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幸せの解像度

タワーの上で愛猫がニャーと鳴く。ご飯の時間でもないのに、目が合うと何度もニャーと鳴いてくれるときがある。反対に、こちらが何度呼びかけても、少し尻尾を振るだけで全く返事をしてくれないこともある(猫は面倒なときは尻尾で返事をする、と聞いたことがある。彼なりの精一杯のジェスチャーなのかもしれない)。

今はニャーと話しかけてくれるときらしい。「何を訴えているか、分かるといいな」と思いながら、タワーに近付きながら、「はいよー」と答える。すると、一度ゆっくり目を瞑って、また「ニャー」と鳴いてくれた。

心の中で幸せがじんわりと広がり、僕は微笑んだ。「あれ、僕はこんな風に笑えるんだっけ」と突然不思議に思った。気がつけば、視界がぼやけてた。驚いた。僕は笑顔になりながら、鼻水をすすって泣いていた。



数年前、当時の職場で、「誕生日おめでとうございます」と、二人の同僚がお菓子をくれた。職場では「置き菓子専用の簡易商品棚サービス」が設置されており、100円、150円でお菓子を買えた。同僚はそこからお菓子を買って、僕にくれた。

「ありがとうございます!」と言って受け取ると、「もっと喜ぼうよ」と、苦笑いをしながら上司が言った。学生時代に「無愛想」と形容されるような僕だったけど、お菓子を貰って喜んでいたつもりだったし、本当に嬉しかった。でも、表情や声色、ボディランゲージは無機質だったようだ。

感謝や喜びを表現するのが下手な、ただの無愛想な人間だったのかもしれないとも思ったが、振り返ると、僕はこの時期あたりから鬱の症状が少しずつ始めていた。正式に診断されるのは少し後だったけど、一度カウンセリングで相談したこともあった。

その頃から、段々と笑顔が少なくなっていたのだと思う。通勤電車でうなだれる毎日。いつも元気で陽気なタイプではないけれど、職場の人も僕が暗くなったと感じていたと思う。

僕自身は、「最近笑えなくなったな」とか、「喜びや楽しみが以前よりも薄れているな」と、当時から明確に意識できていた訳ではない。ただ、大好きだった読書や映画鑑賞ができなくなっていた。集中力が続かないこともそうだが、嬉しさやワクワクを感じるセンサーは、確実に衰えていたんだと思う。

「鬱は、灰色のサングラスをかけているみたい」と誰かが言っていた。鬱になって、(「視力が落ちる」とは違うんだけど、)「意識を向けられる範囲が狭まる」「物事への注意力、観察力が落ちる」という感覚が確かにずっとある。

「視界には入るんだけど、『気付き』にまでは入らない」という感じかもしれない。「マインドフルネスに欠ける」という表現が正しいのか分からないけど、頭の中が常にざわざわして、脳が重たく感じる。世界からカラフルさが奪われ、灰色の空気をまとっているようで、全てがどんよりと感じる。



今、愛猫がゆっくり目を瞑りながら、「ニャー」と僕に何かを訴えかけている姿を見て、「僕は大丈夫になりつつあるのかもしれない」と思い、涙を流した。幸せを、幸せだと感じられるくらいに、少しずつ回復しているのかもしれないと思った。

長い間ずっと、全く笑っていなかった訳ではない。嬉しいと感じる瞬間も度々ある。でも、愛猫の表情と鳴き声を観察したときの幸せの解像度は、全く次元が違った。

今目の前にある幸せと、「僕もこんな風に笑えるんだった」という嬉しさが混ざり合って、温かい気持ちがじんわりと心に染み渡る。「本当に嬉しい時、こんな感覚だったっけ」と驚く。もしかすると、こんな気持ちになったのは、数年ぶりかもしれない、とさえ思った。

灰色のサングラスを外せた訳ではない。今でも、過敏になって外出が怖くなることがある。朝起きたときに「こんなにも強烈な憂鬱や倦怠感が続くのなら ......」と考えてしまうこともある。

それでも、「大丈夫そうだ、何とかやっていけそう」と思える日が増えたと思う。そして、愛猫と目を合わせたときに感じた幸せ、不意に現れた自然な笑顔、流した涙は、ずっと記憶に残って、僕を支えてくれると思う。

まだまだ改善したいことはあるけど、今はまず大丈夫になりつつある事実を享受したい。「頑張ってくれて、逃げてくれて、ありがとう」と過去の僕に感謝したい。そして、一緒に暮らしてくれて、「ニャー」と何かを一生懸命訴えかけてくれる愛猫に、感謝したい。

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