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考えることって言い換えること

考えられるようになりたいなと思う。なんか、思考が深い人って輝いている気がする。なんだろう、どうやったらそういう風な考え方、そんな角度で物事を見れるんだろうって憧れが大きい。今まで誰も考えことのないような切り口を持っていて、すごいなと思う。編集力とでもいうのだろうか。

本を読んでいて、ある表現に出会った。「考えることは、言い換えること」という表現。なるほど、と思った。考えることは、問うこと、問いを立てること、という考え方はもうある程度はインストールされているような気がしたが、問いの向こう側を考えることって、たしかに、言い換えることだなって思った。

発信の種類

まず、少し発信の種類について説明したい。インフォメーションとコミュニケーションである。インフォメーションは、情報の伝達のみである。何かの情報が伝えられればいい。いつ、どこで、誰と、みたいな、待ち合わせで使われるような情報、デパートのグルメマップみたいな情報の整理の仕方、相手に正確に伝達されればいい。正確に、がキーワードかもしれない。

対して、コミュニケーションは、感情が乗っかっている。ロジックだけじゃない。ある一定の粒度の具体情報だけじゃない。そして、目指しているのは、正確な情報の伝達じゃない。人の心を動かすことである。人の心を動かして、考えたり行動したりに繋がることを目指している。そして、「考えることは、言い換えること」という切り口は、ここに大きく関わってくると思う。

ちなみに少しだけ断っておくと、インフォメーションで「考えることは、言い換えること」が適用されない訳ではない。待ち合わせのとき、どの場所で待っているかを伝えようして、どの言葉を使うか、考えることがあると思う。どっちの方角に対面したときの情景で伝えようか、そもそも相対性を方角で伝えることで正確に伝わるのか、見えてる情景をどれくらいの濃度で伝えようか、どの物体を目印として使おうか、など、自分が最初にパッと思いついた言葉以外の表現に言い換えようと努めると思う。言い換えが、必要になる。

考えることは言い換えること

しかし、コミュニケーションだと、その言い換えの、度合というか、粒度というか、角度というか、深さというか、それが大きく異る気がする。

例えば、りんごが目の前にあるとする。「りんご」という言葉にした時点で抽象化されてしまっているが、具体の、目の前にあって光の反射で形とか色とかが知覚できている、あのりんごである。

このりんごを対象として、情報の伝達として言葉に置き換えると、「りんご」としかならない訳だ。他にも位置とか存在を示したいなら、これを文章にして「りんごが机の上にある」とか「これはりんごだ」とかそういう表現になるはずだ。

でももし、相手の感情に訴えかけたいとする。心を動かしたいとする。そうした場合、感情を乗っける必要がある。「自分にとってのりんごとは何か?」「相手にとってのりんごとは何か?」と、言い換えられる言葉を探さないといけない。この作業がまさに考えるということ。そして、考えるのが得意な人はこの言い換え作業がとてもうまい。

ここで、言い換え作業とはどういうことかを説明したいと思う。「りんご」を他の表現に言い換えるなんてできる訳がない、と考える人もいるかしれない。そう、たしかに、辞書的な意味では、このようなより具体的な名詞は、言い換えが難しいと思う。抽象化させてより多くのりんごに近い概念を1つにひっくるめて言葉にできるかもしれない。具体化させて「りんご」よりもっと細かい果物で言い換えられるかもしれない。でも、ここで言っている言い換え作業というのはそういうことではない。

りんごとは何か?

先程少し書いたが、「りんごとは何か?」を考えるのである。定義ではない。何を象徴するかを考える。どのような価値や感情を与えてくれるかを考える。りんごそのものについて話すのではなく、ある人が見たときのりんごの印象や捉え方、その切り口や角度で言い換えてみるのである。

例えば、こんなエピソードがあったとする。水泳教室に通う小学生。水泳はあまり好きじゃない。先生もこわい。疲れて家に帰ったとき、親は仕事ででかけている。でも、いつもおばあちゃんが出迎えてくれた。そして、おばあちゃんは、いつも、リビングでうさぎの形に切り分けられたりんごを出してくれた。笑顔で、話を聞いてくれた。たまに、テレビで好きなアニメを映してくれた。身体的な疲れや心の重みが、いつの間にか少し和らいでいた気がした。

この小学生にとって、りんごはただの「りんご」ではない。りんごには「りんご」以上の価値や意味や感情がある。りんごに象徴している何かがある。癒やし、解放、優しさ、区切り、自由、褒美など、その小学生のレンズを通すと、いろいろな概念とネットワークが繋がっているかもしれない。その中のどこかの切り口で「りんご」を切り取って、言葉にする、言い換える。これが僕の言っている、言い換え作業である。

例えば、他にこんなエピソードがあったとする。日夜仕事で疲弊している会社員。体調を崩し急に入院することになった。急なこと過ぎて、自宅のああだこうだも放ったらかしでの入院となってしまった。食欲もない。仕事もできない。特にすることもない。ボーッと窓の外を眺める日々が続いた。体調が回復しても気持ちは晴れない。陰鬱なままだ。何とか退院して帰宅した。机の上にりんごが置いてあった。でも、水分が抜けてシワシワになっている。カビが生えている。一部分は、白と赤銅色と茶色と緑色がぐちゃぐちゃに混ざって陥没している。そうだ、また明日から、前と変わらぬ日常だ。

この場合、先程の小学生と違って、全く異なる感情がりんごと紐付いている。陰鬱さかもしれない。変わらない日常への疲弊かもしれない。取り戻せない時間への無念かもしれない。要は、「りんごとは何か?」が人によって全く異なるものを象徴しているのである。言葉に乗せたいエモーション、相手に感じ取ってもらいたい情緒、それらによって言い換える切り口が全く異なるのである。

さいごに

僕の言っている「考えることって言い換えること」のイメージがついただろうか。考えるのがうまいは、この言い換え作業がうまい。言い換える切り口を沢山持っているし、言い換える切り口を目的に合わせてうまく想像できる。そして、この言い換え作業がうまい人は、人の心を動かす。行動させる。感動させる。びっくりさせる。共感を生み出す。

僕は、このような言い換え作業は、語彙力や表現力が大事だと思っていた。もちろん、ある程度は大事だし、あって損はない。幅が広ければ、よりいい。でも、もっと大切なのは、物事をどう見るか、相手の物事の見方を鮮明に想像できるか、穴があくまでその物事の本質とにらめっこできるか、この角度や視点、思考力である。編集力である。

これに長けて、より多くの人々の心を動かす人が、コピーライターとか文筆家だ。彼らは、物事の本質を見極めるべく、壁に穴があくほど思考をしている。泥臭く血眼になって本質を探している。そういう人たちに憧れをもっている。もっとうまく考えられるようになりたいなと思う。いっぱい思考しよう。いっぱい言い換えてみよう。

考えることって言い換えること。こういうことだ。大事な気付きだった。

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