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しんどかったケド優しさを自分に向けることでup体重はdown

小説でも漫画でもドラマでも、熱で動けない大切にな人に食事をつくりに押しかける場面ってあるじゃないですか。枕元に、アツアツのお粥を持っていく場面。「卵いる?」とか。

その場面を何回もみていて、羨ましがっていました。それに、人って大切な誰かには自然とそうしたいものだよなと共感していたのです。ではそれをしたことがあるのかと問われれば、ないです。あまり料理をしてこなかったこともあいまってこれまで一度も、誰にも、それをしたことがなかったんですね。

その誰にもしてこなかったことを、先日はじめて自分にしました。
絶食でふらふらの自分につくってあげたのです。


その絶食というのは、胃腸が不良になったことで夜間病院へ行き薬をもらってから、いろいろ経て3日間くらいファスティングに突入し、水と寝るだけの生活になったことがあって。「食べられない」ではなく「食べない」しか方法がない症状です。食べて解決してきたことが多いせいか、それは未知の領域。その辛いトンネルを抜けて、さぁ這いあがろうというときに消化のいい食事が必要になったんですね。それで自分に作ってあげることになりました。

ようやく食べられる身体になったとはいえ、エネルギー不足のせいもあって身体がゆらゆら。なぜか盛大な頭痛がある。その手で鍋をつかむ。食欲はないのです。少しでもと看病食を自分で作り始めました。

このとき、これまで何でも自分でやる子に育てられてきたけれど底辺に情けなさがよぎります。そこで一句。


クツクツと
カラダとりまく
蜃気楼

暖かくなる 温かくなる


外は猛暑。
朦朧として時間も季節もなくなるのが病床ですね。


ただ初めて感じたことがあった。それは自分にやさしくするという実感。不安の棘を、温めるような気遣いで抜き取って真っ向から包み込む柔らかさ。そういうの、これまで自分へは向けてこなかったかもしれないという実感です。「自分で自分を温めてこなかったわ」という腹オチでした。

「重湯(おもゆ)」って作ったことありますか? 

手術で入院を経験された方だと病院食で口にしたことがあるやつです。お粥の上澄みで具にあたる米粒を省いた白濁したお湯のことです。

私は、その日まで「重湯」と「お粥」との区別がそんなにできていなくて、「重湯」を作ろうとしていったん思考停止しました。あれ?「お粥」じゃないってどういうことだっけと。調べれば作れるわけですが、知ってるつもりで知らなかった。作ったことがあるようでなかった重湯。それだけ健康だったのかな?とか、家族がみな健康だったのかな?とか思いました。

作りながら感じた「あ、なんでこんなに優しい気持ちをこれまで自分には向けてこなかったんだろう?」という気づきは、炊いたふにゃふにゃの米粒その「ひと粒さえよけてあげないといけないから」と丁寧に重湯を掬いとるときに発見しました。甘やかすことと優しくすることは違うじゃないですか。できるできないじゃないし、つくれるつくれないじゃなくて、自分にそこまでしてきてあげてたか?と。自分を甘やかすようなこと、そういうことはたくさんあったけれど、全力で労ることはなかったかもしれないと思ったんですね。

胃腸が頑丈な家族。そこで育つために子供時代に身につけた古い習慣を捨てて、自分に合った胃腸に優しい新しい習慣をもっと人生に生活にみっちり落としこんでいきたいと思いました。

この時期、医療機関が混乱しているのが本当なら、このカオスにまぎれて適切な診療も診断も受けられずに入院や手術へたどり着けないかもと心配になりました。実際、右往左往しました。症状が緊急事態(救急車を呼ぶとか)になるまで門がきれいに開かないイメージでいました。その前に、そこまでじゃないけど自分の足で行けるけど普通じゃない痛みの場合、夜中に受け入れてくれる病院へタクシーで行ってとなると、その後の病院渡りがパッチワークのよう。だから検査データだけが病の証拠品。自分では診断できませんからね。でも結局、自分の体の声に敏感になるしかないんです。それに応えて早めに動き、よく考えて判断していくことの連続になりました。引越し多くても今は特に「かかりつけ医」大事かも。ちょっと今までよりサバイバルでした。これは機能不全といってもいいかもしれません。

出来上がった重湯をオタマでくるくるしているとき、胃や腸にむかって「どのくらいならいける?」って、仕事の依頼するみたいに消化できるほぐれ感や分量を打診しました。内臓だって考えがあるはずです。「お腹すいた〜」を合図に口からジャーって流し込まないで、ちゃんとわかってあげたくなりました。牛乳飲めるようになっても噛んでます。

誰かの優しさを待つよりもとおもうけれど、人によって100%の優しさを自分に向けることは難しいことなのかもしれません。たとえば自己愛との区別が難しく、脳が勝手にスライドさせそう。自己愛は何かあると、より傷つかないために自分を甘やかし誰かのせいにするじゃないですか。そうではなくて「丁寧に生きる」につながるように「傷ついた自分の心」も掬いとる、受け取るのが優しさですかね。強さも伴うし客観的になることに通じることだと思います。そうやって100%の優しさを自分に向けることができたなら、誰かに何かを求めずに同じ仲間を求めるようになるのではないでしょうか?


この一連の出来事が一週間くらい、予兆からすると1ヶ月くらいだったのですが、なんと体重が−5kg達成しました!副産物!
以前書いたダイエット目標の記事はこちらです。

ワンサイズ変わっただけで着られる服がどどんと増えて、鏡の前に立つのが楽しいです。もう古いので、外で着るかな…?というのはあるけれど、プチファッションショーをしています。これで捨てるものと捨てないものとの仕分けが逆にできるようになりました。


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