広告代理店・萬年社。その栄枯盛衰。
大阪に本社を置くことにこだわったばかりに倒産してしまった「萬年社」。私も広告関係者として少なからぬ関係がありました。その栄枯盛衰を探って行きたいと思います。(敬称略)
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株式会社萬年社(まんねんしゃ)は、かつて大阪市中央区に本社を構えていた日本最古の広告代理店である。
1890年に元新聞記者だった高木貞衛によって広告取次業として設立。当時の地元紙「大阪毎日新聞(現:毎日新聞大阪本社)」「大阪朝日新聞(現:朝日新聞大阪本社)」と提携し、全国紙化に多大な貢献を残し、一気にその勢力を拡大。大正時代には雑誌「広告論叢」「広告年鑑」を刊行。こうした大阪での活動を足がかりに全国的企業に発展した。
しかし、戦後は電通などに最大手の座を譲って徐々に地位が低下、平成期には上位10社圏外となる。
さらに東京一極集中により、関西に本社を置いていたスポンサー企業が相次いで東京に移転して経営が悪化したのに加え、それに伴う不渡りなどの影響からおよそ150億円ほどの負債を抱え、1999年、自己破産を申請して倒産した。
なお同社の所蔵資料は大阪市立近代美術館(建設準備室)が購入・保管しており、現在大阪メディア文化史研究会が大阪市立大学を拠点に分析作業を進めている[5]。
本社ビル(泊園書院跡地[注釈 1]に1971年竣工[7])はディスカウントストアのジャパン(スギホールディングス傘下)が買い取り、スギホールディングスに吸収合併されるまで同社の本社としていた。
Wikipediaより引用
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「萬年社」からは多くの逸材が輩出されました。その中でも、サブカル的に有名なのは、この二人でしょう。
■売野雅勇
コピーライターとして在籍していた時期あり。後に作詞家に転向。1980年代に数多くのヒットソングを世に送り出したことで彼の名を有名とした。
■衛藤公彦(えとう きみひこ)
1930年8月29日生。大分県出身。法政大学法学部卒業[。1955年に萬年社入社。テレビ制作部長・媒体局長として、『正義を愛する者 月光仮面』(1972年)、『愛の戦士レインボーマン』(1972年)、『まんが日本昔ばなし』(1975年)などを担当した。
(故人 画像3後列中央)
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売野雅勇というと、こちらのヒット曲が有名です。
(※ちなみに、売野雅勇は、萬年社時代に全国紙・新聞全段広告で校正ミスをしてしまい、退社せざるをえなくなったといわれています。その後、東急エージェンシーインターナショナル(現:フロンテッジ)に入社。CBS・ソニーレコード、EMI等の洋楽部門を担当。ピンク・フロイドのアルバムのために書いたキャッチフレーズ「見よ!ピンクの豚が飛ぶ」で注目されました)
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衛藤公彦(えとう きみひこ)さんは、我々、オタクにとっては、子供番組の名プロデューサーとして有名です。代表的なものを挙げてみましょう。
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■愛の戦士レインボーマン(NET)
川内康範の「愛と献身・三部作」の第一作目です。東宝製作の特撮テレビ番組。1972年10月6日から1973年9月28日までNET系で毎週金曜日19:30 - 20:00に全52話が放送された。平均視聴率は関東地区で15.5%、関西地区で20.5%。
忘れてならないのは、こちら。
いやぁ、これほどまでに挑発的な歌はありません。「死ね!」を106回も繰り返しています。作詞はもちろん、川内康範です。
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■ワイルド7(日本テレビ)
「少年キング」に連載されていた望月三起也の漫画の実写化です。1972年10月9日 - 1973年3月26日。全25話。毎週月曜 19時00分 - 19時30分。日本テレビ系列で放映されました。
アニメでの映像化も検討されていましたが、企画者の岡本直文(国際放映プロデューサー)が萬年社の衛藤公彦を強引に説得することで、低予算にもかかわらず実写映像化を実現した。当初は児童層を意識したドラマ展開となっていたが、中盤からハード色を強め、視聴率も20%台を稼ぐほどの人気を博しました。
「この世のどぶさらい」とか「何かありそうなあの七人」とか、阿久悠の言葉のチョイスが天才的ですね。
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■ファイヤーマン(日本テレビ)
ご存知、円谷プロダクションの10周年記念番組。1973年1月7日から同年7月31日まで日本テレビ系列局 (NNS) で放送された特撮テレビ番組です。
円谷プロと萬年社の共同作品です。両社の接触のきっかけは、萬年社と東宝の特撮番組『レインボーマン』の製作発表に端を発します。『レインボーマン』製作発表よりも前に円谷プロでは(具体的な番組企画としては進行していないものの一応の形で)「レインボーマン」の名称を商標登録しており、製作発表当日に版権協会からその旨を指摘された萬年社は「レインボーマン」の商標権の移譲を円谷に打診します。この時から、当時の円谷プロ社長の円谷一と萬年社プロデューサーの衛藤公彦の交流がはじまり、1972年夏に衛藤より新番組の打診を受けたことで、円谷プロのプロデューサーの円谷粲は一日で企画書を作成しました。本作では当時円谷プロ作品で多用していた東宝ビルトに余裕がないため、大映スタジオが使用されました。
レギュラーについては、まず岸田森を起用することが前提とされており、その後は、円谷粲プロデューサーの意向でキャストが集められました。当初、主役の候補には大門正明の名前も挙がっていたとか。
一方、主演の誠直也は、「下手な演技をすると岸田さんにはいつも厳しく指導された。そのおかげで(自分の)訛りも抜けて演技面で大きく成長できた。」とも回想しています。
本作では、岸田森が脚本を手掛けた第12話「地球はロボットの墓場」が白眉ですね。
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私が萬年社に出入りしていたとき、一番驚いたのが、受付の隣に、「ヒサヤ大黒堂」ルームという一種異様な部屋があったことです。萬年社にとっての大きな得意先であったようです。
「ぢ」という看板で有名なヒサヤ大黒堂は、詐欺まがいの商法で、まったく効かない「不思議膏」という薬を通信販売で売っていました。私も使ったことがありますが、まったく効きませんでした。
こういういかがわしい得意先を大切にしているところが大阪らしいというかなんというか。こういうことも、倒産した一因になったのかもしれません。
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なお同社の所蔵資料は大阪市立近代美術館(建設準備室)が購入・保管しており、現在大阪メディア文化史研究会が大阪市立大学を拠点に分析作業を進めています。
明治23年(1890)に高木貞衛(1857~1940)が大阪で創業した広告代理店。
『大阪毎日』『大阪朝日』の二大紙と特約を結び、両紙が全国紙に成長するとともに取扱高を増加させ、大正期に急速に拡大した萬年社は、大阪の売薬、化粧品などの企業との取引を中心に、全国の地方紙にも業務を拡大して全国的企業に発展し、電通、博報堂と並び日本を代表する広告代理店として、長く君臨した。大正11年(1922)、神戸高等商業学校教授を退職した中川静が入社すると、研究雑誌『広告論叢』や『広告年鑑』を刊行し、本格的な広告研究を進展させる拠点ともなった。
平成11年(1999)、自己破産により、約110年にわたる歴史を閉じた。
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最後に、萬年社が制作したテレビCMをご紹介して、締めくくらせていただきたいと思います。
⬆赤ちゃんがハイハイしている場所は、萬年社・大阪本社内にあった撮影スタジオです。
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そして、関西初で全国的に有名だった「アップダウンクイズ」も、萬年社が企画・制作に関わっています。
MBSのアナウンサー・佐々木美絵さんは、MBSラジオ「ヤングタウン」で、角淳一と笑福亭鶴光にオモチャにされていました。受験勉強をしながら、よく聴いたものです。