつれて何か我慢していた感情があったようで、一気にヤバい奴へと変身していく。チェンソーマンのマキマさんになりきって、ユアンに近づいていく。上半身裸になって犬の鳴き声をかましながら、まるで人とは思えないような狂気を見せてくる。
チェンソーマンを観ていない私なので、マキマさんを含めた考察は出来ないが、これはきっとコロナ禍によって溜まったストレスの発散を描いているのかなと思う。コロナ禍に入って、ずっとマスクをしたまま思い通りのことが出来なかったストレスが、オフラインの世界で対面で飲み会をしたことで一気に発散されてああなってしまったのかなと思った。そういった意味で、現実空間へ発散する気持ちよさも描いていると思う。
なんといっても、岡の狂気ぶりを演じる鈴鹿さんの怪演さ。良い意味でドン引きした(もちろん褒めてます)。パンツ一丁になるし、ワンワン吠えているし、チェンソーマンのマキマになりきってチェンソーで須田に切りかかってくるし、もう怪物のようで素晴らしかった。

最後は、「ゆうめい」の劇団主宰でもある羽瀬川仁役を演じた田中祐希さん。田中さんの演技を拝見するのは、4度目となる。
羽瀬川も江原と同じで、メタバースのような空間にはあまり馴染まず、現実世界を好むキャラクターに感じた。コロナ禍でもワクチンは打たないしマスクもしない。配られたマスクは脇汗取りに使う始末。そのくらい暑苦しくてリアルを切望するキャラで好きだった。
そんな彼にも秘密基地があるのが興味深かった。パスワードで入れない秘密基地が必要という台詞が耳に残る。そんな隠れ家でマリファナを吸ったりと悪いことをするくだりが本当に良かった。こんな遊びは現実空間でしか出来ない。そういった意味で、羽瀬川と岡の二人のシーンは本当に心動かされた。

写真引用元:ゆうめい 公式Twitter


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

とにかく情報量の多い演劇作品で、間違いなく一回で咀嚼して理解することは不可能に近いと思う。しかし、全て理解しなくてもある程度この作品で主張したいことというのは伝わってくるし、その描き方に関しては画期的なものが多いので、偉そうな言い方にはなってしまうが評価すべき作品ではないかと思う。賛否両論あると思うし、一般ウケはしないとは思うが、間違いなくこのゆうめいの『ハートランド』を皮切りに、今作をベースとして色々な作品がここで扱われた演出手法を取り入れて作品作りがなされていく気がした。
まずは、私が戯曲も読んで理解出来た範囲で今作のストーリーを解説した上で、コロナ禍によって生じた現実世界とAR/VRといったメタバース空間の対比、それから今作のメインテーマとなっている創作者の加害性について考察していく。

まずは、ストーリーの解説を分かる範囲でしていく。当パンに書かれいてる時系列と照らし合わせながら振り返っていこうと思う。
江原とはっさんとモッタイは、3人とも地元の同級生同士だった。江原は小さい頃、「ハートランド」で読み聞かせしてもらった「百万回生きたねこ」が大好きだった。はっさんもそれを知っていた。
はっさんは容姿が良くなかったことからクラスでいじめを受けていた。「お仏壇のはせがわ」のCMにあやかって、「汚物顔のはせがわ(はっさんというあだ名は、はせがわという名字から来ていると考えられる)」とからかわれていた。はっさんはそれが苦痛だった。モッタイはおそらくいじめる側ではなかった認識だが、江原はいじめる側の人間だった。江原もいじめていたが、進学組(おそらく頭も良くてクラスの中で勝ち組的な存在)のいじめ方の方が酷かったようである。
はっさんはいじめてくる江原が憎く、江原が愛していた「百万回生きたねこ」のフィギュアに精液を掛け続けていた。まるで江原を呪うが如くだった。
はっさんとモッタイは、コロナ禍前まではずっと「ハートランド」を自分の居場所として生きていた。きっとマスターがクラスでいじめられていた彼らの面倒を見てくれていたのではないかと思う。
しかしコロナ禍に入って、はっさんはその猫のフィギュアを「ハートランド」に展示する。その後「ハートランド」にやってきたユアンがそれを見つけて、その猫のフィギュアをNFTで画像で投稿する。するとその猫のフィギュアの画像な高額な値がついて、はっさんはNFTと猫のフィギュアのおかげで一攫千金を手にする。
はっさんは、大金を得て成功し「ハートランド」を後にする。その後はっさんは、「ハートランド」宛になぜ自分が大金を手にして「ハートランド」を去ることになったのか、その経緯を手紙にしたためて送り、劇中で羽瀬川がそれを見つけて読み上げる。はっさんは、昔の江原は嫌いだけれど、今の江原には怒っていないと述べている。
一方、江原は親から早く結婚しろと田舎の価値観を押し付けられて苦しい人生を送る。

ここまでが、江原、はっさん、モッタイの同級生を取り巻くシナリオである。解説しておくとNFTとは、wikipediaによれば非代替性トークンと呼ばれ、画像・動画・音声、およびその他の種類のデジタルファイルなど、容易に複製可能なアイテムを一意なアイテムとして関連づけられることを指し、ブロックチェーン技術という最新技術の応用で実現可能になったものである。つまり、今作でいうとユアンがメタバースで活動するくらいなので最新技術へのキャッチアップも早く、NFTに関しても精通していたと考えられる。ユアンは「ハートランド」に置かれていた猫のフィギュアを見て、これはNFT上で高額で落札されるに違いないと、NFT上の猫のフィギュアの画像と実際の猫のフィギュアを結びつけて公開し、見事NFT上で高額で落札されたということである。
猫のフィギュアの持ち主ははっさんだったということで、その落札された高額の金ははっさんのものになった。どのくらいの金額を手にしたか分からないが、きっと一生暮らしていけるほどの資金を得たのではないかと想像する。だからもうはっさんは「ハートランド」に隠れて生きていかなくても済む。だから「ハートランド」を離れてどこかへ消えた。この高額で売れた猫のフィギュアは、はっさんの精液が大量にたけられているというのがなんともグロテスクであるが。

次に、岡監督と須田一家関連で時系列でシナリオを解説する。
須田は妻と息子と共に中国に住んでいた。しかし須田は、日本と海外の間で違法行為をして金稼ぎをする男であった。しかし、須田の妻はうつになってしまって自殺してしまう。須田は息子と二人きりになる。
その須田一家の一部始終を、岡敦司は無断で追いかけていて映画『ハートランド』の題材とする。そして映画『ハートランド』がクランクアップし、2021年4月に映画の試写会が行われる。その試写会には、岡敦司の息子の岡正樹もいた。そして、須田学もその場にいて、自分の人生を勝手に映画にされた腹いせに、映画の試写会に潜り込んで盗撮し、海外へ海賊版として無料公開しようとした。しかし、その須田の違法行為は岡正樹によって見つかり、「映画泥棒!」と叫ばれて須田は逮捕される(これが劇の冒頭の「NO MORE 映画泥棒」のシーン)。
須田学が逮捕されている間、息子は行方不明となってしまうが、息子のノーンは実はプレハブ「ハートランド」に訪れていて、モッタイと出会っている。そしてモッタイと共に海岸近くの小さな丘に遺書を隠し、VR空間上でそのヒントになる情報を残して、二人とも行方不明となる。
須田は刑期を終えて釈放される、そして息子のノーンを探す。おそらく息子は「ハートランド」に逃れたに違いないと思った須田は、「ハートランド」にやってきて住み着き、ノーンがいた痕跡を探すためにVRゴーグルを使って捜索している。

このように大きく分けて二つの出来事があって、それらが劇中に会話として分裂して登場するので、これを理解して話を追うなんて相当難易度の高い舞台作品だったと思う。今作で主張するテーマ、メッセージ性はシンプルなのでここまでシナリオを用意して伏線を張り巡らせる必要はあったのかというのは疑問に感じる。

ここからは、そんなストーリーのざっくりとした解説を踏まえて、現実世界とメタバースの仮想現実の世界を描いた部分について考察していこうと思う。
今作の時間軸は、2023年春になっていて、丁度コロナ禍に入って徐々に外出も多くなってきて、対面で人と会う機会が増えてきたタイミングを描いている。だからこそ、岡正樹と相葉は最初はマスクをしていた。一方で、江原と羽瀬川はマスクはしておらず、特に羽瀬川はマスクを嫌ってワクチンも打ってなかった。そういったコロナ禍明けだからこそ皆が感じる、マスクするしない問題やワクチン打つ打たない問題が顕在化した今を、かなり忠実に物語に反映させて今の人々に刺さるような内容に仕上げている所に好感が持てる。
特に興味深かったのは、マスクをするしないで人の印象が違ってくるという点を、劇中のシナリオに上手く消化している点が素晴らしい。例えば、相葉が岡敦司と不倫したという事実も、コロナでなければ発展しなかったかもしれない。相葉がマスクをしている岡敦司に対して、相葉は彼が自分を誘っているように目だけ見て感じたから不倫に発展した。しかし、実際は岡敦司は相葉を気持ち悪いと思っていた。これはマスクをしていたことによる誤解から生まれたものである。
また、はっさんが「汚物顔のはせがわ」といじめられていた。これは、もしはっさんがコロナ禍の最中に中学時代を迎えていたらいじめられなかったかもしれない。マスクを普段することがなかったコロナ以前にはっさんが中学時代を迎えていたからこそ、顔を皆の前に公表せざるを得なくなり、その顔面から彼はいじめられた。はっさんの手紙の中でも、コロナ禍に中学生だったらいじめられなかったかもというifを書いていることが非常に興味深い所だった。

そしてなんといっても、コロナ禍によって明確に境界線を引かれてしまったのが、現実世界とメタバースのような非現実世界の境界線である。今作の舞台美術では、壁はないけれど明確に下手側の現実世界の空間と、上手側のメタバースの空間とで分かれている。そしてその境界は特に序盤だとなかなか交わるものでもない。そこには、現実世界には現実世界の良さがあって、メタバースの世界にはメタバースの世界の良さがあることの主張があるからこそ、今作はどちらが良いか悪いかを明確に設けず、それぞれの良さを認める作りになっている点に素晴らしさを見いだせる。
まず、一番下手の扉がなかなか重くて開かず、コツが必要でそのコツをつかめば開くという、なかなか田舎の古い屋敷らしい構造を持っている。これは現実世界だからこそあり得て、メタバースの世界ではあり得ない。扉を開けるためには羽瀬川にコツを聞いてやってもらわないといけないので、そこでコミュニケーションが発生する。そういった種類のコミュニケーションは現実世界だからこそ成立しうることを示しているように感じた。
秘密基地でマリファナを吸うシーンもそうである。数字によるパスワードで開かない秘密基地も必要だと、羽瀬川は岡を案内する。そして気分良くマリファナを吸ってガムを噛んで良い気持ちになってユアンに近づけるあの興奮は現実世界でないと体験できない。しかし、そういった光景を須田に密かに見つかってしまうというリスクを孕んでいるのも現実世界の危うさでもある。パスワードを必要としない羽瀬川の秘密基地だが、そこには脆弱性があることも描いているように思えた。

一方で、メタバース空間では、ユアンが気持ちよくQueenの『Somebady to Love』を歌い上げ、自分の歌唱力以上の能力を発揮してメタバース空間上で拍手喝采を浴びる事ができる。決して自分の声ではないけれど、名歌手の気分を堪能することが出来る。
また、家庭や現実世界で居場所がない人々に対して、メタバース空間では絵本の本読みを聞かせてあげることで居場所を与えてくれることが出来る。それは、物理的には離れていてもメタバース空間ではつながることが出来る。それをラストのユアンのシーンで存分に感じさせてくれた。
私は学校勤めの妻から、今の小学生や中学生は「フォートナイト」にハマっている生徒が結構いるという話を聞く。それも、不登校になってしまったり、家庭環境が上手く行ってなかったりするから、メタバース空間でのゲームに依存するのだと言う。そういった子供たちには仮想空間が一つの居場所になっていた。その仮想空間を取り上げてしまったら、きっとそういった子どもたちには居場所がなくなってしまう。だからこそ、昨今の日常においてはメタバース空間自体の存在が、彼らの生死に関わるくらい重要な意味を持つ存在になってきているのである。
だからこそ、ユアンが熱唱してファンたちを感動させたり、絵本を読み聞かせすることに対して、どこかの誰かに対して限りなく駆け込み寺に近い存在になっていると考えられ、だからこそラストシーンには感動させられるし泣かされるのである。

メタバース空間が存在せず、コロナ禍に入る前の時代では、「ハートランド」というプレハブそのものが今のメタバース空間のような駆け込み寺的な一面を持っていた。だからはっさんやモッタイさんと言った、いじめられっ子たち、つまり学校に居場所がない人たちがやってきていた。ところがコロナ禍になり、対面で会うこと自体が難しくなったご時世では、この「ハートランド」は機能しなくなっていった。だからきっと、マスターも失踪してしまったのだろう。理由は劇中で描かれることはなかったが、きっと経営難だったり、対面で人と人が会わなくなってしまった生きづらさを物語っているように思う。どこか日本社会にもありそうな設定である。

随分とボリューミーな考察になってしまったが、ここから作品に対するクリエイターの加害性について論じたいと思う。
上で書いたような、メタバース空間によって不登校や家庭内暴力を受けている子供の居場所が保たれていること、コロナ禍によって人と人との接触がなくなって居場所がなくなってしまった人というのは、実際問題日本社会には沢山いるだろうが、それをベースに今作のように物語化してしまうことで、創り手側だけが名声と地位と金を手にし、当事者にはなんの見返りもない。これが、今作の主軸となるテーマであるクリエイターの加害性である。
須田学も、妻が死んでしまったりと散々な目に遭った。しかし、それを勝手に岡敦司によって映画化され彼の肥やしになったことに不服だった。池田さん自身がこれまでに作品に対して向き合ってきた姿勢にも通じる、クリエイターの加害性である。それを一般化して今作のテーマとしてしまった。自分がやってきたことに対して、ある種周囲のクリエイターまで巻き込んで罪を着せるかの如く、とても残酷な作品にも思えてくる。
しかし、その加害性というのは一般の観客にも向けられている気がする。私自身も他人の実体験を肥やしにエンタメや芸術として鑑賞して楽しんでいる。私はそこを含めて興味深い作品だと感じているが、人によっては賛否両論があるかもしれない。エンタメや芸術とはそういうものだから、そこを批判するようなことをしたら、作品を創ること鑑賞すること自体罪になってしまうから。それは、須田が行っていたような著作権を違法するような泥棒と同罪として描くのは如何なものかと思う人がいてもおかしくないと思う。

だがしかし、こういった挑戦的な作品を創作されたこと自体は凄くポジティブなことだと思っている。前回の「ゆうめい」の作品の『娘』は『姿』とあまり変わりばえがしなかったので満足度としては落ちていたが、今作はまるで今までの「ゆうめい」とは違う、新たなステージに向かった作品として、これからも劇団の活躍を願いたい所である。


↓ゆうめい過去作品


↓田中祐希さん過去出演作品


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