見出し画像

【310】(欲望を)読むために(欲望を)書くこと/一問一答的な読みで満足していませんか?

要するに人生の秘訣というのは、「自分の欲望を知る」こと、ないしは「自分の欲望に対して納得のいく表現を与える」ことにかかっています。正確には、納得の行く表現を作っては壊し、作っては壊し、というプロセスです。そんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


さしあたり納得のいく表現が提示されたのであれば、そうして表現されたものに向かっていくための筋道を論理的に立てて実行していけば良いだけの話ですから、ほとんど苦労することはないでしょう。

そして、欲望に納得のいく表現を与えるということは、常に可変的であるところの自らの運命——つまり自分の過去と未来——に対して、無数の可能なヴァリアントのうちのひとつをさしあたって与えるということでもあります。

実にこの作業の現れは、例えば太宰治の『人間失格』に、あるいはモリエールの『人間嫌い』に見られる通りです。太宰はもちろん自らの過去を変奏して作品にしたのですし、研究者が指摘する通り、モリエールが『人間嫌い』を書いたのは、モリエール自身が社交界においてどのように生きることになるのかを測定するための一個の未来向きの自伝でした。

実にあらゆる自伝の作業が持つ機能は——ルソーであれ漱石であれ三島由紀夫であれ——、欲望とその運命に対する無数の説明のうちのひとつを与えようとする、運命に対する整合的な表現のひとつを掴み取ろうとすることであると考えられます。

自分がそもそもどうしたいのかということも含め、自分がどこへと歩んでゆきたいのか、どこへ歩んでいくべきだと考えられるのか、自分の過去はどういった意味を持って、どういった方向へと押し流しているのか、ということを描き出し、当座の——永遠に「当座」のものにすぎません——納得と指針を得ようとする試みとしての側面を持つということです。


こんなことを言っていると、「自分の欲しいものなんかわかってるよ」とか、「自分の行きたいところなんて分かってるよ」とか、「自分の過去に対する意味付けなんてとうの昔にできているよ」などと言う人もあるのかもしれませんが、そんな人はあまり多くないのですね。

欲望が仮に見え透いたものであるのであれば、沈思黙考していても何が欲しいかということはすっかり分かるはずで、そこから全てを展開させていくことができるはずですが、実際にはそうはいきません。

あるものを欲しい欲しいと思いつづけて、あるいは言いつづけて、しかしそれを実際に与えられて初めてそれがいらなかったということに気づいた、というご経験をお持ちかもしれません。

あるいは、欲しいと思ったことも意識したこともないものをもらったり、手に入れたりしたときに、途方もない喜びに晒されて、自分はこれが欲しかったのだと気づくこともなくはないと思います。

人間は、概ね欲求には忠実ですが——もっとも、私のように食欲と睡眠欲を弁別するのに難儀するような者もありますが——、欲望に対しては極めて鈍感であって、それを明晰にするということはどれほど鋭敏な人であっても極めて困難ですし、明晰にしようとするプロセスのなかで、その対象としての欲望はおおいに姿を変化させます(量子力学にひきつけた軽薄なアナロジーは導入しないことにします)。

様々な人と話し、様々な本を読んで、様々な学問領域に触れて初めて、自分の欲するところに漸近し、その欲望に納得してゆくことができるのではないでしょうか。もちろんこれは、発見の過程であるとともに、変化・変容の過程でもあります。

たとえば、生まれたときから士業——単なる例なので、「社長」でも「YouTuber」でもなんでもよいです——を志している人はまずいないわけで、人生のなかでいくつかのステップを踏みつつ、ときには資格・免許を得た後になって初めて、その資格や免許を活かす者としての自らの運命を、(納得ずくで)欲していると思うようになるわけです。

自分が何を欲しているのか、ということについて明晰判明な知識に至ることが永遠にありえないとしても、また明晰さは得られたと思われる瞬間に逃がれ去るものであるとしても、少しずつ、自ら避けがたく変化しつつ、納得してゆくというプロセスは、無限に反復することができるのではないでしょうか。

もちろんこの「納得」は、永遠に確実なものにはなりません。欲望を追う作業は、コヘレトのたとえを借りるなら「風を追う」ように虚しいものかもしれませんが、あなたが誠実である限り永遠に続きます。納得しては疑い、疑っては納得するということです。

「私はこれをやるために生まれてきたのだ」「私は見つけたと思う」などと思うことが一瞬あるにしても、それを常に疑いにかけつづけるのが、永遠に変化しつづける自らの欲望に対する誠実さというものでしょう。それに、説明しつくすことができない・納得したところで常に揺さぶられる可能性がある、ということにこそ、私たちが変化してゆけるという可能性が、つまりは外界の変化に対応できるという希望が存するとも言えます。


この作業は、現実的には、言語によって遂行されます。言語によってかたちを与えては修正する、という作業によってです。

バカバカしく見えるかもしれませんが、こうした作業が大切です。

繰り返すなら、私たちは多くの場合、自分が何をしたいかとか、何をしたくないかとかいうことについて明晰判明な知識を持っていると誤解しがちです。

しかし、そんな思い込みは正しくありません。

本を読めば本の内容を理解できる、と思い込む人が多いことにもよく通じます。仮に私たちが本の内容を読んで理解できるのだとすれば、たとえば現代文の試験においては全員100点で全員共通の回答を出せなければいけないわけですが、実際にはそうはなっていないわけです。そして、本を皆等しく正しく読めるのだとすれば、テクスト解釈というレベルで数百年あるいは数千年単位の抗争が続くわけがないのですし、何かを「解説」する必要もないわけです。私たちは実に、ものを中途半端にしか読めないからこそ、少しずつ読みを積み重ね、その成果を書いて継承することしかできないのです。

普段から私たちは自分の外部にあるものばかりに目を向けて、そうした対象をよく読んでいるわけですが、そうして親しんでいる外的な対象、外的なテクストについてすら、私たちの理解は極めて限定的です。

まして、普段皆さんが向き合おうとしない自分自身というテクストを、そう簡単に読み解ける(読み解けている)はずがないと思いませんか。


こうした否定的言明を経て、じゃあ読むにはどうすればいんですか、という話になりますが、読みまくり、また書く必要があります。

ただ向き合う、だまって読む、というだけでは読めるようにはなりません。決まった自分の文脈があるとして、そこに引きつけて「活かす」ためなら簡単です。自分の文脈を重視しつつ対象を切り貼りするというだけで足ります。そこに思惟はいりません。何か決まった自分の有用性のために読むのであれば、頭など使う必要はほとんどありませんし、ほんとうはものを読む必要もありません。

が、あくまでも対象の文脈を重んじつつ、単に表現に漸近するために読もうとするのであれば、対象について書く必要がありますし、この作業は、ことに自分の欲望という決定的な他者について知りたい場合、つまり何ら基盤が決まっていない中で、意識しうる範囲から下されかねない臆断を排除してことを進め、当座の基盤を策定しようとする場合、決定的に重要です。

そうした不確かな対象を読む場合、それについて書くことは、ぼんやりとした意識の支配を排除して、何重ものcritiqueに晒しうる形をあたえる、という点において決定的な意味を持ちます。

読んで頭のなかにふわふわと渦を巻く理解は、そのままでは極めて脆弱です。とりあえずかたちを与えなければ、読みの妥当性や弱点を判断することもできません。書きくだされて、あるいは表現されかたちをあたえられて初めて、その読みは、不完全さも含めてその姿を開示します。書いてみるということで、自分が何をどこまで分かっていて、どこからはわかっていないのか、を判定し、読みを進めていくための最低限の前提が与えられるということです。


書くことで理解が進む、ということについては、皆さんも経験があることでしょう。

受験などで、特に歴史が暗記科目だと言われがちなのは嘆かわしいことですが、多くの大学の入試問題が(やんごとなき事情から)一問一答形式になってしまっているのは事実です。いきおい、特に私立大学文系の受験に対応するということになると、一問一答の設問に答えることを最終的な目標にすることになりがちです。

そうした場合であっても、記述式の問題を念頭において訓練する・一問一答の逆をいくことは重要です。単語や年号を答えとして提示するのではなく、文章による説明をおこなうための訓練を積むこと。あるいは、提示された定義で説明される語句を答えるのでなく、ある概念の定義を述べるための訓練を積むこと。書いてみて、解答や教科書や参考書を見て、確認する。何も見ずに書き直してみる。また修正する。……こうした訓練は、自らの知識や理解の穴を明らかにし、自分はわかっていないということ暴き出すだけに、キツいかもしれません。しかし極めて重要です。対象に関する理解の精度は飛躍的に向上します。

自分が読めている・分かっていると思っているものも、それについて書いてみる・表現してみる、というプロセスを経ることで、自分がいかに分かっていないかを思い知ることができるのですし、そのプロセスを通じてこそ、対象に関する理解も思わぬかたちで深まるというわけです。

そして、この「書いてみる」「そしてチェックする」という作業は、とりもなおさず自らの欲望が問題になる場合に極めて重要であるように思われるのですね。

繰り返せば、私たちは自分の欲望などというものは見え透いた・分かりきったものだと思いがちですし、あるいはそんなことすら意識しないのですが、実のところ全くそうではない、私たちは自分たちの欲するところなど理解できていないわけです。この事実が腑に落ちるのも、表現を重ねるなかでのことでしょうし、理解し尽くす・明晰に全て見えるようになる、ということはありえないでしょう。

とはいえ、あるいはだからこそ、この欲望の表現に彫琢を施すプロセスを永遠に積み重ねることにこそ、重要な価値が眠っているのではないでしょうか。

もちろん、満足を得るために重要だとか、金を稼ぐために重要だとかいうことでは、決してありません。

そんな下らない——はっきり言いますが、下らない——レヴェルの話は、ほとんど問題になりません。当座のものでしかない納得を、しかし当座のものとして突き放してとらえながら、誠実に積み重ねつづることの重要性はもはや前提されます。こうして基盤を問いつづける作業を、いったい既に認識できてしまっている範囲から捉え返されている「満足」などという極めて低いものへと従属させる感性は、少なくとも私には理解しづらいものです。人間はもちろんすすんで苦しむ必要はないと思いますが、満足とか快楽とかいうものを超えて信ずべきものがあるのではないでしょうか。

……とはいえ、仮に歩む方向さえ見えずに途方に暮れているのだとすれば、少なくとも当座の方向を定めるために、欲望を書き、書かれたものを通じて読む作業は、「役に立つ」のかもしれませんし、この点から言っても、ほどほどに欲望を探求することは必要となるでしょう。おそらくは(最低限以上の)健全にして豊かな、最大公約数的なものを上回った生活は、欲望を無限に探求することの前提を成すからには。

■【まとめ】
・人間には自分の欲望など見えない。とはいえ漸近することはできる。それは言語によってである。

・言語によって欲望に当座の表現を与え、それを疑い、さらに適切な表現をあたえる、というプロセスにおいてこそ、欲望と運命が変容しつつ姿を表すのではないだろうか。

・そうした欲望との追いかけっこは、それ自体のうちに至上の価値を持つと思われるが、当座全く途方に暮れている人間が「有用な」方向へと歩み出すためにも必要であると思われる。