シベリウスで涙活してきた~N響定期公演より~

 久しぶりのN響定期公演の演目は、グリーグ、ショスタコーヴィチ、シベリウス、といういかにも涼しげなラインナップだった。
 サントリーホールの良さの一つは、全方位から鑑賞できることである。僕は積極的に、P席と呼ばれる演奏者の後ろから鑑賞する席や、演奏者の横から鑑賞する席を狙う。理由は安いこともあるけれど、その他にもいろいろな魅力がある席だからである。
 今回陣取ったのは客席から見て向かって左側の席。理由は二つある。一つは、打楽器奏者の定位置は後ろか左側だからというもの。その場所から見える光景は見慣れたもので、音のバランスも聞き慣れている。その位置に座るだけで、自分も打楽器奏者の一員として参加しているような気分になれる。
 もう一つは、今回のソリストがピアニストだということだ。ピアノの鍵盤がこちら側を向いているので、演奏している様子がはっきりと見られる。実際、演奏中には身振り手振りやタッチの様子を詳細に見ることができた。
 ホールへの道すがら、道に迷われている方にお会いした。三十年ぶりにホールを訪れたらしい。すぐ近くまで他の方が案内されていて、あと五十メートルというところで迷われていたので、お声がけした。そのままホールに向かう途中でお約束された方と合流されている様子だった。わざわざ埼玉から出てこられたらしい。改めて、いろんなハードルを乗り越えて聴きに来られる方がいることに思いが及ぶ。
 その日は久しぶりに余裕を持っての鑑賞となった。十二月の定期公演には開演間際になって到着することが多かったので、今回はゆったりと迎えることができて良かった。
 あえて直前にチケットを取ったこともあって、横に人はいない。座席数に制限を設けているということもあるだろうけれど、観客数はホールのキャパシティーの半分もいっていない印象。安価なP席と側部席は人が密集していたけれど、正面席は人がまばらな印象だった。
 パンフレットにちらっと目を通して、今回はすぐに閉じた。ちょっと文字疲れしていたこともあったけれど、あまり知らない曲と知りすぎた曲だったから、まずはあまり情報に頼らず聞こうと思った。
 パンフレットの曲目紹介とは難しいものだなと思う。曲の背景や曲自体の説明が多いけれども、その語り口やバランスがとても難しい。観客層を想定して書かれることが多いけれども、今回の解説はやや玄人向け。曲の背景が多めの解説だった。語彙も難しい用語が多い。こんなところにも文学的観点が生まれてしまうのは、物書きとしては仕方がない。
 ぼんやりとしていると、ホールの天井に目が行った。ステージ真上には、個性的な照明が設置されている。茎のように長く伸びた照明は、透明な花弁と穴のあいた茎から察するに、蓮のデザインだろうか。その下に半透明の板が浮いているのは、水面の表現か。それとも反響板の類いなのか。
 そんなことを考えているうちに、いよいよ演奏が始まった。
 さて、始まりのグリーグはなんとも甘い。ふんわりと花が咲いてあたりに広がっていくように、芳香が漂っている。甘美という言葉はあるけれども、このときのために作られた言葉のよう。味覚を刺激するようなやさしい和声が辺りにこだまする。
 演奏会の魅力の一つは、聞いたことのない音楽に触れることだけれど、この一曲目もどうやら聞いたことがないようだった。けれど、どこか懐かしく、心にすっと入ってくる。ゆったりめのテンポが十分な余韻を辿って耳に届く。演奏会の始まりにふさわしい没入感のある演奏だった。
 二曲目に入って気づく。こちらは間違いなく聞いたことがある。初めて聞いたのは確か、どこかで聞いた演奏会のアンコールで演奏されたんじゃなかったかと思う。それから何かの機会に何度か聞いていたと思う。
 表題には「悲しい」と形容されているけれども、音楽の表題における悲しさとは、多くの場合ネガティブなものではない。どこか優しさとか繊細さ、労りの感覚を想起させる曲が多いと思う。この曲を初めて聞いたときも、その溢れる慈愛の響きにとても心が安らいだ。
 北欧の季候は知識でしか知らないけれど、日本の北国の晴れた冬の日をイメージする。そこには冬の冷たさよりも、日差しのあたたかさに気持ちが向かう。今回のゆったりと響きを味わうような弦楽の演奏は、僕の心を鎮めるのに十分だった。
 続くピアノ協奏曲は、聞いたことがなかった。
 まず驚いたのは、弦楽合奏だったこと。あれ、ショスタコーヴィチだったよね? 時代を間違えていないよね? しかし、後からトランペットが入ってきて、それがあえての編成であることを知って納得した。事前情報としてもトランペットもソリストとしていることは知っていたけれど、てっきり「トランペットのソロ部分が印象的な管弦楽による協奏曲」くらいの感覚だったから、動揺した。
 始まってみると、ピアニストが全面に出て空気を作っていく。強烈な個性を持ってこの曲の個性を引き出している演奏で、一気に音楽に引き込まれた。それに対して弦楽器が全く違った様相の音楽を提示し、さらにその合間をトランペットが堂々と存在している。まるで三人の奏者による即興セッションであるかのように、それぞれが存在感を発揮して絡み合っていく。
 レントに入ると一変してどこか古典的な空気の中にショスタコーヴィチの匂いがちらつく。驚くのはトランペットの第一級の演奏。くどくなく、さっぱりした演奏ながら、確実な技術を背景とした余裕のある演奏。この編成なら存在感が出過ぎてしまいかねないと思うのだけれど、なんとバランスが取れている演奏か。メロディックに歌うところはあまり感傷的になりすぎず、掛け合いは適切な距離感を保っている。
 モデラートで印象的だったのは、ピアニストの多面性。楽章毎に空気感が全く違う。楽器が違うのではないかと思えるような多彩な音色を聞かせてくれた。
 さて、勢いよく入った終楽章で気づいた。この曲、初めてではない。何度か聞いている。このあふれるショスタコーヴィチ感。人をおちょくっているような旋律と和音とリズム。僕のショスタコーヴィチの印象はこの感じが強い。
 管楽器は一本なのに、交響曲の一部分であるかのように錯覚してしまうような音響効果のおもしろさ。トランペットの高い技量のためか、とても気持ちよく耳に入ってくる。技術的には難しいはずなのに、全く不安を感じさせない見事な演奏。そこにピアノのめまぐるしい音色の変化が応戦する。何人もの人格が入れ替わるような演奏に圧倒される。
 そしてそのままクラクラしながらフィニッシュ。後から反響も大きかったことも納得のブラボーな演奏だった。
 休憩に入って、すかさず文字に起こす。この文章の序盤の一部はこのときに書かれている。
 演奏会の感想は、時間を経てどんどん変わっていく。熟成されてうまいこと言葉にできるようになることもあるけれど、聞いた瞬間に芽生える印象もある。なるべくなら新鮮な感覚も大事にしたいと思って言語化しておくのだけれど、満足にいった覚えはない。大抵は早くて数時間、遅いと数日経って熟成された、場合によっては化石になった言葉だけで書くことになってしまう。経験を重ねる中で上手くコントロールしていけるものだろうか。
 さて、後半は大好きなシベリウス。この曲を初めて聞いたのは地元の山形交響楽団の定期公演だった。かつて師事していた先生が出演されている演奏会に久しぶりに聴きに行ったときだったと思う。
 山響のシベリウスは格別だった。北国の空気が心身に染み渡っていることもあるだろうか。何の知識もなく聞いた僕に「冷たい熱さ」と言わしめた思い出の曲だ。なぜかわからない冷たさの中に、驚くほどの熱さが込められていた。それからというもの、聞けば必ず元気が出る曲の一つになった。
 高校の授業で聞いた「フィンランディア」は耳に残る名曲だったけれども、それを大学生のときに演奏する機会に恵まれた。あらためてティンパニストとして曲に向き合うと、その難しさに目を白黒させた。確かにかっこいい出番のある曲ではある。しかし、なんとも音色が難しい。特に印象的なロールが上手くいかない。シベリウスの場合は個人的には少し固めの音色が好みなのだけれど、そんな曲や作曲者によって音色を使い分けられるほどの腕前が僕には足りなかった。
 そんな思い出のシベリウス。曲が始まってすぐに涙ぐんでしまった。
 泣くことは想定していた。というよりも、むしろ泣くために聴きに来たといってもいい。なんやかんやと不安のある毎日だ。金はないし仕事もない。感染症は広がる。友達も恋人もおぼつかない。毎日SNSとだけ向き合う中で気持ちが塞いでいく。そんなさなかでの、久しぶりの演奏会だった。チケットを直前に取ったのは、すいている席を取りたいからだけではない。直前まで行こうか迷ったということもある。それくらいに、感染症の影響がある時期だった。
 だから、涙活のために来たのだ。シベリウスで泣かないわけはない。四楽章ではきっと泣いている。しかしどうしたことだ。冒頭のホルンですでに涙ぐんでいる。席がよくなかった。ホルンの真上だ。ホルンの心地よい音色もあってか、涙が溢れてしまった。期待感を膨らませる弦、牧歌的な木管、そしてホルンという鉄板の流れが心に直撃していた。
 このファゴットがはっきり聞こえるのもまた嬉しい。せっかくファゴットが情感豊かに演奏してくれているのによく聞こえないことも多いから、その細部まで聞こえるのはとてもありがたい。
 管弦楽を正面以外の席から鑑賞すると、弦楽器が少し聞こえにくい。そのぶん、普段隠れがちな管楽器の音がはっきりと聞こえる。熟練した演奏ほど、正面から聞くと管楽器は控えめに聞こえるものだ。全体として調和を重んじることが多い。だから、管楽器の音が比較的はっきり聞こえる演奏体験は貴重なのだ。これは演奏者としての体感とも近く、ついノスタルジックな気分になってしまう。
 しかし改めて聞くと、ずいぶんビオラが活躍しているように見える。真正面に位置しているということもあるのだろうけれども、要所でビオラがおいしいところを持っていっているように感じられた。かつてはビオラの音は、チェロの高音域とかバイオリンの低音域と変わらないんじゃないの? と思っていた時期もあるくらいに失礼な認識だったけれども、今ははっきりとその魅力を感じることができる。思えば学生時代仲の良かった友達もビオラだった。今は何をしてるかな。
 ようやくティンパニが入ってくると、改めてとんでもないと思う。シベリウスには、ティンパニに何役させるというのだ。ティンパニの役割は、低音の補強、曲中のアクセント、リズムの明確化、全体のダイナミクスの強調と様々あるのだけれど、古典派の音楽なんかは一曲の中で立ち位置が明確だったりもする。
 それが何だ、このティンパニは。たった数小節の中にいろんな要素を持ってくる。特に難しいのは同じ音のロールをつなげながら、様々な役割を行き来する部分だ。最初は和音の一翼を担っていたと思っていたら、ダイナミクスの強調に移り、はっきりとしたアクセントを経て爽やかに去って行く。楽譜通りにただロールをするだけではしっくりこない難しさがある。シベリウスの語法を理解しないとうまく解釈ができない。しかも後々もとんでもない奏法がたくさん出てくる。ロールを用いた刻み、二台同時演奏など、楽譜だけを見たら演奏方法に戸惑うものばかりだ。それを身近に見られることの興奮は計り知れない。
 二楽章で好きなのが、たゆたう感覚だ。それを支えるのが、管弦が入れ替わり立ち替わりに演奏する分散和音だ。二つの音を行き来するだけなのに、その絶妙な組み合わせが浮遊感を与える。
 そんな浮遊感の中で出ました、トランペット。なんてクリアで嫌みのない音でしょう。先程のショスタコーヴィチの体験があるから、納得の演奏。正直ここでまた涙が出た。音を聞いただけで涙腺がゆるんだ。それをオーボエがすっきりと受け継ぐ。よく聞いたら、木管楽器も随分といろんな役割を与えられている。そもそも木管楽器は明確なソロもあれば、和音の構成音もある多様な顔を持った存在である。それが一層際立って聞こえる。席のおかげもあって、管楽器の皆さんの技巧も体感できて嬉しい。
 繰り返される四楽章を予感させる主題に期待感を膨らませる中でも、それぞれの音に惹きつけられる。
 生の演奏の最大の魅力が低音だ。コントラバスやチェロの魅力は、生の演奏じゃないとなかなか伝わらない。配信では、コントラバスの音はほとんど聞こえないことも多い。
 しかしこの曲の中低音の魅力たるや。こんなにコントラバスが表情豊かに演奏されることがあるのだろうか。単純にダイナミクスだけでも幅が広い。なんとロマンティックなコントラバスだろうか。
 そしてチェロのソリ。改めて生で聞くと、チェロのソリの多さに驚く。要所のインターバルでチェロのソリが演奏され、緊張感をつなげてくれる。
 三楽章はどうしてもテクニカルになりがちだが、とても丁寧に演奏していると感じた。ビバーチェ以上の演奏になると、ついつい勢いで演奏しがちで、テクニックに意識がいってしまう。けれども、とても落ち着いた印象を受けた。だからついつい聞き入ってしまう。だから中低音にも耳が行く余裕がある。個人の趣味としては、ビバーチェ以上でも各音が聞き取れるくらいにはテンポを抑えている演奏が好きだ。そうでないと、音が塊としてしか捉えられなくて、細部の工夫が楽しめなくなってしまう。もちろん、あえて塊として直感的に楽しむ演奏を聞きたいときもあるけれど。
 そうこうしているうちに来ました。四楽章です。不思議と高揚感は抑えめで、冷静に楽しむことができている。あえて薄くつくられた音で語られた後に、バイオリンを重ねて厚く再現される手法は、生で聞くと一層驚きを持って迎えられる。ややもすると薄すぎて壊れてしまいかねない厚みで音楽が続いて行く。こんなに圧倒的なフレーズを、あえて薄い構成でつないでいくのはリスクがあるかもしれないけれども、それをちゃんとつないでいけるシベリウスのバランス感覚、奏者の技術への信頼はすごいと思う。
 いやしかし、コントラバスとチェロいいな。ファゴットも良い仕事をしている。ここまではっきりと仕事の様子が見えるのは、一つには薄い構成に起因している。その奏者がつながなくては続かないバトンを渡している感覚。そしてその先のトランペット、トロンボーン、チューバの音圧。まあ、泣きます。ただ、感極まってというよりは、穏やかに訪れる感動というか。
 そう、この演奏には「冷たさの中の情熱」というよりも、「輝き」という言葉が似合う。演奏にどこか神々しさを感じるのだ。それはあたたかさというよりはもう少しシリアスで厳しい感覚である。「強さ」と言い換えてもいい。この演奏は、我々に「強さ」を暗示している。厳しい現実を直視することを要求しながらも、それでも前に向かうたくましさ。足取りを確かにするようなテンポ感が、この演奏をただの恍惚には導かない。
 気がつくと没入感というよりは、現実の中で音楽を楽しむ自分がいた。あくまで現実の中で生きている。演奏者も、観客も、現実の中で生きて、この音楽をともに作り上げている。それは現実的な「強さ」を実感させるもので、現実的な「輝き」を実感させるものだった。
 もしかしたら、今必要なのは現実を直視しながらもたくましく生きる強さなのかもしれない。それを特に強く感じているのが音楽家達だろう。その励ましにあって、観客も勇気づけられる。
 こうして演奏は終わり、万雷の拍手は鳴り止まなかった。僕も泣きながら拍手していた。
 やっぱり生の演奏はいい。多くの発見とカタルシスがある。けれどそんな場が制限される現状がある。多くの演奏家は苦しい胸中を明かさずにいる。そしてただ我々に喜びを与えてくれている。これでいいんだろうか。この演奏を続けていくことをもっと社会的にも肯定していけないか。そして演奏者の苦しみに思いをはせることも必要ではないか。我々にできることは何だろうか。

【今回の公演】
NHK交響楽団定期公演
4月22日(木)6:00~
サントリーホール
指 揮:大植英次
ピアノ:阪田知樹
トランペット:長谷川智之
コンサートマスター:伊藤亮太郎

グリーグ「2つの悲しい旋律 作品34」
ショスタコーヴィチ「ピアノ協奏曲 第一番 ハ短調 作品35」
シベリウス「交響曲 第二番 ニ長調 作品43」

サポートしていただければ嬉しいです!