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舞台 「兎、波を走る」 観劇レビュー 2023/07/15


写真引用元:東京芸術劇場 公式Twitter


公演タイトル:「兎、波を走る」
劇場:東京芸術劇場 プレイハウス
劇団・企画:NODA・MAP
作・演出:野田秀樹
出演:高橋一生、松たか子、多部未華子、秋山菜津子、大倉孝二、大鶴佐助、山崎一、野田秀樹、秋山遊楽、石川詩織、織田圭祐、貝ヶ石奈美、上村聡、白倉裕二、代田正彦、竹本智香子、谷村実紀、間瀬奈都美、松本誠、的場祐太、水口早香、茂手木桜子、森田真和、柳生拓哉、李そじん、六川裕史
期間:6/17〜7/30(東京)、8/3〜8/13(大阪)、8/17〜8/27(福岡)
上演時間:約2時間10分(途中休憩なし)
作品キーワード:不思議の国のアリス、不条理、VR、AI、親子、ノンフィクション
個人満足度:★★★★★★★★★☆



日本の演劇業界を代表し、2021年の第29回読売演劇大賞で『フェイクスピア』が大賞、最優秀作品賞に輝いた野田秀樹さんが主宰する「NODA・MAP」の新作公演を観劇。
「NODA・MAP」の公演は、2021年の『フェイクスピア』、2022年の『Q』:A Night At The Kabukiに続き3度目の観劇となる。

今回の新作公演の物語は、卯年というのもあって「不思議の国のアリス」をベースにしたストーリー。
ネタバレ厳禁な内容なので、ストーリーの序盤だけ説明をすると、アリスの母(松たか子)は、行方不明となった娘のアリス(多部未華子)を探しに「迷子案内所」にやってくる。
そこには、チエホウフと名乗る作家(大倉孝二)などもいたが、アリスの母の悩みを真面目に捉えてくれなかった。
アリスは、兎の格好をした脱兎(高橋一生)と共に、不思議の世界に迷い込んでおり、お酒を飲むことで気分が大きくなったり、実際に体が大きくなったりしていた。
しかし、そのアリスが迷い込んだ「もうそうするしかない国」というのは、私たちがお馴染みのあの恐ろしい、そして見ることの出来ない世界のことだった...というもの。

『フェイクスピア』に続いて、またしても野田さんは虚構と現実というものをテーマに、今の私たちが直面する社会問題に真っ向から立ち向かった印象を受けて本当に素晴らしかった。
そして個人的には、その描き方が前作の『フェイクスピア』よりも秀逸に感じられて、本当に良く出来た戯曲だと驚くばかりだった。

「NODA・MAP」の作品には珍しく今作では映像が多用される演出になっている。
そこには、初音アイというアバターが投影されて、実体のない彼女が脚本を書き始めるのである。
もちろん初音アイは名の知れた作家でもなんでもないので、チエホウフや同じく作家のブレルヒト(野田秀樹)といった名の知れた作家たちは初音アイを軽蔑する。
そこには、昨今生成系AIの登場によって創作という領域までAIが迫ってきたことによる野田さん自身の危機感も感じられて、それがまた現実と虚構という対比構造ともリンクして面白かった。
また、初音アイといったVtuberに代表されるように仮想現実(メタバース)といった昨今のトレンドの登場もそのテーマに大きく絡んでいて興味深かった。

「不思議の国のアリス」をテーマにした今作だったが、その世界観を上手く舞台上に落とし込んでいた舞台美術のクオリティとセンスに私は惹き込まれた。
ステージの客席の面以外の三方位に鏡が置かれて舞台上が物凄く広く感じる演出や、大きな懐中時計が振り子のように左右に振れる存在感、そしてトランプたち。
「不思議の国のアリス」の世界観が好きな私にとっては感動ものだった。

そして、この作品には私たちが決して忘れてはいけない問題をかなり痛烈に提示されていて、それが色濃く描かれる後半シーンでとても私は苦しく、涙なしでは観られなかった。
そこに母と娘の血のつながった親はたった一人しかいないというメッセージ性も織り込まれて、母親とは何かということも考えさせられる家族を扱った作品であるようにも思えた。
核家族が崩壊しつつある昨今だからこそ凄く突き刺さり考えさせられた。

これぞ野田秀樹さんの素晴らしさ、『フェイクスピア』でも読売演劇大賞を取ったが、たしかに今作でも再び取ってしまうのではないかという大傑作なので、多くの方に一度ご覧になって欲しい(WOWOW等でもやって欲しい)。

写真引用元:ステージナタリー NODA・MAP 第26回公演「兎、波を走る」より。(撮影:篠山紀信)

↓戯曲




【鑑賞動機】

2021年6月に観た『フェイクスピア』、2022年9月に観た『Q』:A Night At The Kabukiと「NODA・MAP」の二作品を観劇してきた私は、野田さんでしか描けないこの歴史や古典文学や社会問題を上手く織り交ぜて一つのテーマを描いていく作品に虜になってしまったので、今回の新作公演も迷わず観劇することにした。前評判も相当良いので期待値高めで観に行った。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

兎のような白い衣装を着た脱兎(高橋一生)がモノローグを語る。波を渡って「うつつの国」からアリスを連れて、自分の故郷である「もうそうするしかない国」に帰っていく。不条理の波を超えて。
こんな訳の分からないシナリオはなんだとキレるのは、チエホウフ(大倉孝二)と名乗る作家。そこには、元女優のヤネフスマヤ(秋山菜津子)もいた。チエホウフは、不条理な作品を描く劇作家である。ヤネフスマヤは、自分を今度書く作品に登場させて欲しいと懇願する。チエホウフは、『桜の園』ではなく『遊びの園』で登場させると言う。

一方、アリスの母(松たか子)は自分の娘であるアリスが行方不明になってしまったと、「迷子案内所」を訪れる。「迷子案内所」でアリスという娘を探していると母は訴えているにも関わらず、誰も相手にしない。それどころか、そこにいたチエホウフは脚本を書こうと嘘の情報を言ったりしている。
アリス(多部未華子)は、脱兎と共に三方位に鏡が置かれた世界に迷い込んでいた。脱兎は体ではなく気分が大きくなる酒をアリスに飲ませようとした。アリスはそれを飲む。そして気分は大きくなって高笑いしたが、気分だけではなく体まで大きくなった。そして今度は、体が小さくなっていったりした。

チエホウフの元に、もう一人作家が登場する。茶色い壁のような所から現れた彼はブレルヒト(野田秀樹)と名乗っていた。ブレルヒトは『三文オペラ』を手がけた作家。そして、ベニスの商人に登場するシャイロックを名乗るシャイロック・ホームズ(大鶴佐助)も登場する。
ブレルヒトは、『三文オペラ』から音楽に合わせて人々が楽しそうにダンスするシーンを思い浮かべる。そこはまるでネバーランドのようで脱兎だった高橋一生さんがピーターパンになって登場する。親から離れて大人になんてなりたくないんだと。
その頃、映像では成田闘争の映像が流れる。成田空港建設に反対する農民たちが一揆を起こしている昔の映像である。そして実際に、ヘルメットを被った人たちが集団で反対運動を起こしている。それは、統合型リゾート建設による劇場の取り壊しの反対運動である。
そんな混乱の中、チエホウフやブレルヒト、そして第三の作家(山崎一)、そしてアリスの母は兎の格好をした工作員によって拉致される。

兎の格好をした脱兎は、逃げ回る。そしてそれは監視カメラによって捉えられ、映像として映し出される。ステージ上を駆け回る所、バックステージを駆け回る所、そして屋上に行って空を飛んでいく所。うさぎとカメラ。カメラによって監視されている。
アリスやチエホウフ、ブレルヒト、アリスの母たちが迷い込んだアナグラでは、そこには東急半ズボン長官(山崎一)によって脱兎たちが統治されていた。椅子をまるで軍隊のように一斉に鳴らしながらやってくる。
アナグラでは、アナグラムの授業が行われる。「うさぎなみをはしる」という文字を入れ替えて、色々な文章を作る言葉遊びが行われる。アリスの母は、素晴らしいアナグラムを思いつく(内容は忘れた)。
今度は英語のアルファベットで「usagi namiwo hashiru」をアナグラムで並べ替える。すると、「iam usagi now rush」と脱兎は並び替える。しかし、ここでおかしいのが「usagi」だけ英語ではないこと。ここに秘密を解く鍵が隠されている。「usagi」は「usa-gi」つまり、アメリカ兵を意味し、脱兎たちはアメリカ兵を目指す軍事訓練をする者たちだったと分かる。

脱兎たちはVRゴーグルをして仮想空間(メタバース)を見始める。そしてスクリーンには初音アイと名乗るVtuberのようなアバターが現れる。彼女は、脚本家であることを名乗り、チエホウフやブレルヒトに対抗しようとしてくる。
VRゴーグルをした脱兎、つまり工作員たちは「うつつの国」から「もうそうするしかない国」へ人々を拉致していく。VRゴーグルで現実世界とメタバースを繋げるARは、ポケモンGOのようだとチエホウフたちは言う。

児童養護施設では、赤子たちが沢山いてそこで育ての親たちが赤子を乱暴に扱いながら子育てしていた。アリスの母も同じように自分の子供ではないけれど、誰かが産んだ赤子の面倒を見ていた。
そこに、その赤子の生みの親であるアリスが現れる。そして赤子をめぐって、生みの親と育ての親の対立が始まる。まるで赤子を取り合う綱引きのようになっていた。しかし、アリスの母が、その生みの親であるアリスのことを自分の娘だと気がつき、対立は収まる。
胎内に赤子がいる時、赤子が動くたびに「ドキッとした」と言う。それは、生みの親と子供とを繋ぐ関係。

階段を降りて、「もうそうするしかない国」から戻ってきたチエホウフとブレルヒト。そこには、おかえりなさいと言わんばかりの一般人たちが押し寄せる。
そこは成田空港なので、成田空港建設に反対する農民たちもいる。そして統合型リゾート建設に向けて動き出す。

一方、アナグラでは脱兎がなんとかして平熱38度線を越えて亡命しようと試みていた。脱兎はアリスに惹かれているようだった。脱兎は、アナグラでこうして自分の個性を失って軍隊のようにUSA-GIとして生きていくことが辛くなったようだった。USA-GIであれば、この平熱38度線を超えることができる。なぜなら工作員として外に出ることが許されているから。
アリスはUSA-GIでないため、この平熱38度線を超えることは出来ない。カメラの監視を潜り抜けながら脱兎は平熱38度線を超えていく。1993年9月4日、安明進(アン・ミョンジュン)は亡命し、アリスの存在を「うつつの国」へ伝えた。

夕方、海沿い中学生の制服姿のアリスは友達とさよならした後、兎の格好をした工作員によって袋を被せられる。それは動けば動くほど布が絡み合って身動きが取れなくなる袋。脱兎はその袋に入ったアリスを船に乗せて「うつつの国」から「もうそうするしかない国」に向かった。不条理な波を渡って。ドボルザーク交響曲第9番『新世界より』第2楽章(家路)が流れている。

初音アイが書いた脚本によって、遊びの園ではゲームが展開されていた。チエホウフとブレルヒトの二人の作家は、まるで片方の手が機械化してしまったかのように、自動手記のようにひたすら脚本を書き続けていた。
しかし、初音アイというアバターに実態はなく、AIであることが明らかになる。ブレルヒトは呟く。AIが過去のデータから脚本を書くように、作家は歴史から脚本を書くことは同じようなことなのかもしれないと。

アリスの母とアリスは二人抱き合っていたが、それは幻であったかのようにアリスは移動式の壁によって消されてしまう。安明進は、懐中時計をアリスの母に渡すことは出来ずして、何者かによって連れ去られ行方不明になってしまう。
脱兎はモノローグを語る。波を渡って「うつつの国」からアリスを連れて、自分の故郷である「もうそうするしかない国」に帰っていく。不条理の波を超えて。ここで上演は終了する。

「不思議の国のアリス」、「ピーターパン」、チェーホフ、ブレヒト、成田闘争、児童養護施設、統合型リゾート施設建設による劇場の解体、仮想現実(メタバース)、生成系AI、そして拉致問題。今作を構成する要素が多すぎて、一度では全然消化不良に終わってしまった。「ピーターパン」やシャイロック・ホームズの関連がちょっと薄い感じがして、登場するならもっと本編に絡んできてほしかった。しかし、こんなに要素があるのに、ぼんやりと一つのメッセージ性とストーリーに向かって回収されてまとまっていく野田さんの脚本はお見事だった。一体、こんな発想どうやったら持つことが可能なのだろうか。
今作で一貫しているテーマは、現実と虚構というこれまた『フェイクスピア』とも通じるようなメッセージ性。そして現実と虚構という境界線というのは、実は脆いもので意外と曖昧なものであるということ。そのようなことを全てのシーンで感じさせられた。
そして、まだ終わっていない、私たちが忘れては絶対にいけない拉致問題をこのような形で演劇にした野田さんの覚悟と素晴らしさには拍手喝采。まだ物語にするには早いのではと思うかもしれないが、今でさえ風化しつつあるこの問題は、今だからこそ上演する価値があると思った。詳しくは考察パートでまとめたいと思う。

写真引用元:ステージナタリー NODA・MAP 第26回公演「兎、波を走る」より。(撮影:篠山紀信)


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

「不思議の国のアリス」をイメージしたユニークな舞台美術、そしてそれだけではなく北朝鮮の軍隊や工作員の不気味さを上手く演出したものや、初音アイといったメタバース的な演出、そして映像を多用した「NODA・MAP」としては珍しい演出や、いかにも「NODA・MAP」らしい駆け回るアンサンブルたちや移動式の壁による役者の出現/消滅。取り上げたい演出が多すぎて目がまわるほどだが、2時間10分存分に楽しませて頂いた。
舞台装置、映像、衣装、小道具、舞台照明、舞台音響、その他演出について詳しく見ていく。

まずは舞台装置から。
今回の上演では、何か大きな舞台セットが仕込まれるというよりは、東京芸術劇場の広々としたステージを目一杯広く使って役者が駆け回るシーンが多かったように思える。ただ、何も仕込まれていない訳ではなくステージの客席面以外の三面にユニークな仕掛けがあって、そちらに目を奪われて素晴らしかったという感じ。
一番印象に残った舞台装置は、なんと言っても「不思議の国のアリス」の世界観を反映した鏡の置かれた舞台装置。ステージの下手側、後方、上手側に巨大な鏡が置かれており、下手側を見ればそちらにもステージ上の役者がいるように見えるし、上手側を見てもそちらに役者がいるような感じがあって、不思議の国アリスっぽさがあると同時に、それによってステージが物凄く広く感じられるカラクリも面白かった。さらに、ステージ後方には鏡が何重にも後ろに置かれているような摩訶不思議な世界観が広がっていて、これはおそらく巨大な懐中時計の振り子の両サイドに鏡が置かれていたから、あのように無限に何重にも鏡が置かれているように感じられたのだろうと思う。あまり舞台では見られない面白い舞台美術だった。懐中時計の振り子も物凄くインパクトのある存在だった。懐中時計の舞台美術も良くて、ファンタジーっぽさが溢れていて好きだった。
また、成田闘争で農民たちがヘルメットを被りながらステージ上を走り回っているシーンがあったが、そのときも懐中時計の振り子は振り続けていて、それはどこかパワーショベルのようにも思えてきてユニークだった。土地が破壊されている感じがした。
ステージ後方の開閉する壁が様々なシーンで機能しているのも良かった。初音アイというVtuberのアバターが登場するも、結局は中身はAIで人間ではなかったという設定の際、光り輝く機械みたいのが出てきて、そこでも開閉する後方の壁が活躍していて良かった。また、そのシーンでチエホウフとブレルヒトが乗っている自動手記のマシーンも近未来的でカラフルにチカチカ光っていて印象に残った。

次に映像について。
今回の「NODA・MAP」では映像も沢山使われたが、その使われた映像の種類も沢山あったので、一つ一つ見ていく。
まずは、成田闘争の過去の実際の映像を流していたシーン。移動式の茶色い壁みたいなものに投影して流していた。何十年も前の昔のモノクロの映像なので、映像を映すスクリーンも茶色く年季の入ったような模様の壁面だったので、映像を映す場合は何に投影するかも大事なのだなと考えさせられた。
次に、高橋一生さんが演じる脱兎が、監視カメラに監視されながらステージ上やバックステージや屋上から空に向かって飛び立つのを映像を使って流していたのが面白かった。あれってどこからが収録した映像で、どこからが監視カメラによる実際のリアルタイムの映像なのか気になった。全てを元々収録していた映像だったら、役者の動きとずれちゃうから、ステージ上を投影する映像はリアルタイムなんじゃないかと思う。だが、バックステージはおそらくああなっていないと思うので、そこは収録な気がするが、タイミングがズレちゃうと大変だしなんて思いながら観ていた。そして、屋上から飛び立って空中を高橋一生さんが舞うシーンは絶対CGだなと思いながら観ていた。ステージ上とバックステージを映すのは、現実と虚構の間を描きたかったのかななんて思った。今作のテーマが、現実と虚構の境界が曖昧であるというテーマだと思うので、劇と劇の外、つまり現実と虚構を描きたかったのかなと思った。また、高橋一生さんが屋上から飛び立ったのは、ピーターパンを意識したのだろうか。ネバーランドへ向かおうとしたのだろか。という解釈と、後半のシーンのことも考えると、安明進が北朝鮮を早く亡命したいという願望なのかもとも思った。
そして、アナグラムを映像を使って演出するのもなかなか新しくて面白い演出だと思った。たしかにアナグラムは台詞だけだと全く観客には伝わらない。映像を使うことで初めて伝わるし、その面白さが分かる。アナグラムみたいな言葉遊びは、映像を使わないと伝わらないという点では「NODA・MAP」らしくなかったかもしれないが、言葉遊びという点では「NODA・MAP」らしくて面白かった。「うさぎなみをはしる」は、アナグラムで色々な言葉が作れそうだが、こここそChatGPTが使えそうな領域だなと感じた。ChatGPTで「うさぎなみをはしる」をアナグラムでと命令すれば、面白いアイデアがいくつも返ってきそうだと思った。野田さんのことなので、そんなことにChatGPTは使わないと思うが。そして、今作のタイトルが「兎、波を走る」になった一番の要因はきっとアルファベットを入れ替えると、「iam usagi now rush」が思いついたからだろうと思った。それを映像で分かりやすく演出した点が良かった。

次に衣装について。衣装は、「NODA・MAP」では毎公演ひびのこずえさんが担当し、紀伊國屋演劇賞を受賞されるので、今回も期待だった。
まずはなんといっても、アリスの衣装が可愛すぎた。ディズニーの「不思議の国のアリス」に登場するアリスがイメージとしては近いのかなと思ったが、あの青いメイド服っぽい感じが多部未華子さんに凄くお似合いでセンスを感じた。
脱兎の衣装も良かった。最初は動きやすそうな白い兎っぽい衣装というイメージだったが、物語が進むにつれて工作員にしか見えてこなくなったのは凄いプランだと思った。
個人的には、東急半ズボン長官の衣装も好きだった。スーツ着ているのにちゃんとズボンが半ズボンだったのは面白かったし(靴下が長かったから、足は見えなかった)、あのスーツの質感とか色彩がいかにも北朝鮮の軍人らしくてデザインセンスがすごかった。それにしても、半ズボンにされた挙げ句北朝鮮の軍人の名前に使われてしまうと東急ハンズが怒りそうだが笑。
そして松たか子さんが演じるアリスの母は、最初登場した時は、なんで1970年くらいの昔の昭和レトロな衣装なのだろうと違和感があった。しかし、後半に差し掛かるとそれは伏線だったということに気付かされる。拉致被害者のご家族なのだから。そんな仕掛けも用意されている衣装は素晴らしかった。

次に小道具について。
まずは、序盤に登場した大縄跳びのような縄が印象的で、序盤では波をイメージしていると感じた。しかし、物語後半では平熱38度線、つまり北朝鮮と韓国の軍事境界線に同じような大縄が使われていたのが印象的だった。
あとは、チエホウフやブレルヒトたちが被っていた「不思議の国のアリス」の被りものも印象的だった。かなりおもちゃっぽくて、かつ不気味な感じが良かった。一緒に登場していたチェシャ猫のインパクトも良かった。あれはディズニーの「不思議の国のアリス」にも登場するらしい。
天井に置かれていた、監視カメラが常に動いていたのも面白かった。シーンによっては天井にも観客の目線がいくような演出はいいなと思った。
脱兎たちが、椅子をドンドン鳴らしながらやってくる感じも良かった。たしかに北朝鮮の軍人たちをイメージする。あの音の響きが印象に残る。

次に舞台照明について。
私の記憶違いかもしれないが、舞台照明に関してはあまり目立った演出はそこまで多くなかった印象。どちらかというと、舞台セットだったり小道具、衣装、映像、音響がメインだった気がするので。
ただ、一つ確実に印象に残ったのは、アリスが「うつつの国」から「もうそうするしかない国」へ脱兎によって拉致されるシーンの夕焼け。あの夕焼けの暗いオレンジ色が凄くダークなものに感じた。そして残酷に思えた。シーンが物凄く苦しいものだったから照明も印象に残っているのだと思うが、色々と拉致事件を妄想してしまった。
あとは、成田闘争で農民たちがステージ後方で上手から下手に向かって走っていくときに背後がオレンジ色に照らされていたのも印象的だった。またピーターパンのシーンでは緑色に照らされていたのも。

次に舞台音響について。今作の劇中歌やBGMは、サブスクで7月10日から解禁している。
序盤やラストのシーンで流れる、「Elegy」という書き下ろし楽曲がとても好きだった。どこかジブリのような日本映画のサントラにありそうな聞きやすい楽曲で好きだった。そして、どこか童話っぽくも感じるし、アニメーションのようにも感じられる。序盤もラストシーンも高橋一生さんのモノローグで始まり、終わるが、この楽曲が流れることで、どこか御伽話にも感じられるし、アニメーションのようにも感じられるし、ノンフィクションなのだけれどそれをフィクション、しかも子供向けの昔話のように仕立て上げる演出が素晴らしかった。本当に忘れてはいけない事実だし、こうやって語りづがれて欲しいと感じた。
少ししか流れなかったが、ブレルヒトの登場の所の『三文オペラ』が台詞に登場したときにかかる陽気な音楽も好きだった。「モリタート」という有名な劇中歌らしい。聞いたことあると思ったら、やっぱり有名な曲だった。
「Peter Ban」という楽曲も良かった。映像で脱兎が屋上から空を飛ぶシーンに流れるBGM。素敵な時間だった。
そして、こんなにも優しくなめらかな音楽なのにシーンが残酷に感じられたのは、ドボルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章(家路)が流れた、アリスが拉致されるシーン。シーンがシリアスすぎるから優しい音楽が丁度良いのかもしれない。でも家路というタイトルの曲だから、視点としては脱兎の立場ということか。
その他にも、効果音として印象に残るものが沢山あった。初音アイのVtuberとしての声色も好きだった。ボカロみたいな感じが良かった。あとは、成田闘争のシーンの拡声器の音声も印象に残った。
そして、アリスが拉致されるシーンで波の音も聞こえていたが、それも凄く心に打たれた。

最後にその他演出について。ここではその他に印象に残ったシーンについて記載していく。
まずは、移動式の壁によって人が登場したり、消えたりする演出。『フェイクスピア』でもこの仕掛けはあったが、今回でも野田秀樹さんはこれによって登場し、消えたりしていた。あとは、ラストシーンでアリスの母に抱きしめられたアリスがこの移動式の壁によって消えていくのはなんとも切なかった。アリスは今でも母の元に戻ってきていないことを示していて辛かった。
児童養護施設で、アンサンブルのキャストが育ての親に扮して赤子を雑に扱う演出が印象深い。まるでヨーヨーでもやるような感じで赤子をあやす感じがアイロニー効いている。
下手か上手に人を連れ出して、おそらく銃で発砲して人を殺すシーンがあったが、そこで「パレードか」とリアクションするあたりが印象に残った。きっと人殺しは水面下で沢山行われて、表には出てこないのであろう、あの国は。
あとは、細かいシーンだが、ハートのAで中心に心臓が描かれたトランプが、「ドキッとした」と言って舞台上を駆け巡るシーンも印象に残った。

写真引用元:ステージナタリー NODA・MAP 第26回公演「兎、波を走る」より。(撮影:篠山紀信)


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

もちろん、メインキャストは豪華で皆俳優として素晴らしかったが、この人アンサンブルなの?というくらいアンサンブルキャストも充実していて、特に東京演劇道場の俳優さんが沢山出ていて素晴らしかった。
印象に残ったキャストについて記載していく。

まずは、主人公脱兎を演じた高橋一生さん。高橋一生さんの芝居は、舞台『フェイクスピア』以来2度目となる。
今作を観て思ったのが、もちろん高橋一生さんは俳優として、演者としても素晴らしいのだが、体力的な身体表現という面でも素晴らしいと改めて感じられた。出番は当然高橋一生さんは多いが、ステージ上を動き回っているシーンも多かったように思える。それこそ、バックステージに向かってそこを映像で投影されていたり、台詞だけでなく動きも多いからこそ「NODA・MAP」のメインキャストとして高橋一生さんは向いているのだなと思った。
そして声が凄く威勢がある所も良かった。「USA-GI」と連呼するのも凄く耳に残るし、北朝鮮の一兵卒として、軍人として誠実な感じが伝わってきて良かった。きっと安明進もこんな人だったのだろうか。北朝鮮という極悪な世界にいながら、自分で正しいと思ったことは曲げず、亡命して事実を外の世界に伝えた彼という人物像が、たしかに高橋一生さんの誠実さに合っていた。

次に、アリス役を演じた多部未華子さん。多部未華子さんは、映像作品では様々な作品で拝見しているが、舞台では初めて拝見した。
まずアリスの衣装が凄く似合っていたし、可愛らしかった。そして、アリス自体が西洋の物語なので、表現が色々オーバーな印象があった、舞台だからだろうか。酒を飲んで気分が大きくなったときの演技とか凄く良かった。
特に印象に残ったのは、やはり脱兎に拉致されて海を渡るシーン。「おかあさん」と何度も叫ぶあのシーンは、本当に涙なしでは観られない。その「おかあさん」と叫ぶ様子は、逞しいアリスではなく中学生の娘だった。もう居た堪れなかった。だからこそ血のつながった親というのは、たった一人しかいないのだからとてもかけがえのない存在なのだと気づかせてくれた。そんな名演を熟されていた多部未華子さんは素晴らしかった。

次に、アリスの母役を演じた松たか子さん。松たか子さんは、『Q』:A Night At The Kabukiに続き、2度目の演技拝見である。
アリスを必死に探す母親の姿がとても魅力的で、特に前半は惹きつけられた。アリスと生みの親、育ての親で対立して出会うみたいなシーンがやっぱり印象的だった。育ての親と生みの親、どちらが良いかという議論は不毛だし、明確に決着をつける作品ではないけれど、個人的には生みの親の存在がやはり今作では輝いて見えた。
そしてラストは、抱きしめていたアリスが実はいなかったというのが本当にせつない。

チエホウフ役を演じた大倉孝二さんも素晴らしかった。大倉さんは何度も舞台で演技を拝見しているが、今回もコメディアン的な立ち位置で観客を沢山笑わせてくれた。
特に序盤のヤネフスマヤとの会話は面白かった。チエホウフとして不条理劇を書く作家としての悩みみたいなものを感じられて面白かった。

今回の野田秀樹さんは、『フェイクスピア』や『Q』:A Night At The Kabukiといった過去の「NODA・MAP」の作品よりは、あまり目立った役ではなかった。
しかし、考察パートでも書くが野田さん自身の自己投影な感じがして、AIなどの最新技術に対する畏怖みたいなものを感じたので、凄く野田さん自身が現れた役ということで好きだった。

アンサンブルの方の演技も素晴らしくて、役のない演者をやっているのが勿体無いくらいだった。野田さん、アンサンブルの方にも役名を与えてくださいと思う。
森田真和さんは、シャイロック・ホームズと共に刑事役として出演しているシーンがとても印象的で格好良かった。凄く似合っていた。もっと出演シーンがあったらと思うくらいだった。
似せアリス役を演じていた茂手木桜子さんの存在感も良かった。
また、李そじんさんも他の舞台作品で何度か拝見しているが、児童養護施設で育ての親をやっていたりと存在感があって良かった。

写真引用元:ステージナタリー NODA・MAP 第26回公演「兎、波を走る」より。(撮影:篠山紀信)


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

私は、脱兎である高橋一生さんが演じていた安明進という人物を恥ずかしながら知らなかった。安明進という人物はwikipediaによれば、元北朝鮮の工作員であり、1993年9月4日に北朝鮮と韓国の軍事境界線である北緯38度線から脱北、亡命して韓国に逃れた人物である。そして、彼は拉致された横田めぐみさんを北朝鮮で目撃したと証言した人物だった。そこから、10年以上も行方不明だった人々が北朝鮮に拉致されたということが明らかになっていったのである。
公演パンフレットを見ると、参考文献に『北朝鮮拉致工作員』という書籍が書かれており、これは安明進が書いた本で、どうやら調べてみると、この本では安明進が北朝鮮の工作員として送った日々の記録が書かれている。なぜ北朝鮮は日本人を拉致しなければいけなかったのか、工作員たちはどのように拉致したのか、拉致した後日本人たちはどんなことをされたのか、工作員の軍事訓練はいかようのものだったのか、それについて詳しく書かれているそうである。私はまだこちらの書籍を現時点では読めていないが、この後読んでみようと思っている。

野田秀樹さんがこの書籍を参考にしているということは、劇中で描写されている、拉致の仕方とかアナグラでの軍事訓練といった描写は実際のものと近いと考えられる。
それだけ過酷なことを強いられたら、工作員たちは正気を理性を失ってしまいそうだが、安明進はそれを失わず、こうやって世界に北朝鮮の実情を発信してくれたと考えると凄い人だったなと思う。
そしてさらに怖いことが、wikipediaに書かれていて、どうやら安明進は現在消息不明となっており、2016年後半に中国で失踪しているとのことである、おそらく殺害されているであろうと。だから劇中でも、高橋一生さん演じる安明進は最後行方不明となって終わっている。

暗い話から考察パートに入ってしまったが、そんな拉致問題を踏まえて今作の考察をしていこうと思う。
今作のテーマは『フェイクスピア』と根幹は同じで、フィクションとノンフィクション、現実と虚構についてだと解釈している。そして、この現実と虚構の明確な境界線というのは実は曖昧なものであるということをテーマとして掲げているように思う。

その根拠を一つ一つ見ていこう。
まずは、この作品自体お話を全て理解出来た人っているのだろうか。おそらく不可能だと思っていて、これはむしろ野田さん自身がそう仕向けているように書いていると思われる。まず、今作のあらすじは潰れかかった遊園地で繰り広げられる劇中劇、つまり今作で描かれていたことは劇中劇だと言っているのである。
それは、物語序盤にチエホウフという不条理の劇作家が「桜の園」ではなく「遊びの園」を書きたいと言っていて、それが遊園地で繰り広げられる劇中劇と捉えれば、アリスがアナグラに迷い込んでしまったことも、統合型リゾートを建設しようと劇場を取り壊そうとしていることも、全て劇中劇だったと解釈ができる。
しかし、その劇中劇には紛れもなくノンフィクションが混在している。1993年9月4日に安明進が韓国に亡命したことはノンフィクションだし、海辺で夕方女子中学生が拉致されたこと、つまり横田めぐみさんが拉致されたこともノンフィクションである。
だから劇中劇というフィクションの中に、ノンフィクションが混在する、つまり現実と虚構が入り混ざっていることを示している。

それだけではなく、今作では仮想空間(メタバース)とARゴーグルをつけながら現実世界を歩き回るポケモンGOについても言及される。これは、現実世界と仮想空間という非現実世界という現実と虚構が混在する世界を描いている。
また、今作では「不思議の国のアリス」をベースにしているが、この不思議の国というのは「もうそうするしかない国」を今作では示しており、これは北朝鮮であることとリンクする。一方、そことは対立的に「うつつの国」が存在してこれは日本を指していると考えられる。そして今作では「うつつの国」が私たちが目に見える現実で、「もうそうするしかない国」は世界的に閉ざされて私たちからは見えない妄想の世界、つまり虚構であるが、どちらも同じ陸続きになっている点では混在しているのである。
このように、現実と虚構というものを私たちは定義しようとするが、実際にはどちらも同じ世界線にあるものだし、明確に線引きすることのできない繋がったものであるから曖昧なのである。

この物語では、対比構造になっているものが現実と虚構だけではなく、あと2つ存在する。
まず一つ目は、生みの親と育ての親である。アリスの母とアリスが、アリスの子供を綱引きのように引っ張り合う構図が印象的で、その前後も描写を見ても、児童養護施設の問題もあったりして、育ての親だと子供をぞんざいに扱うというのもあるが、実はこの対立構造はアリスと脱兎の対立構造でも同様のものが見られると感じた。
アリスは、横田めぐみさんを指していて、生みの親との繋がりを求めている。「おかあさん」と叫ぶ拉致のシーンも印象的だし、アリスも「不思議の国のアリス」で早く家に帰りたかった。一方で、脱兎は出身は「もうそうするしかない国」なのでそこを生みの親と考えると、そこから出たい、離れたいという意識があってアリスとは真逆である。そして脱兎の前世であるピーターパンも、大人になりたくないと「ネバーランド」に逃げ出している。これは、自分から意識的に逃れようとしたい立場で、アリスと真逆である。ちょっと情報がなくて憶測になってしまうが、安明進はもしかしたら生みの親がいなくて、北朝鮮の軍事訓練の場所そのものが育ての親だったのかもしれない。だから、そこを出ようとしたのかななんて思う。

もう一つは、人間とAIの対立である。ここには野田さん自身のAIに対する恐怖の現れも感じられた。
野田さんが今まで過去の古典戯曲同士を織り交ぜたり、言葉遊びによって脚色したりして上演されるものが多かった。しかし、AIというのはビッグデータから過去のものを織り交ぜて新しい創作物をつくることを得意とする。お絵描きAIも、既存の画像を上手く織り交ぜて新しいものを造形したり、ChatGPTも既存のデータから創作しているので、0から1をしている訳ではないが、新しいものを生み出している。これは、ある意味過去野田さんがやってきたことに近いのかもしれない。
人間のクリエーションは、0から1をしているように思えたが、結局は歴史というビッグデータから新たなものを作り出している訳で、0から1を創作している訳ではないのかもしれない。そんなメッセージ性が捉えられて考えさせられた。そういった作家の漠然とした恐怖を今作から読み取った。

ではそういった対立構造を描くことで、野田さんは今作で何をメッセージングしたいのだろうか。それは、私は対立関係にあると思い込んでいるものに向き合って欲しいということなんじゃないかと思う。
野田さん自身は、ChatGPTという生成系AIという強者が出現したことと、AIの存在を劇中に描くことで向き合っている。作品中ではVtuberのアバターの初音アイという実態のない脚本家で、チエホウフもブレルヒトもこの初音アイと向き合う。
では私たちは何と向き合うのか。私たちは、自分たちがいる世界を現実と考えて、観測できない世界を虚構と捉える。その観測できない世界というのは、紛れもなく「もうそうするしかない国」、つまり北朝鮮のことである。私も今作を観劇するまでは拉致問題が残されていることについて記憶が薄らいでいた。
普段の生活には入り込んでこなくても、その問題は同じ世界線に取り残されている。だから、私たちはその問題に向き合って忘れてはいけないのだと思う。
拉致被害者の方々も高齢で亡くなってしまえば、それこそ拉致問題はどんどん風化して有耶無耶なまま忘れ去られてしまう。しかし、観劇したようにあんな酷い仕打ちが過去にあった。アリスを拉致するシーンはなんともインパクト強くて観ていられなかったが、あそこまで刺激の強いシーンとして作られたのは、おそらく今を生きる私たちが忘れてはいけないからであろう。
だからこそ、この問題は後世に伝えていかなければならない。その責任が、その問題があった当時を知っている私たちの使命なのかもしれない。そう語りかけてきているように、私は今作には感じた。

写真引用元:ステージナタリー NODA・MAP 第26回公演「兎、波を走る」より。(撮影:篠山紀信)


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