今はまだ、アートの力に頼りたくない。
ポリアモリーを語り出して9ヶ月。
発信を続けると、ご褒美のように良い出会いに恵まれる。
わずか1年足らずで、たくさんのポリアモリーの実践者たちに会って、話をすることができた。
ポリアモリーをどう理解してもらうか?
実践者の境遇や立場は違えど、これだけはいつも共通のテーマだ。
今日はその中でも印象に残ったアプローチについて。
ポリアモリーとはお互い合意の上で複数の人と同時に恋人的な関係を築く恋愛スタイル。対義語はモノアモリー。過去のシリーズはこちら。
■パーソナリティの後出し戦法
「ポリアモリーのカルチャーをつくりたい」
そう主張するポリアモリーの実践者がいた。最初は意味がわからなくて「どういうことですか?」と尋ねた。
「ポリアモリーの実践者が生み出すカルチャーを認めさせてしまえば、ポリアモリーのことも認めざるを得なくなる」
確かそんな回答が返ってきた。
なるほど、その手があったか。 僕は膝を打った。
ボヘミアンラプソディーでおなじみのフレディ・マーキュリー。
彼の圧倒的な音楽を聞いた後に、彼が「ゲイ」だと聞く。
ミッションインポッシブルでおなじみのトム・クルーズ。
彼の素晴らしい演技を観た後に、彼が「発達障害」だと聞く。
最初からパーソナリティーをカミングアウトすると、その作品を見る目にもバイアス(先入観)が生まれる。
だったら先に作品を認めさせてから「パーソナリティを後出し」すればいい。既にそのパーソナリティーから生まれた作品を認めているのだから、パーソナリティー自体も認めざるを得なくなる。
確かにこの戦略は強い。
ポリアモリーの実践者が素晴らしい作品を世に出して「ちなみに私はポリアモリーです」と言ってのければ、ポリアモリーの市民権は急速に拡大するだろう。
それまで考えたこともないアプローチだった。
■僕には才能がない
ロミオとジュリエットのような作品が「ロマンティック・ラブ」という価値観を牽引したように、芸術には力がある。
ロマンティック・ラブ・イデオロギーについてはこちら
芸術作品として伝えればターゲットも広がるし、右脳や感情に訴えかけることで伝達速度も早い。
ただ、誰もが取れる手法ではない。
僕も例外ではなく、芸術の才能はない。
バンドはやっていたけど、やればやるほど自分の才能の無さに幻滅して断念したほどだ。
僕は人の右脳に訴えることはできない。
その代わり、左脳に訴えることならできそうだった。
プレゼンテーション、資料作り、構造把握、こうしたビジネスで使っているスキルを活用してポリアモリーを語りはじめたのが9ヶ月前のことだ。
そしてこのスタイルをはじめて、右脳に訴える手法の課題にも気づいた。
■アーティストと、自分は違う
ポリアモリーの実践者が素晴らしい作品を世に出して「ちなみに私はポリアモリーです」と言ってのける。
この手法には影響力がある分、課題もあった。
「ポリアモリーはアーティストだから成り立つ」という誤解を与えてしまうことだ。
複数の人と同時に恋愛するなんて、アート系(そっち系)の人たちだからできること。 一般人の私たちには関係のない世界の話だ。
こうしてポリアモリーが「一部の人たちの世界」に押し込められて、二度とそこから出られなくなってしまう。これはポリアモリーを拡めていくことで、もっとも恐れていることの一つだ。
違う。
ポリアモリーは一般の人たち、(あえてこの表現を使うが)普通の人たちにこそ関係がある話だ。
これまでの「普通」に、新しい「普通」を加える。
ポリアモリーは、その一つにすぎない。
LGBTなんて普通のこと。発達障害なんて普通のこと。ポリアモリーなんて普通のこと。
それを伝えなければいけない。
だから感性に訴えないとわからないことじゃない。
カルチャーにしないとわからないことじゃない。
右脳に訴えないとわからないことじゃない。
普通の感覚でわかること。
論理的に説明ができること。
とてもシンプルで、わかりやすいこと。
それがポリアモリーだと僕は伝えたい。
ピカソが生涯9人の女性を愛して、3人の女性と4人の子供を設けたのは、アーティストだったからじゃない。その感覚は誰でも理解できることだ。
アーティストとしての発信する人がいるなら、それを「アート」にしない人も必要だ。筆や楽器で表現する人がいるなら、パワポで表現する人も必要だ。
正直、どこまでやれるかはわからない。
でも今はまだ、アートの力に頼りたくない。
ポリアモリーなんて「普通のこと」だから。
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