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ミュージカル 「この世界の片隅に」 観劇レビュー 2024/05/11


写真引用元:東宝演劇部 公式X(旧Twitter)


公演タイトル:ミュージカル「この世界の片隅に」
劇場:日生劇場
企画・製作:東宝
原作:こうの史代『この世界の片隅に』(ゼノンコミックス/コアミックス)
音楽:アンジェラ・アキ
脚本・演出:上田一豪
出演:大原櫻子、海宝直人、桜井玲香、小野塚勇人、小向なる、音月桂、白木美貴子、川口竜也、加藤潤一、飯野めぐみ、家塚敦子、伽藍琳、小林遼介、小林諒音、鈴木結加里、高瀬雄史、丹宗立峰、中山昇、般若愛実、東倫太朗、舩山智香子、古川隼大、麦嶋真帆、澤田杏菜、大村つばき(観劇した回のキャストのみ記載)
公演期間:5/9〜5/30(東京)、6/6〜6/9(北海道)、6/15〜6/16(岩手)、6/22〜6/23(新潟)、6/28〜6/30(愛知)、7/6〜7/7(長野)、7/13〜7/14(茨城)、718〜7/21(大阪)、7/27〜7/28(広島)
上演時間:約3時間(途中休憩25分を含む)
作品キーワード:ミュージカル、和製ミュージカル、戦争、ラブストーリー、考えさせられる、泣ける
個人満足度:★★★★★☆☆☆☆☆


漫画家のこうの史代さんの代表作である『この世界の片隅に』が世界で初めてミュージカル化されるということで観劇。
『この世界の片隅に』は、2007年に『漫画アクション』(双葉社)にて連載開始し、2011年に日本テレビにてテレビドラマ化、2016年に片渕須直監督によってアニメーション映画化、2018年にはTBSにて再ドラマ化、さらに2019年には映画のヒットを受けて約40分の新規場面を追加した長尺版の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開された人気作である。
今回のミュージカル化では、脚本・演出を原作コミック『四月は君の嘘』をミュージカル化した「劇団TipTap」主宰の上田一豪さんが担当し、音楽は国民的合唱・卒業ソング「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」で有名なアンジェラ・アキさんが担当した。
『この世界の片隅に』は、私は2016年の映画版を2度鑑賞したことがあった。

尚、今作は主人公である浦野すず役は昆夏美さんと大原櫻子さん、相手役の北條周作は村井良大さんと海宝直人さん、白木リン役は平原綾さんと桜井玲香さん、水原哲役は小野塚勇人さんと小林唯さんのダブルキャストで、私は浦野すず役を大原櫻子さん、北條周作役を海宝直人さん、白木リン役を桜井玲香さん、水原哲役を小野塚勇人さんが演じる回を観劇した。

物語は、太平洋戦争の時代の広島県広島市と呉市を舞台に、浦野すずという女性を中心とした人々の日常を描く話である。
浦野すず(大原櫻子)は、江波(現在の広島県広島市)にある海苔すきで生計を立てる浦野家に生まれ、小さい時から絵を描くことが好きでよく絵を描いていた。
しかし、18歳の時に嫁ぎ先の強い要望で、辰川(現在の広島県呉市)にある北條家の北條周作(海宝直人)の元に嫁ぐことになる。
あまり要領が良くなくてのほほんとした性格のすずは、周作の姉である黒村径子(音月桂)から冷たい仕打ちを受けながら生活していたが、径子の娘である幼い黒村晴美(大村つばき)とは仲が良かった。
しかし徐々に日本の戦況は悪化していき、辰川にも空襲警報が頻繁に鳴るようになり...というもの。

日本のほのぼのとしたテイストの日常を描く物語なので、グランドミュージカルのように俳優のソロパートの歌唱力と声量が目立ったり、音楽の壮大さで圧倒させるような作品には当然ならずストレートプレイのシーン多めかと思いきや、意外にも音楽パートのシーンが多かった。
音楽がかかるシーンが全体の7〜8割ほどを占めていて、ストレートプレイのシーンは少なめだった。
音楽はアンジェラ・アキさんの優しい楽曲が響き渡り、特に第一幕や第二幕前半はピアノや管弦楽器の優しい曲調にミュージカル俳優たちの歌声が響き渡る感じは、なんとも贅沢な合唱を聴いているような感じがあって、普段の王道のミュージカルとは別の壮大さを感じられる演出で素晴らしかった。

舞台セットも、上演が始まるまでは藁半紙のような無地のパネルがステージにセットされていて、そこにプロジェクションマッピング的にすずが水彩画で描いた風景を映像として投影させることで世界観を作り上げる点が素晴らしかった。

ただ、私は2016年版の映画を観て今作を好きになったため、私が好きだと感じた演出や描写があまりミュージカルに反映されていない点にやや不満を抱いた。
2016年版の映画では、日本の戦況が悪化していくごとに生活も貧しくなって、徐々にすず自身も痩せ細っていく様が戦争の悲惨さを上手く描いていて素晴らしかったのだが、そういった時間変化は今作にはあまり反映されていなかった。
だからこそ、各シーンがぶつ切りに感じられて、特に第一幕は全体的に繋がりが感じられなかった。
また、ミュージカル版ではすずと周作の二人の恋愛物語としての印象が強かったのが逆に違和感だった。
たしかにすずと周作は愛し合っていない訳ではないのだが、戦時中のため男性は軍隊として駆り出され、女性は嫁ぎ先で家事をこなすというのが色濃いはずなので、二人の恋愛シーンが多い点に納得がいかなかった。
ミュージカル作品なので、恋愛パートを増やしていかないと成り立たないためかもしれないが。

また今作のストーリー構成としては、序盤ですずが右手を失ってしまうシーンが描かれたり、いきなり何の説明もなく幼馴染の水原哲(小野塚勇人)が途中で登場するので、事前に物語に触れてから観劇した方がストーリーにも違和感なく没入できる気がした。
座敷童が登場したり、白木リン(桜井玲香)の登場も象徴的に描かれているのは、原作を知っていると理解できるシナリオで、そこに関する説明はミュージカル版では省略されているので、原作未読の観客には優しくない構造に感じた。
とはいえ原作を知っている私からしたら、その良さも奪われている感じがするので、ミュージカル版のポジションが難しい気もした。

ストーリー構成や、シナリオ面に関する演出については映画版が好きな私にとって思うところがあったが、アンジェラ・アキさんの楽曲の素晴らしさと、戦争の恐ろしさ残酷さを体感するには相応しいミュージカルなので、ぜひ多くの人に観劇して欲しい作品だった。

写真引用元:東宝演劇部 公式X(旧Twitter)

↓舞台映像 PV




【鑑賞動機】

アニメーション映画『この世界の片隅に』(2016年)を以前鑑賞したことがあって、戦争の残酷さをこれでもかというくらいに描く作品で、観るのが辛かったが間違いなく心を動かされた傑作だったので非常に好きだった。
その作品がミュージカル化され、しかも脚本・演出家は「劇団TipTap」の上田一豪さんと実力のある方で、キャストも豪華で大原櫻子さんや海宝直人さんなど好きな俳優さんも多かったので、果たしてどんなミュージカル作品に仕上がるのか気になると思い観劇することにした。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

子供のすず(澤田杏菜)が登場し、大人のすず(大原櫻子)が登場して『この世界のあちこちに』に合わせて歌い始める。徐々に様々な登場人物も登場する。
昭和20年6月22日、すずは右手を失う。それは、今まですずが絵を描き続けた右手であった。
空襲で家に火薬が落とされて燃え上がる。すずはその炎を布団で覆い隠して火を消そうとする。

そこから、すずの幼少期の時代、つまり太平洋戦争から10年前の実家である江波でのシーンが始まる。
パネルには、戦前の賑わった日本の街が描かれたり、ウサギが沢山飛び交う絵が投影される。大男の背負うカゴの中に幼少期のすずは入り込んでしまう。そこには、すずだけでなく幼少期の周作(小林諒音)もいて、そこですずは周作と出会う。
すずが18になる頃、辰川からすずを嫁にしたいと尋ねてくる北條家がいた。すずは、実家の浦野家では祖母(白木美貴子)から、箸を長く持つ子は遠くにお嫁に行くと言われていた。すずの妹の浦野すみ(小向なる)はすずのように箸を長く持っていなかった。すずが以前カゴの中で出会った北條周作(海宝直人)が、彼女を嫁にしたいと直々に江波にやってきていた。そのまますずは辰川の北條家に嫁ぐことになり、白無垢を着て周作と式を挙げた。

しかし、すずは北條家に嫁いだのは良いものの、周作の姉である黒村径子(音月桂)からは嫌われていて、すずのその容量が悪くてのほほんとした性格に嫌気が刺してよく叱っていた。
すずは、北條家で家事をして一家を支えようと奮起し、楠公飯(なんこうめし)を作ろうと試みる。楠公飯は楠木正成公が考案したとされる節約飯である。北條家の近所の女性たちは、「とんとんとんからりん」と歌を歌いながらすずが必死で楠公飯を作るのを見守る。しかし、すずの作った楠公飯はあまり美味しくなかったようであった。
すずは北條家の人たちとスイカを食べる。その時、ふとすずは母の実家である草津に小さい頃遊びに行った時に出会った座敷童(麦嶋真帆)を思い出す。
すずは、ずっと北條家にいて頭が一部禿げてしまっていた。径子の娘である黒村晴美(大村つばき)は、そんな禿げたすずの頭に墨を塗ろうとする。
すずと晴美は仲良しで、よく二人で外に出かけて絵を描いていた。すずが風景を絵に描きながら晴美に見せていると、どこかの憲兵たちに間謀だと疑われその絵画を没収され叱られた。その一部始終を径子や周作の母(伽藍琳)に話すと、すずがスパイであるはずがないと大笑いする。すずはどういう意味だか分からずポカンとしている。晴美は、何が面白いか分からないけれど、みんなが笑っていると可笑しくなってきたと笑う。

ある日すずは周作に連れられて街に遊びに行く。すずは周作と映画を観たり、夜の街の橋の上で会話したりする。その様子を、上手の高いステージから白木リン(桜井玲香)が見下ろしている。
すずが遊郭を歩いていると、白木リンに出会う。すずはリンに頼まれてリンを絵に描く。すずは仲良くなったリンに相談する。自分は子供を産んで強い後継を残したいのだと。しかしリンは、子供は必ずしも産めるとは限らないし、子供を産んだからって男の子であるとは限らないし、優秀であるとも限らないと言う。

ここで幕間に入る。

すずは北條家で、径子の過去について聞かされる。径子はモダンガールとして活躍し、下関にあった黒村時計店の主人と結婚して、息子一人と晴美を産んでいた。しかし、主人が病気で亡くなってしまった。その時、息子は時計店の後取りとして残して欲しいと径子に要望され、径子は仕方なく息子を残して晴美と二人で実家に戻ってきたのであった。
すずの元に、一人の海兵が現れる。それはすずの幼馴染の水原哲(小野塚勇人)であった。すずは哲に会うと、いつもの人柄ではなくなりお転婆娘になっていた。水原は陽気に北條家に居座ってご飯を食べたり風呂に入ったりした。
夜、すずは一人湯たんぽを持って哲の泊まる離れに向かう。すずは哲の布団の中に入り、ずっとこういう日を待っていたと言ってキスをする。

昭和20年になる。ついに呉にも空襲警報が鳴り始めた頃だった。すずの兄の浦野陽一(加藤潤一)が戦死したという報告を受け、すずは浦野家に帰省する。
浦野家の祖母、父(川口竜也)、母(家塚敦子)、すみ、すずは、兄の骨壷を開けるがそこには石が一つ入っているだけであった。「これはお兄ちゃんの脳みそか?」とすずは言う。その辺の石の方がまだ綺麗じゃないかと。
昭和20年4月になる。桜は満開になる。すずと周作は二人で花見をする。周作も戦地に赴くことになり、しばらく北條家に帰って来れなくなるが家を頼んだと言われる。すずは、自分が守り切れる自信はないと言う。

昭和20年6月、いよいよ空襲も激しくなってきた頃、北條家の父(中山昇)が怪我をして入院しているので見舞いに行くことになる。晴美は学校なんか休んですずと一緒に父親の見舞いに行けと。
すずと晴美で父の入院する病院を訪ねる。父は戦艦大和が沈没したらしいと嘆いていた。
6月22日、その帰りの出来事だった。すずは晴美と手を繋いで外を歩いていた。すずと晴美が反対を歩いていたら、それか早く時限爆弾に気がついて遠くへ走り去っていたら、こんなことにはならなかった。
時限爆弾が爆発したことによって、晴美は命を失った。その晴美の手を握っていたすずの右手も失った。
すずは径子に怒鳴りつけられる。どうしてすずがついていたのに晴美は死んでしまったのかと。径子は泣き崩れる。右手を失ったすずを北條家の母は慰める。今は径子は気が動転しているだけだと。決してすずのことを本心で責めている訳ではないんだと。

昭和20年7月。右手を失ったすずは、北條家にいても手伝える家事が無くなってしまったので、江波の浦野家の実家に帰ることになった。妹のすみも北條家にやってきて、うちに帰る方が良いんじゃないかと。来月の6日には祭りもあるしと。
すずは実家へ帰る支度をする。今日は江波は祭りの日で賑わっているだろうと。その時、どこかで何かが光る。その後に物凄い音がする。外を見ると金床雲のようなものが大きく成長している。さっきのは雷だったのだろうか。しかし、どうやら広島に新型爆弾が落とされたとのことだった。
そして8月15日、ラジオから玉音放送が流れる。新型爆弾を投げ込まれたし、こんなに空襲で被害に遭っているし、日本は負けたということかねと。すずはその玉音放送に激怒する。最後の一人になるまで戦うんでなかったのかねと、まだ左手と両足が残っとるでと。
すずはそれでも自分の故郷のある江波へ行こうとする。
すずは、自分でわらじを作って江波へ戻る。

江波は荒廃としていた。一瞬水原哲がいたような気がした。そこに薄汚れた少女を発見する。
すずは、草津に行くと妹のすみと再会する。すみによると、原爆が落とされたあの日、母が祭りの準備で市場に買い物に出かけていて、ずっと母を探したのだが見つからなかったのだと言う。秋には父も病気にかかって死んでしまい、みんなと一緒に遺体を焼いてもらったのだと言う。すみの腕にも原爆が投下した時にできた紫の火傷があった。すずはきっと治るからと励ます。

すずは北條家に戻る。その時、径子からすずはこう言われる。径子は自分で決断して歩んだ人生だけれど、すずは自分で決めた人生で歩んできていない。北條家に残るのか、実家に帰るのか好きにしなさいと。
すずは周作と再会して北條家に戻ることにすると言う。そこには、広島の原爆で生き残った少女も一緒にいた。ここで上演は終了する。

映画のシナリオが出来すぎていて、ミュージカル版のシナリオ構成は少々不満だった。
まず、今作が『この世界の片隅に』の作品に触れたことがない人をターゲットにしているのか、もうすでに作品に触れている人を前提に創作されているのか分からないが、もし作品に触れたことがない人をターゲットにしているのなら、ストーリー展開がわかりにくいと感じた。そもそも序盤でいきなりすずが右手を失う描写が必要だったのかよく分からなかったし、それによって返ってストーリー理解の難易度を上げているようにも思えた。また、座敷童の件や、白木リンの件、水原哲との関係は原作漫画や映画ではよく語られているが、ミュージカル版だと唐突で初見の人はどうして登場するのかよく分からないと感じるのではないかと思った。
逆に、作品に触れている人前提なのかなとも考えたのだが、それだとしてもシナリオ構成の満足度は下がるのではと感じた。まず、原作漫画や映画に登場するような戦争によって日常生活が悲惨になっていく光景が、特に第一幕からは全く感じられなかった。映画版だと徐々にすずは痩せ細っていく感じとか、あたりの街が貧しくなっていく感じ、戦禍に見舞われる感じが分かりやすく、戦時中の日常を忠実に描いていたのだが、ミュージカルにするとそういった繊細な描写は出来ないので、全体的に原作が持つ良さが失われた気がした。だからこそ、楠公飯の件や周作と映画に観にいくシーン、すずが憲兵に間諜と間違われるシーンなどがぶつ切りに感じられた。なんでその要素をミュージカルに入れるのの動機づけが甘いように感じた。
第二幕の後半になってくると太平洋戦争末期で、晴美を亡くしたり原爆が投下されたりと見応えが出てくるが、それまでのシナリオ構成がちょっと戦時中を描くには軽すぎて原作の良さを知っている私にはちょっと不満が残ってしまった。

写真引用元:東宝演劇部 公式X(旧Twitter)


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

アンジェラ・アキさんの楽曲による和製ミュージカルらしい演出で、そこに太平洋戦争という時代設定があるので、涙をそそられること間違いなしの作品だった。
舞台装置、映像、舞台照明、舞台音響、その他演出について見ていく。

まずは舞台装置から。
巨大な藁半紙のような茶色い無地のパネルがステージ奥と下手側、上手側に設置されていた。下手側、上手側にあるパネルは横に動かせるようになっている可動式だった。この無地の藁半紙のような舞台セットに、プロジェクションマッピング的に映像が投影されることによって、すずが絵で描いた世界観が広がっていく素晴らしい演出だった。これは、舞台ならではの演出である上、今作の世界観を上手く表現していると思って良いアイデアだと感じた。
しかし、第二幕終盤のすずが右手を失ってしまってからは、無地のパネルも映像も現れなくなる、なぜならすずが絵を描けなくなってしまったから。その代わり、ステージ背後に横長の巨大な壊れた戦艦のような抽象的なオブジェが出現する。そのオブジェは天井からワイヤーで吊り下げられていて、劇中もそのオブジェは傾いたりと動いている。このオブジェは、もちろん空襲にあった辰川の街を表現していると考えられるが、それだけでなくその前に戦艦大和が沈没したという北條家の父の言葉から、沈没してしまった戦艦大和にも見えた。それは、日本が誇りに思っていた最強の戦艦が沈没してしまったという日本の敗戦を暗示するものにも思えた。さらに、すずが絵を描けなくなったこと、晴美を失ってしまったことによるすずの心情を表しているようにも思えた。ぐちゃぐちゃになって荒廃している感情にも捉えられた。その上、すずがもう絵を描けなくて絵を描こうとしてもぐちゃぐちゃになってしまうというのも表現していたのかもしれない。
あと印象に残ったのは、周作とすずの花見のシーンの桜並木。桜を散らせる演出も含めて綺麗だった。凄く日本を感じさせる演出で好きだった。
あとは、舞台セットとしては草津のすずの母の家が登場して縁の下から座敷童が現れたりと映像だけで表現するだけでなく、具象の舞台装置も複数用意されていて豪華なセットだった。

次に映像について。
私は今作で一番好きな演出だったのがこのプロジェクションマッピング的にすずの描いた風景が登場する点。アニメーション映画でも印象に残る沢山のウサギが飛び交う絵画や、序盤に登場する賑わう広島の街、辰川の風景など美しい風景が映像で投影された。
その映像の投影の仕方も、まるですずが絵を描くように徐々に線を描きながら風景が形成されている感じが好きだった。『この世界の片隅に』らしい演出で素晴らしかった。
私の記憶が朧げだったり、見逃してしまったかもしれないが、原爆ドームが原爆が投下される前の広島県物産陳列館としての建物をすずの絵画で表現しても良かったのかなと思ったが、そうすると原爆投下後も絵画で登場させないといけなくなって難しいのかなと感じた。

次に舞台照明について。
個人的に印象に残ったのは、序盤の辰川の家が空襲によって火がついてしまうシーンで、舞台照明によってステージが真っ赤に染まるシーン。いきなり序盤でこのシーンが入るのかと驚いたが、演出自体は圧巻だった。
また、周作とすずの花見のシーンの照明も綺麗だった。夜桜といったような感じで全体的に青紫色に照明が使われていて綺麗だった。

次に舞台音響について。
なんといってもアンジェラ・アキさんの楽曲が素晴らしかった。普段のグランドミュージカルのようには作風上ならないけれど、優しいメロディが上演中の多くの時間を占めていて、ずっと優しい音楽で包み込まれている感じのミュージカルだった。
音楽自体はとても良くて好きなのだが、だからこそ原作の良さは薄れてしまったかなという気がした。アンジェラ・アキさんの楽曲が持つ優しさは日本の美しい風景を歌にしたり、恋愛感情を優しく歌にするには向いているけれど、あの太平洋戦争時の淡々とした日常を描くには少し優しすぎるのではないかと思った。少なくとも原作を知っている者としては、もっと戦争の過酷さ、無慈悲さが伝わって来ないと本来この脚本が持っている味は発揮されないよなと感じた。
あとは、アンジェラ・アキさんの楽曲の特徴なのかもしれないが、優しく語り帰るような歌詞が多いので、歌詞がグッとミュージカルとして入って来ないのは気になった。作風的にミュージカル俳優たちが声を張る感じの楽曲ではないのだけれど、どこか合唱的な感じで、和製ミュージカルの作風としては合っているのだけれど、どこか日生劇場を歓喜に包み込むような迫力には欠けてしまって、そこは題材的に難しいよなと感じた。

最後にその他演出について。
私は『この世界の片隅に』を映画アニメーション版でしか観ていないのでそちらとの比較になるが、やはりミュージカルとして生身の人が登場人物を演じると色々な台詞や描写が生き生きとしてくるなと感じた。しかし、それが今作の作風と合っているのかというとちょっと違う気がした。やはり戦時中の日本なので、どんどん貧しい生活になって苦しくなっていく時代で、そこを描いているから渇きがグッと来たのだが、ミュージカルにしてしまうとみんな生き生きしてしまうので、渇きは失われてしまうよなと感じた。
生身の人が演じたからこそ、映える登場人物もいた。特に黒村径子は、アニメーション映画だと凄く冷淡で意地悪な女性だったが、ミュージカル作品として見ると凄く魅力的な人物に感じた。娘の晴美を失ってしまうのはショックだし、その怒りを思い切りすずにぶつけてくる感じは、それはミュージカルの方が生身でやっているからこそ映えたなと感じた。
また、ミュージカルだったせいかアニメーション映画と比較して恋愛パートに割と比重が置かれている感じがした。アニメーション映画は、戦時中の日常を何も出来事が起きていないシーンまできっちり描いていたのに対して、ミュージカル版はそんな時間はないので、どうしてもシーンとして映える部分ばかりが強調される。その結果、すずと周作のデートやリンとの出会いなど、非日常のシーンが目立ったことで、『この世界の片隅に』の良さが薄くなったとも感じた。

写真引用元:東宝演劇部 公式X(旧Twitter)


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

ミュージカル俳優として一線で活躍している俳優が多かったので、演技も含めて皆歌唱力が素晴らしかった。
特に素晴らしかった役者について記載する。

まずは、主人公の浦野すず役の大人バージョンを演じた大原櫻子さん。大原さんは、『ザ・ウェルキン』(2022年7月)でストレートプレイを、ミュージカル『おとこたち』(2023年3月)でミュージカルを拝見している。
途中休憩25分を含めて上演時間3時間で、ほぼ出ずっぱりで歌唱力を披露されていて、まずその諸々の体力が素晴らしいなと感じた。特に終盤のシーンで息切れすることなくずっと安定した歌声を披露していて、むしろ終盤で悲痛なシーンで重要なパートなので、そこまできっちり歌で見せられるのは凄いなと感じた。
映画アニメーション版では、すずは要領が悪くてのほほんとした天然の存在だが、大原さんが演じてしまうと凄く逞しい女性に見えた。これはこれでアリなのかなと感じた。大原さんが役者としてもオーラとしても素晴らしい役者でしっかりしたイメージがあるので、要領の悪い女性という感じはしなかった。それでも、映画アニメーション版とは違う魅力として作品としては成り立つんだなと感じた。おそらく、ダブルキャストの昆夏美さんのすずを観ても同じ感想を抱くのかなと思った。
ただ、大原櫻子さんは力強さがあるので、戦禍の中を生き抜ける逞しさという点では凄く納得感のあるすずだったかなと思う。だからこそ、原作よりもより力強くてわんぱくなすずという感じがした。だからこそ、楠公飯などすずがドジを踏むシーンは要らなかったかなと思ったが。
あとは、私が大原さんをミュージカル『おとこたち』で演技を観ているから思うことなのだが、今作のような合唱的な歌よりもソロパートで『レ・ミゼラブル』や『ミス・サイゴン』のように力強く歌い上げる方が大原さんのミュージカル俳優としての気質はあるのかなと思った。それでも、今作でも素晴らしい歌声だったことに違いはないのだが。

次に、北條周作役を演じた海宝直人さん。海宝さんはミュージカル俳優としてよく知っていたが、実は劇場で生で演技を拝見するのは初めて。
海宝さんも凄く凛々しくて力強い印象のあるミュージカル俳優なので、柔でか細い周作のイメージとは全く異なっていた。しかし、海宝さん自身がその力強さを役に合わせて抑えていたことで、周作として観ることが出来ていたかなと感じた。
確かに海宝さんが演じる周作だったら、今作のようにすずとの恋愛パートに重きを置いて、そこを見せるという演出は理にかなっていたのかもしれない。周作の優しさが際立つ演技だったので、特にすずと映画に出かけるシーンは、お二人のキャスティングであれば似合っていたのかもしれないと感じた。
優しくて、水原哲と比較してもの静かで繊細な感じの周作で、ミュージカルとしてそんな繊細な役柄を演じるのは難しかったと思うが、海宝さんが見事にそれを成し遂げていた。

次に白木リン役を演じた桜井玲香さん。桜井さんの演技は、KERACROSS『SLAPSTICKS』で演技を拝見した以来である。
美しくてちょっと不気味な感じを醸し出していた印象で、桜井さんはハマり役だったと感じた。ただ、個人的にはもう少し出番が欲しかったかなと思っていて、第一幕の終盤くらいしか目立って出演しないのは勿体なかった。
周作とすずが二人で映画を見に行っているシーンで、上手側からリンが顔を覗かせていたのは、あの派手な服装だったからこそ目立って、そして嫉妬しているように感じられたよなと思った。
すずが子供を欲しいと望んでいて、リンが必ずしも子供を産むことが幸せにつながるとは限らないと二人で話しているのが印象に残った。そこには、すずとは正反対のリンの遊女として育ったが故の純粋でない感情を垣間見るような感じがした。

私がミュージカル版で一番映画版と比較して魅力的に感じたのは、黒村径子役を演じる音月桂さん。音月さんは元宝塚歌劇団所属で、私は演技を初めて拝見した。
アニメーション映画版だと径子は、特に前半はすずにずっと厳しくて嫌いなのだろうなと思って、あまり人間らしさを感じなかったのだが、ミュージカルになって俳優が生で役を演じていると、そこにも人を感じられて見方が変わったと思う。
特に思ったのは、娘の晴美を亡くしてしまうシーン。そこで稽古が泣き崩れるシーンは本当に印象的だった。すずに対して悲しみのあまり我を忘れて怒鳴りつけて泣き崩れる様に、娘を失った苦痛をダイレクトに感じた。また、第二幕の冒頭で径子の過去が語られていて(たしか映画アニメーション版では、黒村時計店の件は物語前半の方で順序が違う気がした)、そこを直前に観たからこそ径子の悲しみも分かって、いかに晴美を大事に育てていたのかを感じたからこそ亡くしてしまうシーンに心動かされた。その時、凄く径子に感情移入できた。
だからこそ、最後に径子はすずに自分が娘を失って我を忘れてしまったことを謝って、自分で生きたいように生きなさいと諭してくれるシーンにグッときた。

あとは、子役の方の演技が本当に素晴らしかった。私が観劇した回は、子供時代の浦野すず役を演じたのが澤田杏菜さん、晴美役を演じたのが大村つばきさんだったのだが、本当に可愛らしくて、でも堂々と役を演じきっていて素晴らしかった。大村さんは、あの幼い演技があるからこそ時限爆弾で命を失うというのが胸に辛く突き刺さるよなと感じた。

写真引用元:東宝演劇部 公式X(旧Twitter)


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

ここでは、太平洋戦争時代の広島について書きたいと思う。

先日、映画『オッペンハイマー』を鑑賞したばかりだったので、尚更何も罪のない広島の地に、あの原子爆弾が落とされたのかと思うと、色々辛いものを感じた。
あまりミュージカル版で詳細に語られることはなかったが、すずの生まれた江波は現在の広島県広島市で、原爆が落とされた近くに生まれた女性である。なぜ広島市に原爆が落とされたのかというと、それまであまり広島市は空襲の被害を受けておらず、家々がしっかりと残っていたからであった。逆にその隣の市である呉市には、映画やミュージカル版を見てもわかる通り何度も空襲に遭っていて、ほぼ街が壊滅的な状態だった。すずは辰川という今の呉市にある北條家に嫁いだので、不運なことに何度も空襲を受けていた。しかし、昭和20年8月6日の広島市に原爆が落とされた時は呉市にすずはいたので、そちらに関しては幸運にも原爆の被害を免れたのである。
映画版では、呉市がずっと空襲を受けていたので広島市からいつも救援を受けていたと描写されている。だからこそ広島市に原爆が落とされた時は、その恩返しということで呉市の人々は広島市に行こうとしたようである。すずも、自らわらじを作って広島市に向かった。列車は乗れなかったので歩いて。

原爆が江波に投下されて、街に出たままのすずの母は見つからなかった。秋にはすずの父が病気にかかって亡くなり、原爆で亡くなった人たちと一緒に焼いてもらったという描写がある。原爆は恐ろしい爆弾である。ちょっと被曝してしまえば、その時は軽症でも後で放射能を大量に浴びたことで大量出血して死んでしまう。
すみは父は病気で亡くなったと言っていたが、死因の真相は分からない。そのまま何か病気にかかって死んだのかもしれないし、放射能を浴びてそれが原因で死んだのかもしれない。すみだって、腕に紫の放射能を浴びた痕跡があった。その後、急激に容態が悪化してすみも亡くなってしまうことだってあり得る。
戦争の恐ろしさをこれでもかというくらいに、痛烈に描いていてなんとも言えない感情にさせられる。

ミュージカル版では、序盤にすずの右手を失う描写が登場し、あまりすずにとって右手を失ったことがどれだけ残酷な悲劇だったのかを描いていないように感じた。その分、晴美が亡くなってしまうという悲劇にスコープが絞られていた印象だった。
しかし、時限爆弾によってすずは右手を失ったということは、今までのように絵を描けなくなったということを意味している。それはアニメーション映画版の演出で顕著に表現されていて残酷だった。すずの右手は、幼少期にウサギを描いた右手であり、楠公飯を作った右手であり、兄貴の遺骨を持った右手であり、リンに絵を描いた右手である。つまり、すずの右手はすずのアイデンティティそのものだ。
ミュージカル版の描写で出来てきたか忘れたが、映画版にはすずが幼少期に描いたウサギの絵が、水原が描いたものとして世間が注目し、高く評価されていた。水原は後になって、それをすずに伝える。だからすずは戦時中でなかったら、そして女性の人権が保障されていたら有名な絵描きになっていたかもしれない。
何もかも可能性を奪ってしまったのが戦争だった。
すずにとって時限爆弾で失ったものは、自分のアイデンティティだったのに、晴美を失ったことの方が北條家では一大事ですずは責められてしまう。そんな残酷なシーンなのである。

しかし、不幸なのか幸いなのか、すずは時限爆弾で自分の今までのアイデンティティは失ったものの、自分の命だけは救われて終戦を迎えた。自分の実家である浦野家は原爆で何もかも残っていないが、自分が嫁いだ北條家は家族も晴美以外はみんな生きているし助かった。
右手は失ったものの、すずは新たな思いと自分の希望で戦後を生きていこうという決意でこの物語は終わる。それまでは、自分に選択権のなかった人生だったが、これからは自分に選択権のある人生である。原爆で生き残った少女と共に、未来を生きていく。

とても重たい物語なのだが、戦争は絶対に起こしてはならないことだと強く感じさせる反戦物語だった。ウクライナやガザで戦争が絶えない今だからこそ上演されるべき、思い出されるべき物語だと強く感じた。一人でも多くの人にこの作品が届きますように。

写真引用元:東宝演劇部 公式X(旧Twitter)


↓上田一豪さん作演出作品


↓大原櫻子さん出演作品


↓桜井玲香さん過去出演作品


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