見出し画像

初めての東京混声合唱団の演奏会

 考えてみたら、プロの合唱団の演奏会に行くのは初めてだった。長年住んだ場所が合唱の盛んな町だったこともあって、合唱を聞きに行くことはそれなりにはあったけれども、プロの演奏に触れる機会はなかった。

 僕の合唱経験としては、学校の授業や発表会以外では小学校で入団した少年少女合唱団に始まる。僕にとっては、様々な童謡や唱歌に触れる貴重な機会だった。
 しかし、中学校入学と同時に合唱はやめてしまい、そこからの青年期は吹奏楽にどっぷりつかっていくことになった。だから、合唱に触れる機会は学校での活動だけになった。
 中学校は合唱の活動にプライドを持っている学校だったから、それなりに力を入れていた。けれども、外に開かれたようなものではなかったので、あくまで内々で合唱に親しんだに過ぎなかったのかもしれない。ただ、吹奏楽に触れていたこともあって、楽曲への理解はそこそこある方だったから、指揮者として校内の合唱コンクールの曲には、丁寧に向き合っていたと思う。
 そこから高校、大学、社会人の間は合唱に演者として触れることはなかったけれども、演奏会に聴きに行く機会は度々あった。ただ、多かったわけではない。どちらかというと器楽や室内楽の演奏の方が多かったので、合唱単独の演奏会に行くことは年に数回だったと思う。
 そこから一気に合唱への縁が深まったのが、高校教師時代最後の年に任ぜられた合唱部の顧問だった。同じ音楽でも吹奏楽と合唱では全く違う。趣味で合唱曲に親しんだり、全くの楽しみとして合唱コンクールを聞きに行くことはあったけれども、いざ顧問として関わるとなると、とまどうことも多かった。
 それでも、その一年間は集中して合唱の勉強をしたし、合唱業界の価値観や評価の視点に触れられたことは良かった。また、多くの合唱曲、作曲家の作品を知る機会にもなった。吹奏楽に比べると、合唱は圧倒的に歴史の長い音楽である。楽曲から学ぶことも多かった。

 そんな風にして、合唱とは浅からぬ縁のある僕であるが、ここにきて初めてプロの合唱団の演奏を聞く機会に恵まれたのだ。
 東京混声合唱団のことは、もちろん知っていた。演奏のCDを持っていたし、映像で聴く機会もあったと思う。ただ、「プロの合唱団」というものが、いま一つピンときていなかった。オペラのように、大勢の歌手が集まった演奏は聞いたことがある。しかし、「合唱」となるとそれはまた違った技術が必要となる。特に合唱の為に作られた曲、合唱だけの編成による演奏には、独特の技術や感性が必要なはずだ。そんなことを思いながら、開演を待っていた。

 さて、最初に驚いたのは、いきなりの初演作品が演奏されたことだ。初演と呼ばれるものにはこれまでも何度も触れてきたけれども、一曲目からというのは初めてだった。大抵は、プログラムの真ん中辺りか、後半にもったいぶって演奏されることが多いのではないか。これは、初演の多い東混だからなのか。それとも、今回の演奏会が作曲家の相澤直人による指揮、プロデュースだからなのか。
 いずれにしても、この演奏がとても良かった。別なところでも書いていたのだけれど、僕は演奏会の一曲目にはあまりいい思い出がない。どうしても聴き劣りしてしまう印象があった。けれど、この一曲目がとても良かった。
 プログラムを見てわかったのは、いわゆる合唱曲集からまとめて演奏するということだった。合唱を演奏する立場になったことがないとピンとこないかもしれないが、大抵の合唱曲は、合唱曲集として数曲まとめられて出版されることが多い。基本的には、その合唱曲集を歌い手一人ひとりが購入して演奏することになっている。
 著作権上は学校教育の範疇であればある程度のコピーは許されているけれども、コンサート等で演奏する際に利用するのであれば、原則的には合唱曲集の原本を使わなければならない。そうすると、何冊も曲集を持って演奏するのは煩雑なので、一冊の曲集に入っている曲からまとめて演奏する方が効率的なのだ。
 そうして演奏された最初の曲集が、工藤直子の詩による相澤直人作曲の『なんとなく・青空』だった。それぞれの楽曲はもちろん魅力的だったのだけれども、初めて東京混声合唱団の生の歌声を聞いた印象を記しておきたい。

 まず思ったのは、久しぶりにきれいな日本語を聞いたな、ということだった。三部合唱ということもあってか、とても子音がきれいに聞こえる演奏だと感じた。まがりなりにも言葉を生業に仕事をしているけれども、なかなかきれいな日本語に触れる機会は少ない。
 例えば、NHKのアナウンサーの発音が、必ずしもきれいな日本語とは限らない。標準アクセントだとか、滑舌がいいとか、そういうことではないのだ。響きに敏感な耳を持って熟練した人だけが発声できる日本語というものがある。昔の日本映画では、きれいな響きの日本語を使う女優さんが多いと感じたことがある。そこには、言葉に対する感性が不可欠なのだと思う。
 日本語を西洋の音階に乗せるときには、独特な乗せ方がある。それは、日本の民俗的な響きとは違うし、話し言葉とも違う。また、一人で歌うのと、合唱で歌うのとでも違うのだ。そこのところが今一つわからなくて、困ったものだった。未だにそこのところが明確にはわからないのだけれども、いいものは良いとはわかる。まさに、東混の響きは、とても良かったのだ。

 また、ピアニストの働きには、ついつい耳が惹かれてしまった。ピアノという楽器は、独奏楽器としても伴奏楽器としてもよく知られている。それがゆえに混同されがちだけれども、独奏楽器としてのピアノと伴奏楽器としてのピアノは全く違う。
 自ずから、ソリストとしてのピアニストと、伴奏者としてのピアニストも随分違う。良いソリストだからといって、伴奏者として優れているとは限らない。魅力的なソリスト以上に、魅力的な伴奏者の方が稀有な存在なのではないかと思う。それくらいに、伴奏ピアノというのは、かなり特殊な適性が必要なのだ。
 今回の鈴木慎崇(すずきよしたか)さんの演奏は、僕が今まで聴いた伴奏ピアニストの中で、一気にトップに躍り出てしまった。これまでも、うまく合唱とバランスをとっているとか、魅力的な演奏だな、と思う伴奏には出会ったことがあったけれども、それらが覆されるくらいの、初めての聴取体験だった。
 プロフィールを見るまでもなく、圧倒的な経験値を感じた。それは、おそらく合唱だけではなく、室内楽等の経験も相当あるのだろうと思った。音楽への解釈の幅、表現力の幅、そしてその場の対応力の幅が圧倒的だと感じた。それだけではなく、ピアノのソリスティックな部分で垣間見える個性からは、いちソリストとしての音楽性も感じられて、自然と引き寄せられてしまった。今後注目したい演奏家を知ることができて、とても嬉しく思う。

 さて、どの楽曲も素晴らしかったのだけれども、特に印象的だったものについて記したい。

 『聞こえる』は、今回のプログラムの中で唯一知っているものだった。演奏を聞いているうちに思い出したのだが、確かこれは中学校のときの何かの機会に、僕の指揮で学年合唱を行なった曲だったんだと思う。記憶もおぼろげだけれども、卒業時期に何かの行事で演奏したのだったか。
 そんなあるかないかの記憶の断片を感じながら、懐かしく聞いていた。改めて聞くと、なんと青年にふさわしい詩だろうか。起伏に富んだ曲だけれども、詩はとてもまっすぐなメッセージを投げかけている。高校生達の戸惑いに寄り添い、伴走するような力強さを持った名曲である。
 中高生が歌うものも感動的だけれども、プロの歌う演奏はまた違った魅力があった。戸惑う本人の立場というよりも、様々な問いを投げかける存在として、どこか超常的な存在に感じた。テンポ設定はとてもコントラストのあるもので、劇的な変化を楽しむことができた。

 『歌っていいですか』はとてもシンプルだけれども、どこか相澤直人節があるというか、ちょっと遊びというか装飾というか、彩りがある曲だと感じた。芯としてはわかりやすいのだけれども、リズムや音で遊び心がある。谷川俊太郎の詩は、そんな作風によく似合う。
 『音楽のように』で感じたのは、圧倒的な和音の美しさだ。それまでの曲でも、東混の和声の美しさは感じてはいたのだけれども、この曲は特に美しく感じた。特に時折訪れるピアニッシモの響きが美しい。それだけをずっと聞いていたくなるような柔らかい響きがホールを満たしていた。

 そして、アンコールの『ぜんぶ』。これは、もはやずるい。感動するに決まっているではないか。もはや相澤直人の代表作と言ってもいいかもしれないけれども、やっぱり何度聞いてもいいものは、いい。
 この曲は合唱部顧問時代に指揮をしたことがあって、聴き映えとは別に各パートが複雑な動きをしているので、どのように振ればいいのか難しかったのを覚えている。
 この曲の魅力の一つは間違いなく歌詞で、さくらももこの易しく、明確な言葉に気持ちを乗せやすい。それを活かした音作りがされた曲、演奏は、見事としか言いようがない。
 特に注目したのは最後の数小節。各パートが全く違うリズムで動きながらも、最後には美しい和音に収束する。毎回この部分をどのようなバランスで、どのような表現で演奏するかが気になってしまう。
 今回さすがだと思ったのが、テノールが「大切なものは全部」の最後の音を自然に溶け込ませたところ。あえて独立したまま残すこともできるが、今回は溶け込ませるという選択をしたようだった。それがとても自然で、とても気持ちよく最後の和音に没入することができた。

 実は、演奏会の中で一番うるっときてしまったのが、その後だった。全てのプログラムを終えて、会場を去る間際。最後の最後に、団員の皆さんがマスクをはずしたのだ。そう、ここまでの演奏は、今ではよく見られるようになった、合唱用のマスクを着けて歌われていた。だから、ここまでは団員の皆さんの顔は目元しかわからなかったことになる。
 歌を歌うときに口元を覆うことは、どう考えても影響の大きいことだ。それが新しい日常として、受け入れられるようにはなってきた。
 しかし、改めてマスクをはずした姿を拝見し、思ったのだ。また、マスクをはずして歌えるようになってほしい、素顔で歌えるときが来てほしいと。マスクで覆うということは、単に声がこもるばかりではない。表情を奪われ、自己表現を奪われてしまってもいる。それは、音響的に直接影響を与えるだけではない。表現を制限されるということは、全ての表現者にとっては、とても大きなことなのだ。

 演奏会全体を通して、とても慈愛に満ちた、心地の良い空間を味わうことができた。ぜひとも次回の機会も聴きに行きたいと思える演奏会だった。

サポートしていただければ嬉しいです!